「主体の位置」について、あるいは過去の記事における「過ち」

提訴

 「なんらかの原理によって筋を通せると自分が思った時は、大抵、自分がその原理を誤解している時である」...そのようなことを、最近私は強く思う。

 本記事は学術書ではなくブログなので、どうも上記のような通俗的な書き出しから軽々しく自己の開示を開始したがっているようだ。しかし、この書き出しを実際に書くまでの2ヶ月程度の間、私の書き手としての気持ちは絶望的に重いものであった。それでも書かねばならぬということは明白なので、一旦は、本日の私は「書くべきこと」だけを書こうと思う。

 さて、私がこの記事を書こうと思った理由は、以下の2つの過去記事に重大な勘違いが含まれるのを私が発見したということにある。

pyonta-hyonta.hatenablog.com

pyonta-hyonta.hatenablog.com

 

 一つめの記事は、クリステヴァの「自己のアブジェクシオン」を、ラカン鏡像段階理論によって読み解きながら精読しようとするものであった。まずこの論旨自体には、瞬時に一定の批判が可能である。例えば「ラカン鏡像段階理論を提出した際、鏡像段階における現実界との関係を現象的に捉えていなかったのであり、それをアブジェクシオンの概念と結び付けるためには、精神病という文脈との関係をまず明確にたどることが論証的に必要である」というようなものだ。

 だが、この批判は少々ややこしく、またこれから述べる「過ち」に比べれば遥かに些細なものである。そのため、この批判に対する解説・検証は加えない。最も大きな問題は、このブログ自体のタイトルにもある「主体」に関する私の勘違いにあるのだ。

 上記の2記事で私が犯してしまった最も重い罪は、「主体」と「自己」をはっきりと区別しなかったことにある。ラカンにおいて両者は全くの別物であり、その区別なしにはラカンフロイトを読み解くことは到底不可能であると断言できる。にもかかわらず、自分はその基礎的な事項を無視して無様を晒してしまったのである。確かに、私は両者を全く同一視していたわけではないし、区別が示唆される書き方も該当記事内の随所に見られるだろう。しかしながら現在の私は、少量ではあるが多少の自己研鑽によって、「両者を対立概念として捉え、その対立性という前提から論を開始すること以外の方法によって、精神分析を適切に語る資格はない」と思うに至ったのだ。

 ずいぶん感情的な書き振りになってしまったが、とりあえずこの問題について、ラカンセミネールの一部をまとめた『精神分析の四基本概念(上)』のIII「確信の主体」という章を軸に解説してみることにする。

 

罪状

 ラカンが「主体」に言及するとき、それは必ず「無意識の主体」である、というのが通説である。仮にラカンがそうでない主体を話題に出すことがあっても、論点になっているのは無意識の主体であり、我々の意識下に上ってしまうような主体は仮初の姿や、間違った像に過ぎないのだ。「自己」という言葉が用いられる際は、大抵そのような主体の虚像のことを指す場合が多いと考えられる。

 まず、以下の引用を参照されたい。

 我々にとって重要なのは、考える主体、そこで自身を位置付ける主体、そういう主体のいかなる形成よりも前に、何かが算え、何かが算えられ、その算えられたものの中に算えている人が既に含まれている、そういう次元を我々はここで見ているということです。

(『精神分析の四基本概念(上)』P48)

 この文章をすんなり読み込むには、精神分析(超心理学、メタサイコロジー)が、意識のアプリオリを意識によって説明できないと主張していた、という前提が必要である。その前提に基づけば、ここでラカン現象学に見られるような超越論的自己による意識説明の「裏をかく」ような問題設定をしていることがわかるだろう。構造主義的とも言えるが、ラカンは、「私たちの意識のコギトが働くには、意識としての私たち以外の何かが既に何かを考え、その枠組みの中に私たちを置いている必要がある」という一般的な枠組みを示しているのだ。

 ラカンは、デカルトフロイトが「我思う、ゆえに我あり」という命題に関し同一の前提から発展しながら、考え方を互いに分岐させていくことについて述べる。

 デカルトは、「我、疑うことによりて、思うことを確かとす」と言っているのです。私は「我思う」についての議論を避けることによって、この「我思う」が暗に我々にこれを「言う」ことによって初めて定式化される、と言う事実から確かに切り離せないこと(デカルトが避けていたのはまさにこのことです)、そのことから生じてくる議論を避けている、と言う点に注意してください。

...(中略)...

全く類比的な形で、フロイトは、彼が疑いを持つその時に、なんらかの無意識の思考がそこにあるということを確かだとしています。ということはつまり、無意識の思考は不在として現れてくるということです。

...(中略)...

 ここにフロイトデカルトの間の非対称性が現れます。主体に基づいた確信という最初の歩みに非対称性はありません。非対称なのは、無意識の領野こそが主体の本拠地であるということです。

(『精神分析の四基本概念(上)』P81-82)

 ここで注意するべきなのは、フロイトラカン共に、「考える」という作用が意識ではなく無意識に属するという前提を持っているということである。この点の起源はフロイトの「心理学装置」という初期の論文にまで遡って確認できる前提とのことだが、詳細な検証・論証は避けておく。ただ、上記引用の主張が、「思う」という作用に関して一番最初の引用(P48)とほぼ同じ前提を持っていることは明白だろう。

 ではこのような意識的自己とは異なる、無意識の主体とは、何か。「主体」の問題に入る前に、まずは無意識に関するイメージ的な解説から取り上げてみよう。

 無意識の機能における存在的なもの、それは割れ目であり、その割れ目を通して何者かがほんの一瞬日の目を見るのです。我々の領野におけるこのなにものかはごく短い出来事のようです。それは一瞬です。というのは、閉鎖の時である次の瞬間にはこの把握は消滅という様相を呈するからです。

(『精神分析の四基本概念(上)』P72)

 それは結局、分かりやすく言うとどのような現象のことを指すのか。人間に当てはめた場合、それはなんのことを指すものなのか。

 フロイトラカンによれば、上記の「割れ目」に相当するような具体的な振る舞いは、人間の言い間違い・どもりなどの言語的な切れ目であるという。分析家は強迫神経症などの症例で、「否定辞」を何度も登場させて自分の発言内容を歪めたり、早口で喋ってみたり、言い間違い・どもりを展開したりする「抵抗」の様相を見てとるのである。

 そして言い間違いなどの言語的作用によって、「無意識の主体」が浮かび上がるとフロイトラカンは主張する。ここでは、手っ取り早い解説のために松本卓也人はみな妄想する -ジャック・ラカンと鑑別診断の思想-』からの引用をしておく。

 無意識の噴出に直面した分析主体は、「その言い間違いは偶然である。私はそんなつもりで言ったのではない」と主張するかもしれない。しかし、「そこに無意識の主体が現れたのだ」とラカンなら答えるであろう。主体が意識の相関物ではなく、むしろ無意識の相関物であるというのは、この意味においてである。

...(中略)...

 当然のことながら、精神分析が考えるこのような主体は、決して安定した形で存在するようなものではない。それは言い間違いやどもりのように、語りの中の裂け目として現れることしかできないものである。そして、現れたかと思えば次の瞬間には消え去ってしまう、拍動する点のようなものである。

(『人はみな妄想する -ジャック・ラカンと鑑別診断の思想-』P17-18)

 補足すると、この文章にも「意識 - 無意識の非連続性・背反性」という前提があることを指摘する必要があるだろう。私たちが言語を使ってなんらかの意味の通るような文や単語を取り出した瞬間には、既にそれは私たちの意識にのぼっているということになり、それは無意識の領域にはないことになる。半-意識のような想定はここではなく、いわば釣り上げた瞬間に溶けて無くなってしまう「水でできた魚」のようなものである。

 この主体を貫く原理は「欲望」であるというのが精神分析の想定であるが、今回の議題からはやや逸れるので、この辺りで解説を止めておくことにする。

 以上から、フロイトラカンが主体を扱う際、それは意識的な自己(あるいは「意識の考える作用を主体と同義とする」ような発想にとっては「意識的な主体」とも表現できるだろうが、精神分析的にはそれは間違いである)とは明確に分離されるべきものであると考えられる。

 さて、冒頭の2記事を批判するために、もう一つ指摘しておくべきことがある。それは「主体の位置」ではなく「主体の時間」という通時的側面によるものである。これらの記事は、あろうことか鏡像段階によって主体が発生する」と書いてしまっているが、それは大きな間違いである。正確には「主体は鏡像段階によって自己を獲得していく」のである。逆にいえば、鏡像段階によって母との関係を持つ時、無意識の主体が既に成立していることが前提となる。鏡像段階は、主体成立ではなく、既に成立した主体における想像上の出来事なのである。鏡像段階が与えるとされるのは、「主体」ではなく「自我」や「自己」といったものなのだ。

 なぜこのような勘違いを私がしてしまったのか?と問われれば、ひとえに「主体」と「自己」をはっきりと区別しなかったこととしか言いようがないだろう。両者をきちんと区別していれば、このような誤解にはたどり着かなかったはずである。つまり、主体の時間を理解するには、まず主体の位置を理解する必要があったということである。

 さて上記のような「時間軸の修正」を行った後であれば、例えば以下のラカンに関する論考も正確に理解でき、それがクリステヴァを読むための正しい土台になるのであろう。言い換えれば、私はこれから無意識の主体と共に、文字通り「0から」クリステヴァを読み直す必要があるのだ。

 藤田は「寸断された身体」の前史として、主体と 〈母〉の未分化の段階及び主体が欲求の領域から欲望の領域に移行するフェーズを想定する。この移行によって、バラバラの欲望の寄せ集めとしての「寸断された身体」 が形成されると考えるわけである(藤田,1990,pp.39~41)。本稿では後者の見解に従う。その理由は,出生時から「寸断された身体」を想定すると,後述の対象a= 〈もの〉das Ding(フロイト)の位置付けができなくなるからである。

...(中略)...

  他者autreのイマー ジュが鏡像の機能を果たす。(小)他者とはこの場合、主体にとっての対象となった 〈母〉 である。鏡像としての(小)他者= 〈母〉のイマージュによって、主体はみずからが身体で あることを(視覚的に)知り、「寸断された身体」にかわるまとまりを持った身体像を得る。この身体像が最初の自我=想像的自我moiimaginare (藤軋1993c,p..149)であり、その形成過程が鏡像段階である

(『〈主体〉の構造と類型』P38-39)

判決

 私の罪状を説明するのには、もはやこれで十分だろう。冒頭に示した過去記事の「なにがいけなかったのか」を自ら逐一あげつらう行為は、流石に私の「精神」をオーバーキルしかねないものなので、差し控えさせていただく。「私は根本的に間違っていた」ということを認めて、今後の私が「先に進む」ことをお赦しいただきたい。

 後期ラカンにおいては、「無意識の主体」の中でも「欲望の主体」・「享楽の主体」の二者が区別されてゆき、無意識に関する象徴の作用だけでなく「現実界」への理論的接近が試みられていく。そこにおいて探求されるのは「言語のように構造化される前の無意識」であるのだが、とはいえ本記事の論点が位置するのは、これを扱うずっと以前の段階である。いずれにせよ初期〜中期のラカンまでは、フロイトの読み直しによって「言語のように構造化された無意識」が扱われているのであり、そのような無意識を主体の本拠地とする限り、主体は象徴界の作用により「非存在論的に」「出現」するものである。

 そのため、冒頭で紹介した過去記事については、その内容が全くの的外れであると言わざるを得ない。仮にそれが結果的に「正しい」仮説であったとしても(正しいはずがないのだが)、それは精神分析の枠に沿っていない限り、無効なものになるのである。

 ここまで恥ずかしい姿を晒してしまった以上、この記事が私の人生最後のブログ記事になってしまう可能性がある(もとより何らかの記事は人生最後の成果物になる可能性があるのだが)。それでも私は、死ぬ前にこの記事によって自分の過ちを言語化できたことに、ひどく安心してしまっているのである。