(俗世マニュアル)「俗世ないし社会の要求事項」

 今回ご紹介するのは、勤労の義務に苦しむ私が私が2年半ほど前に書いた「論考」です。論考、と銘打っていますが、論考というほど根拠に富むものであるわけではなく、逆に「世界の解釈をこの論考に一致させると比較的世界観が安定しやすい」という点で、私にとってはむしろ「マニュアル」のようなものとして機能するものです。

 では何のマニュアルかというと、「外界との摩擦を和らげて自分のセキュリティを高める、適切な抽象的インタフェースを設置するための」マニュアルです。この文章の使い方ですが、とりあえず社会や他人やコミュニケィションに直面して、嫌な気持ちになった時にお使いください。もともとそれらが好きで、それらとともにあることに苦しみを感じない人であれば、不要なものかもしれません。

 つい先日、精神に深刻なダメージを受けた際も、この論稿を読んですぐに体勢を立て直すことができたという実績もあります。まぁ、一番良いのは回復用に使うのではなく、事が起こる前に読んで予防するというスタイルですが…。

 この文章は2年半も前のものなので、非常に傲慢で高慢で鼻につく表現に満ち満ちていますが、そこは「若気の至り」ということで大目に見てください。事実、この時の私と比べても、結局私は何も成長していないし、進歩していないのですから…それどころかその後の私は、この論考=マニュアルの内容を忘れ、インタフェースの構築に何度も失敗しているという点で、これを書いた時の自分よりも後退してしまっているとも言えるでしょう。

 

 

0. はじめに

 俗世ないし社会は、人を人扱いすることができない。ヒエラルキーの上位に立つ人間は、相手の存在を理解して寄り添う素振りを見せながら、実際にやっているのは必要な言葉と物質を使い、「相手を思い通りに動かすこと」である。そこには存在や普遍性、経験の形式について議論する余地はなく、「被使用者」は「使用者」の固定化された「カスタム設定」に完全に従属する必要がある。俗世ないし社会は、そのような無限に、複雑に広がるヒエラルキーの体系によって成り立っている。

 人扱いが不可能な使用者のカスタム設定に従属するということは、当然被使用者である我々も使用者を人扱いすることができなくなるということを意味する。彼らは我々を使って思い通りの物事の供給を実現しようとしているので、我々の彼らに対する物事の供給もまた「代理業務」に過ぎないものとなる。そこにおいて相互理解を志向する地平は発生し得ないのである。

 確かに人は、他人を理解することができない。他者の経験は、推論によってしか近づくことができない。しかし、俗世ないし社会に住む人間は、その「理解できなさ」に対してあまりにも諦めが良すぎるので、理解の試みが推論であることを忘却し、挙句の果てに理解しようとすることすらも忘却してしまうのである。

 その場合、他なるものを知ろうとする一切の試みは、完全に挫折を迎えることになる。いやむしろ、そうした知的存在としての側面を捨象して同一平面上で動物的に競い合う「一次的人間」だけが、真に人間的とみなされるのだろうか。

 例えば私は「別の次元」が見える「疎外」された人間(いささかの選民意識を伴う表現だが)であるとともに、同一平面上における競争に敗北する「負け組」である。もはや自分にはこの社会で「まともに」勝ち進むチャンスはほとんど開かれていない。そのため、自分に開かれた選択肢は「隠居」のみである。

 「隠居」とは、「職をやめるなど世間から身を引いて気ままに暮らすこと」を指す名詞である。しかし生命維持において「職をやめる」という典型的な「隠居」することには多大なリスクが伴う。現実的に可能なのは、社会体系の要求する事項を最小限の労力で満たし、俗世ないし社会からできるだけ距離を置いた上で、余剰のエネルギーを「他なるものを知ろうとすること」に費やすことである。

 本論考は自らの「隠居」の一助となるべく、人に対する俗世の物象化作用を定式(パターン)化し、最小限の労力で応答するためのものである。あくまで知的存在であろうとするために「隠居」するという大義名分を忘れ、ただ物質的・心理的に楽な方へ流れ、堕落していくようなことは自分ないし「隠居」という行為に対する裏切りであり、あってはならないことである。

 

1. 使用者にとっての被使用者

 被使用者は使用者によってキャラクターとしての属性を付与され、使用者の想定通りに動くこと(「代理業務」)が期待される。属性付与前の関係性や、属性付与自体の成り立ちについて考察が及ぶことはなく、想定から外れた出来事はノイズとして完全に捨象される。

 一方、被使用者は使用者の要求事項を満たすよう動く代理業務に勤しむことを余儀なくされるが、その過程で、被使用者もまた使用者からの属性付与の受け入れおよび使用者に対する逆方向の属性付与を行う。

 この双方向のメタ情報交換を通して、「理解」の形式が固定化され、両者は人間関係を結ぶ。「理解」の形式が再度問題となる場面は、特別なテコ入れがない限り発生し得ない。

 こうした使用者-被使用者の関係は無限に連鎖する一方で、単純な上下の構造を持っているわけでもない。例えば上司‐部下などの一見上下が明白な関係でも、わずかではあるが上司の部下への従属といった事態を伴うのである。

 使用者と被使用者で共有される相互およびその他の人間に対する属性付与の各変数の設定は、衝突や歪曲を繰り返しながら社会全体に広がっていく。個別の変数設定を「カスタム設定」と呼び、俗世における代理業務ではこの「カスタム設定」への適応度合いのみが問題となるのである。

 

2. 被使用者の代理業務に対する使用者の一般要求事項

 それでは、その代理業務を成立させる使用者の要求事項とはどのようなものだろうか。個別のカスタム設定は具体的な人間関係に依存するため、それを取り扱うことはできないが、その共通事項としてありがちな「ジェネラル設定」を一覧として紹介する。

 個別のカスタム設定の内容が明らかでない場合でも、以下のジェネラル設定からあるそれを推測し、対応することができるだろう。

 尚、より下位のカスタム設定については日々の業務や生活での指摘事項をFBリストに書きこみ、ジェネラル設定により裏付けすることで早期かつ安定した俗世対応が可能となるとされる。

 

≪被使用者の代理業務に対する使用者の要求事項≫

要求事項

対応するリスク

上司・顧客

家族・友人

 Quality

  • 安全でおいしい物事が提供されること
  • 事故・損害および信用低下リスク
  • 根回しや諸事項確認による事故・損害リスクの撲滅
  • 成果物が趣味・嗜好に合うことによる感覚的満足
  • 成果物が信頼向上に寄与すること
  • 根回しや諸事項確認による事故・損害リスクの撲滅
  • 成果物が生理的に受け入れられるものであること

 Cost

  • 手間がなく楽に物事が進むこと
  • 思考・作業・会話コスト増加リスク
  • 意図の汲み取りや作業のリスト化による思考コスト低減
  • 自発的な着手・進行による作業コスト低減
  • 自発的な話しかけ、相談による会話コストの低減
  • 場所・時間・行動・話す内容等に関する思考コスト低減
  • 上記のリスト化よる作業コスト低減
  • 自発的な話しかけ、問いかけによる会話コストの低減

 Delivery

  • 調達期日が十分に早く、調達スピードが十分に速いこと
  • 遅延・作業依存度上昇リスク
  • 早めの納期設定による作業依存度低減
  • 依頼したものがすぐに出てくることによる不安コスト低減
  • 早めの応答設定による作業依存度低減
  • 質問への素早い解答による不安コストの低減

 

 

3. 代理業務運用の4側面

 それでは、2.で述べたような要求を満たす代理業務はどのように運用されるのだろうか。運用には①要求事項スコープ②成果物スコープ③Operational Process④メタ・モチベーションの4つの側面があると考えられる。

 ①は満たすべき要求のリストであり、その一般化されたものは2.で既に述べた。②は業務を通して依頼者に提出する成果物のリストであり、WBSやタスクメモ、相談事項リストなどがこれに当てはまる。

 ③は①②を提出するための手の動かし方である。最もハイレベルな定式化は「すぐやる」「全部やる」「思い出す」という3つの「俗事の掟」として行うことができよう。これらは全て①要求事項スコープを個人の行動のレベルまで落とし込んだものと言える。

 これらの①~③を遵守する起点となる④メタ・モチベーションの維持だけは標準成果物による定式化を免れてしまい、俗世対応において最も難易度の高いタスクである。メタ・モチベーションとは「やる気を出すためのやる気」であり、何かしらの手法によって感情や関心を発生させることへの感情・関心である。感情や関心を発生させる方法については巷に様々な理論・論理があふれているが、メタ・モチベーションに関する研究は今のところほぼ存在しないのが現状である。*1

 

≪代理業務運用の4側面≫

側面

成果物の例

 ① 要求事項スコープ

  • 代理業務に対する使用者の要求事項(表), FBリスト

 ② 成果物スコープ

  • Core WBS, Team WBS, 日報, 手帳, タスクメモ

 ③ Operational Process

 俗事の掟

  • すぐやる
    • やるべきことは無限にある
    • タスク化の前に終わらせる
    • 手が届かなければタスク化する
  • 全部やる
    • その都度要素を列挙する
    • ナンバリングして数え上げる
    • 自然な流れに並び替える
  • 思い出す
    • やるべきことを思い出す
    • 行動規範を思い出す
    • 他人の目線を思い出す

 ④ メタ・モチベーション

  • (定式化不可能)

4. 不定形なメタ・モチベーションの強要における暴力性

 メタ・モチベーションに関する考察の困難性は、それが孕む無限後退という性質に由来する。モチベーションに対するモチベーションを設定してしまうと、それに対する更なるモチベーションへの考察が必要となる。下図のようなモデル化は、そのような意味で、メタ・モチベーション自体に内在する特性に踏み込んでおらず、ブラックボックス化しているに過ぎない。*2

 

≪ メタ動機付けを含む動機付けの調整過程 ≫

f:id:pyonta-hyonta:20201220105419p:plain



 一方で、無限後退を発生させ得るとしても、メタ・モチベーションに対する考察は必要である。何故なら、モチベーションそのものを平板化・絶対化・ブラックボックス化することは、それを信仰の対象に仕立て上げてしまうことを意味するからだ。それこそが「なんだかよく分からないけれど頑張る」という発想を人に植え付け、俗世ないし社会の人間の物象化サイクルに根本的に寄与するクリティカルな装置なのである。我々はなぜこのようなサイクルに手を貸さなければならないのかを絶えず問わなければならないのである。

 哲学・人文科学的には、メタ・モチベーションは行為の中断性・究極性・暴力性という伝統的テーマから説明可能であると考えられる。古来より、特にドゥルーズサルトル等によって言われているように、人間の行為には絶対的な理由が伴い得なく、むしろそうした背景を中断することこそが行為なのである。それは分析・分解の極に至った後の人間の「ユーモアへの折り返し」であり、神経症から分裂病への切り返しであり、生存の確保においてどうしても避けては通れないことである。*3

 「何かをする」ということには何の根拠も伴わない一方で、正しさや理解を知的に志向する限りは無いはずの根拠を問い続けなければならないが、それにもかかわらず考察をいったんやめ、無根拠に出来事を進めなければならない。こうした絶望的な決意こそが、メタ・モチベーションを操作することを意味すると考えられる。

 従って俗世の暴力性の根幹は、中断・決断・行為という一つの暫定的結論を、本人の思考以外の場所から強要することにある。結局のところ、俗世が我々に対して要求しているのは「あなたが色々考えている時間は、そうやって考えることではなく、私たちに提供されるべきQCDの達成のために用いられるべきである。故に、『考えるな、行動しろ』!」という趣旨に他ならないのである。先ほど引用した赤間(2012)の図は、メタ・モチベーションの内容自体に迫ってはいないものの、「自らの思考以外の領域が無根拠な決断を要求している」という趣旨には合致しており、非常に示唆的な図であると考えられる。

 こうした強要に対抗するには、これまでに述べてきた強要のプロセスを自覚し、部分的に従いながらも、常にそれから逃れる方法を考え続け、何かしらのインプットまたはアウトプットに反映することである。我々「弱者」にとっては、そのように「逃げる」ことへの志向が、一つの安全なメタ・モチベーションの形式になり得るのである。

 

5. 使用者=加害者としての「自分」

 ここまでは「被害者」として俗世ないし社会から受ける被害を定式化することに務めてきた。しかし、「被害者面をして自分以外のものを非難する」ことほど簡単なものは無いといわれる。事実、誰もが多かれ少なかれ俗世ないし社会の暴力性に苦しめられているが、それにもかかわらず俗世の目に余る暴力のサイクルが維持されているのは、俗世ないし社会の構成員である我々一人一人が、自分が加担している暴力に無自覚であるからなのではないだろうか。そこで、いったん自分の行動を振り返り自分を「加害者」という観点から分析してみると、何が見えてくるのだろうか。

 例えば私(筆者という人間)の、使用者としての被使用者に対する要求事項をQCDの観点からまとめてみると、以下のようになる。*4

 

≪筆者における被使用者へのQCD要求事項≫

  • Q成果物が生理的に受け入れられるものであること(文法・ロジック・体系性)
    ※事故・損害リスクの抑制は要求せず
  • C自分から具体的な話題の材料を提供してくれることによる会話コストの低減
    ※思考・作業コストの低減はほとんど要求しない
  • D決断が早いこと・速いことによる不安コスト・作業依存コストの低減

 

 ここから、この個人の「自分が達成しやすいものを他人に要求しがち」であるという傾向が導き出される。さらにこの筆者という人間は、これらのQCD基準を満たす人間を「仕事のできる人」として認識しがちであり、そこには「できる/できない」の伝統的二元論による能力に関するレッテル貼りが行われている。

 さらに悪質なのは、筆者という人間は、そのような属性やコミュニケーションの形式の押しつけに気づかず、相手を知らず知らずのうちに自分のフレームワークに押し込めてしまっているという事実である。このスタンスは究極的には、「あなたが色々考えている時間は、そうやって考えることではなく、私たちに提供されるべきQCDの達成のために用いられるべきである。故に、『考えるな、行動しろ』!」という俗世の主張を自分から発信することに繋がってしまう。

 属性付与やコミュニケ―ションの固定化は、必然的に俗世と同じ暴力に加担しながら自分が生きることを許すことである。このような暴力性をゼロにすることは俗世に関わっている時点で不可能であるが、少しでも自分の発揮する暴力性を自覚し、嫌悪し、それに抗おうとすることが、俗世の「俗」たる汚染作用から身を守っていくために必要である。そうした中途半端な潔癖症こそが、自分にとってのメタ・モチベーションのもう一つの側面になり得るかもしれない。

 

6. 終わりに

 本論考では、俗世対応の基本方針をまとめてきた。この方針を以て、他人または自分が要求する個別のカスタム設定への考察・対応の足掛かりとしたい。

 生存自体がat stakeとなるような自分自身を「被害者」として見た場合、まず自分がなぜ「競争」を降りなければならないかを自覚する必要がある。その鍵は、カスタム設定や属性付与をすぐに飲み込めないという自分の「消化能力」不足にある。

 次に、生存のために世の中の慣習が生み出した大まかな枠組みである「ジェネラル設定」および「代理業務運用のプロトタイプ」を起点に、カスタム設定の解釈及びそれらへの対処を行うことになる。但し、メタ・モチベーションの強要による被暴力の範囲を限定し、自分が完全に壊死しないための思考の余裕を作り続けることが必須である。

 一方で「被害者」であるはずの自分自身は、少し見方を変えて観察してみるだけで「加害者」、すなわち「使用者」と同じ要求・主張を発信していることにも気づく。生を営む上で俗世の暴力性への加担は避けられないとはいえ、常にそのプロセスを把握・嫌悪・糾弾し、少しでも「穢れなき」自分を欲望することも、これから生を保っていくための大義名分になりうるかもしれない。

 僅かであるが可能な努力を通じて、俗世とはほんの少し「違う形で」存在し、その存在を以て、俗世とはほんの少し「違う形で」物事を理解しようとすることこそが、私の当面の目標である。

 

*1:2020-12-20追記: 後に友人から教わったのですが、この問題はメタ倫理学の「動機付け理論」という分野で扱っているとのことです。H.フランクファート、M.スミスといった方々が特に意欲の無限後退問題を扱っているらしいです。興味のある方はぜひ調べてみてください。

*2:赤間(2012)『動機づけることが難しい理由の発達的検討 ―メタ動機づけの観点から―

*3:千葉雅也(2017)『勉強の哲学 来たるべきバカのために

*4:この箇所はもともと私の本名が入っていたのですが、流石にブログという形式上削除しました。