実は開会式の文脈を創造してしまった例の音楽

 

 

 先日のオリンピック開会式で、ドラゴンクエスト』などのゲーム音楽が使われたことが話題になっていた。ネット空間には、それらのゲームで青春を過ごした人々による絶賛と、少しばかりの憤怒が噴出したようだった。

 

 

youtu.be

 

 だが、そもそも、「人の行為の裏に音楽が流れる」というのは、一般的にいかなるものなのか。そしてとりわけ今回の「人間の行為と音楽との関係」は、どのようなものだったのか。

 

 筆者は大学時代、また大学を卒業してから少しだけ、舞台音響をやっていた。その観点から、開会式のあの場面はどういうものだったか、ということの考察をしたく思い、記事を書いてみることにした。プロとして舞台音響をやっているわけでもないし、アマチュアとしても現場からは2年以上離れているため、的外れなことが多いかもしれないが、とりあえず論旨の限定と読みやすさを心がけた。また文献を詳しく調べて裏取りをしたわけでもないので、論理的な不整合もありうることをあらかじめご了承いただきたい。

 

[ 目次 ]

 

 

本記事で扱わないこと

 

 前提として、私は開会式、特に選手入場の演出についてかなり否定的な印象を抱いている(嫌悪感が強すぎて、実は最後まで通して見ることができていない)。

 

しかし開会式それ自体や、そこでゲーム音楽が使われたこと自体に関してはすでにある程度まとまった不満がネットに噴出している。「不満」として自分が言いたかったこともほぼ全て言い尽くされた感がある。代表的なものが以下の記事である。

 

www.gamespark.jp

 

 ここでは一歩話題をステップバックさせて、そもそも音楽が流れるとはどういうことかという話から、今回のシーンを考え直してみること試みたい。そのため以下の論点はあえて直接的に扱わないこととした。これらの論点についても言いたいことは山ほどあるが、組み込もうとしてしまうと論点がブレてしまいそうだからだ。

① 作曲者のレイシズム的バックグラウンド

ゲーム音楽の政治利用の是非

ディレクションや制作のガバナンス、起用と除名の一貫性

etc...

 

 また話を簡素にするため、扱う開会式の場面も「ギリシャ選手団の入場」の場面に限定する。

 

 

舞台で音楽が流れるとはどういうことか

 

 まずはこのことについて考えてみよう。だが一言で音楽が流れるといっても、実は色々なパターンがある。

 

 演劇の歴史に比べれば、今風の舞台音響の歴史は短い。スピーカーというのは、言うまでもなく近代のテクノロジーである。効果音を自由につけられるようになったのも、音楽を自由に流せるようになったのも、つい最近のことである。とはいえ、例えば軍隊の行進曲やオペラ、ギリシア演劇のコーラスなど、音で人の振る舞いを裏付ける仕組みは昔からあったとも言える。

 

www.jafra.or.jp

 ただいずれにせよ、音楽が流れるというのは、一つの「異常性」であることには変わらない。自然界、あるいは社会において人間が日常的な生活をする場合に、突然その人の心情や人生や人間関係に沿った音楽が流れるようなことはない。

 

 その異常性は、舞台上でしか折り合いをつけられないものだ。舞台が虚構であることは、それが舞台であるという規約によってのみ担保される。そこで音楽という異常性はどのように働くか?ー舞台は音の異常性を虚構の空間に逃がし、また逆に音の異常性をもって「それが虚構である」というルールをつくるのである。

 

 さて、舞台で流れる音楽は、具体的かつ抽象的である。どういうことだろうか。いささか単純すぎるかもしれないが、一つの例を挙げる。まずは以下のセリフを読んでみる。一人の役者が、堂々とプレゼンをする風に話す。

えー、私は憲法改正、賛成です理由はまあ、いろいろありますが、憲法を変えるということは、日本が新しくなるということです。新しいことはいいことです。   

 

 ここで、先程のセリフの直前に以下のTED Talkのジングルが流れたらどうなるか。例えば以下の効果がもたらされると考えられる。

  • 現実をモチーフとした、比較的日常性の強い空間から、虚構の空間に一時的に移動する
  • TEDという具体的なパロディをシュール用いることで、中身のないことを堂々とプレゼンするという身振り自体を異質に見せて、批判する
  • ごく短く流し、役者の声には被せないことで、あくまで場面転換のためだけに音が流れる(逆に言えば、日常空間では音が流れない)と言う演出上の規約をつくり、またそれを守る
  • etc…

 ちなみにこの音響は極めてベタ(高校演劇などでありがち)な例だが、当然ながら大抵の場合はより複雑で抽象的な「音の使い方」を音響のデザイナーは管理していくことになる。

 

 このように、音楽にはいろいろな意味を階層化し、読み手の視点のレベル感を調整する役割がある。

 

 先ほど述べたシーンの出典は以下の動画だ。例えば最後のシーンのクラシック音楽も「高校演劇的」なBGMの使い方であるが、それはこの劇自体の設定(高校の文化祭でロミオとジュリエットを演じるという設定)とリンクさせるため、「あえてそういう流し方が選ばれている」のである。

 

www.youtube.com

 

 一般的に、演劇であれなんであれ、BGMというものはシーンの雰囲気や意味に合ったものが選ばれ、シーンを「補強」するものであると考えられることが多い。

 

 しかしそれは、些か穏便過ぎるイメージである。そのイメージには、先ほど述べた「抽象性」が欠けている。実際には、役者が立つ舞台に音楽が流れるだけで、シーンの意味が全く別のものに変質するだけでなく、作品の位置付けや作品と読み手の関係、音が鳴るということの定義、キャラクターの現実性の度合いや台詞回しとの距離感など、かなり多くの「見えざるパラメータ」を強引に規定してしまうのである。

 

 

 

ドラクエの音楽でギリシャ選手が入場したことについて

 

 ビデオゲームのBGMは、演劇のそれとは異なり、「異化」ではなく「自然化」や「臨場感」を志向している。テレビから音が鳴っていると言う事実は隠蔽され、初めからそうでなかったかのような錯覚をプレイヤーに被せることを目的としているのだ。

 

 生身の人間と限られた資材で作られる「舞台」と違って、ゲームはたくさんの、実質的に無限に近いイメージを供給することができる。たとえばあるファンタジーゲームの音楽がオープニングで流れる時、それはモンスターの息遣い、街の活気、秘境や魔境の不気味な魅力ともセットになっている。そして物語も多くの場合、一枚岩の勧善懲悪ではない。むしろ正義のあり方はストーリーの中で繰り返し問われ、プレイヤーは登場人物が葛藤を抱えながら進むことに共感・没入感を覚えていくのである。

 

 もちろん世の中にはいろいろなゲームがあるので、上記はただの一例だ。この記事において大事なのは、音楽の意味の一つ一つの内容ではない。そうではなく、ゲームと舞台の間に、「できること」や、「できることと音楽との関係」にどのような違いがあるか、という点が重要である。

 

 さて、ビデオゲームの場合とは対照的に、オリンピックの入場というイベントは、セットとしては極めて演劇に近いものである。舞台は、ゲームや映画などと比べて、圧倒的にイメージの手がかりが少なく進むものである。件の入場も舞台と同じように、コンクリート骨組みが露出したスタジアムや、最低限のセットや記号、国家とプラカードとユニフォームだけを身につけた集団の質素な動きだけで構成されている。

 

 ゲーム的な「自然化」の文脈で使われていた音楽は、今度はこうして、演劇的な「異化」の舞台に持ち込まれるのである。

 

すると、ビデオゲームの豊富なイメージの供給が途絶えたゲーム音楽に対して、我々は圧倒的な「物足りなさ」を感じるようになる。いわば、連想の参照点が限界まで削ぎ落とされているということだ。

 

 もう少し具体的に入場の様子を見てみよう。入場の場面には、使用されている音楽にまつわるキャラクターの形象や、ゲームルーチンのような構造もなく、なぜ「ギリシャ」が「ドラゴン」を「クエスト」するか、という説明すら一切省かれたまま、選手団は漫画の吹き出しのようなプラカードを捧げ、唐突に登場する。よりにもよってオリンピック発祥の地であるギリシャの選手団が、である。

 

 この「運動会的なそっけなさ」「連想の禁欲」を前にして、我々はただただ当惑することになる。聴覚的・視覚的な諸表象は、互いに「無関係さ」によって簡素に結ばれている。


 では、物足りなくなった我々が次に頼るのは何か?それは「記憶」である。実際、ミニマルさが純粋な骨組み、「尖った見通し」だけを観客に提供するかというと、そうでもないのである。事態はむしろ逆方向に進みうるのだ。

 

 ここで一部の「観客」の反応を見てみよう。

  • かつてゲームを楽しんでいた人たちが郷愁を伴う大きな感慨を表明する
  • ゲームの制作者や作曲家が、「オリンピックで自分たちの音楽が使われて嬉しい」と表明する

 

 これらの人々は、みなゲーム自体のイメージの供給ではなく(そもそも目の前にゲームは存在しない)、「かつてゲームのイメージが供給された時の心地よい感覚」「ゲームを作る仕事が認められたという達成感」「ゲームをやっていた・作っていた頃の自分の生活」を想起する。頭の中でゲームの虚構性と記憶が巧妙にすり替えられ、再統合されてゆくのだ。ちなみに、このあたりで、「ギリシャである」ということは既に完全に無視されてしまっている。

 

 加えて、ゲームという仮想空間を離脱し、開会式という生身のイベント性と結びつくことで、音楽は文脈のあり方を強引に限定し直す。件の開会式について、「この音楽の使い方はゲーム文脈から乖離している」という説明をすることは実は不十分で、実際には開会式の音楽は、「別種のゲーム文脈」を作り直しているのである。

 

 そこで働くのが、先ほど述べた音響の抽象的な力である。

 

 このような音楽の使い方がはらむメッセージは以下のようなものである。

  • 余分な文脈や連想を切断せよ
  • メタに考えるな
  • 今の(選手の)身振りを正常な「見立て」とみなし満足せよ
  • 自分の記憶で目の前の状況を補え
  • そうやって頭の中で整合性を担保せよ…

 

 イメージが不足するということのもたらす不安定な状況、どこに心のやり場を持っていけばいいかわからないようなとりとめもなさに対して、入場場面の舞台装置は何のセーフティーネットも張ってくれないため、観客は不安と苦痛に耐えるか、あるいは上述のメッセージに従って自分の記憶を動員するかの選択を迫られるのである。

 

 例えばよく教育やスポーツの場で発せられるような「目の前のことに集中しろ」という意図は、聞き手に対し、「メッセージ自体が強力な説得力を持つ」かのような錯覚を植え付ける。実際、いかにもハリボテ的なそっけなさ、地味な見た目にも拘らず、「ドラゴンクエストの音楽がオリンピックで流れた」という出来事のスケール感に誰もが飲み込まれてしまいそうな危うさが、あの無人の会場に蔓延していたのではないだろうか。本来関係していたイメージが目の前から隠されてしまい、それらとの直接的な文脈の連鎖を欠いているが故に、音楽がイメージから乖離した「共同性の記憶」に訴えかけるというのは、極めてナショナリズム的なやり方であるとも言えるだろう。

 

※ 誤解を招きそうなので補足するが、ここで注意すべきなのは、入場の演出がが「もともと意図されたものではない可能性が高い」ことである。開会式の演出を準備する時間がなく、周到な舞台装置というより「苦肉の策」と呼ぶ方が正しいだろう。上述の文脈形成は、演出家たち本人が望んだことではないかもしれないし、この記事ではそれを批判しているわけでもない。制作者の意図や構想はここでは問題ではなく、「結果として記憶が動員された」という事態が偶発的であれ発生したことを問題としているのである。

 

 

 

「罪なきBGM」はこの世に存在しない

 

 これまで見てきたように、音楽は文脈を創る(支える、ではない)機能を持った、非常に強力な、しばしば暴力的なツールである。何かが行われている裏で音楽が流れると、その役割はその行いの内容を「説明する」というレベルを大きく踏み越えてしまう。むしろ、その行いに関係するいろいろな意味要素を、どのレベル感で、どのように関連づけるのか、ということをほとんど規定してしまう。目の前の役者の振る舞いは、むしろそうした構造の下に組織化される。そういう意味で、BGMは原理的に政治的なものでしかあり得ない。

 

 「好きなゲームのBGMが使われたことを純粋に喜ぶことに、余計な政治性を持ち込むな」という意見もある。しかしそれは、先に述べた「目の前のことに集中せよ」という極めて政治的なメッセージに他ならないのである。イメージの圧倒的な不足を前に、集団的な記憶が補完的存在として喚起され、「ハイになる神経」が構造化されていく。これを(仮にそれが時間不足という偶然の産物であったとしても)政治やナショナリズムと呼ぶことが極めて自然な発想であるということは、今なら納得いただけるのではないかと思う。ただしその一方で、政治やナショナリズムが、単なる「イデオロギーによる私有化」という文句では語りきれないほどに、人を動かす質的な威力を持っていることにも注目する必要性があるとも思われるのである。