ポエムではありません(ヤクザへの羨望)

この世の全てが欺瞞であることを嘆くことに疲れ、それがさも当然かのように振る舞い始めて数年が経った。自分の言葉はもとより全てが嘘であり(ちなみに全てが嘘であるというのはパラドックスである)、ついに自分はそれを受け入れた。「誠実さ」についてもあまり考えることがなくなったのだ。誠実さについて考えない方が誠実とすら思っている節が今の自分にはある。

 

あれほど嫌いだった「バランス」という概念に、今や自分は「生活」を恵んでもらっている。うまくやるには、嘘に適度に本音を混ぜ、不満を言い、他人のせいにすることが必要だ。そんな「FAKE野郎」の悪臭を、いつまでも続く不毛な争いの中で自分の脇の下あたりからプンと漂わせることが、大人になるということである。と、少なくとも今の自分は思い込んでいる。

 

エンジニアリングにせよコンサルティングにせよ、趣味の資料読み(※読書という言葉は使わぬ)にせよ、家事にせよ、自分は「効率よく進めるための作法」みたいなものをやっと習得しつつある。ここまでたどり着くのにはとても長い時間がかかった。

抽象化せよ、内容に拘るな、「相手が何を生理的に嫌悪しているか」を読解の起点にせよ、読解したものをイシューにせよ、イシューから始めてストーリーにせよ、それが競争戦略だ…などなど。

考えなくてもそのように身体が動くようになってきたし、「自動的に動く自分の身体」にもあまり違和感や葛藤を感じなくなってきた。それは自分が元々の「自己実現像的憧れ」を達成しつつあり、同時に繊細な思考ができなくなっているということの証左である。「繊細さを失うことへの後ろめたさ」という繊細さすらも手放しつつ。

 

仕事や家事の他に特にやることもないので、月に2〜3万円ぐらいは本を買うようにしている。しかし、山のように積まれた本からも、何も学ぶことができなくなってから、一体どれ程の時間が経っただろう。否、自分がこれだけ本を買ってしまうのは、むしろ「何かを読んでも何も学べない」自分の無力が理由である。自分は、何も理解できないし新しくなれないから、読んでも意味のない本を買って、目を通し、あたかもそれを有効活用したかのようなクソみたいなアウトプットにまとめて、それらをすぐに閉じてしまう。自分は本を読めないから本を買い、本を買うから満足するということだ。非常に資本主義に馴染んでいるではないか。

 

手取りが一定額を超えたあたりから(といっても、今でも別に満足できるような額ではないが)、自分がかつて何に悩んでいたのかを感覚的に理解できなくなった。代わりに何か得たわけでも頭が良くなったわけでもない。でも「凄み」みたいなオーラは少しついたのかもしれないと、自分には期待している。きっと自分は将来、愚かさと単純さを極め、豚の糞みたいなにおいを漂わせ、「純粋な暴力行為」になったヤクザの頭みたいになりたいのだと思う。

 

それほどまでに思考が単純かつ低レベルになった自分は、上記のような表面的な憧れからそのまま「連想」をして、最近新たな趣味としてヤクザ映画を観るようになった。しかし、ヤクザたちのあまりの「何も考えていなさ」に、毎度毎度ゲラゲラ笑ってしまう。とはいえ、これが自分の憧れの形式なのだと思う。だって自分がこういうふうについ論理的に見下してしまうという限りにおいて、彼らはまだ自分からは遠い存在なのだから。

 

大抵のヤクザの物語は悲劇で終わる。それは愚かさを純粋なものにした当然の帰結である。大抵のヤクザは地獄に落ちる。地獄に落ちることは救いであり、地獄は名誉天国なのである。