ひょんたの「葬式プレイリスト」(前半)

 とあるブログ記事に触発され、私も「葬式プレイリスト」なるものを作ってみようと思いました。実際やってみて思ったのですが、「葬式」の概念を演出的に一貫させるのは非常に難しく、ともすれば「生前好きだった曲の寄せ集め」になってしまいがちという危険性を感じました。というか、実際私が作ったものも、その域を出ていないと思います。まだまだ修行が足りませんね…。

 私は自分の結婚式披露宴などに際しても自分で選曲をしたりしたのですが、それと比べて「葬式」を取り扱う時は、「相手方」や「客」の存在設定が曖昧なままプランをしなければならないという点に気づきました。葬式のBGMプランというものは、ある種思弁的に空間を作らねばならず、総じて難易度が高い企画だと思いました。そもそも死がどういうものかも自分はよくわかっていないのだから…。

 さて、御託をグダグダ並べるのもアレですし、こういうのは「実践あるのみ」なので、さっさと1曲ずつ紹介していきたいと思います。プレイリストは現段階の案の一つであり、今後新しいものを作っていくかもしれません。

 

【備考】

  • M0〜M11というように、「M+番号」で曲順と内容を識別する
  • 前半ではM0〜5、後半ではM6〜11を紹介する
  • 各セクションの冒頭にYoutubeまたはSpotify音源リンクを貼る
  • 各セクションの文章欄で曲を選んだ演出上の理由と意図を端的に説明する

 

M0:『天国へようこそ』/東京事変

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 開演時は、いきなり「そんな曲流していいの!?」というような曲から流したい。これみよがしなタイトルに加え、蠱惑的な「怪しさ/妖しさ」を伴う曲調。これらの要素によって、葬儀における「死の唐突さ」と「エンタメ性」という二面性を表現したい。それをもって参列者の葬儀自体への「白けた」メタ視点をぶち壊していくことを狙いとしている。

 葬列者が味わうのは「死体処理の事務」兼「悲しい別れ」ではない(自分が悲しんでもらえるような人間かは知らぬ)。そうであるべきではない、と少なくとも私は考える。葬儀は冠婚葬祭の3つ目の段階にすぎず、詰まるところ一つの共有されたエンタメである。それは一方で文化...もっと言えば言語の構造と不可分であり、他方でかつ生の一つの「リミット」に当たるものである。そんなイベントは、そう多く経験できるようなものではないはずだ。

 仏教またはキリスト教のフレーバーによって彩られた(ともすれば宗教的な共感覚に転落しまいそうな)、端的にワクワクするような、期待されるべき舞台としてこの葬儀を受容してほしい...参列者=観客に向けたメッセージがあるとすれば、せいぜいそのくらいのものだろう。

 私はあまり音楽の歌詞に執着を持たないのだが、筋を通すためにも一箇所引用しておこう。他人事のままこちらの死体を見つめる「生きている人」の余裕を皮肉ってしまうことにする。そうすることで、彼らの予想とは別の形でこちらの「死」に「生きる者たち」を巻き込んでいきたい。だからこそ「天国へようこそ」というわけなのだ。

言葉を手にした我等は 果たして青き賢者か

それなら浮世は定めし とるに足らぬ事だろう

 

 

M1:『RIO』/坂本龍一

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 二曲目は坂本龍一のインストである。歌詞はないので文脈を形成しやすい。「徐々に厚みを増していく重厚な構造」を想像させる曲調は、「突然訪れる無慈悲な運命」を象徴していると言えるかもしれない。さらに最初に聞こえる水の音は、三途の川の音かもしれない。あるいはさらに、「死の神秘」みたいなものへ昇華させることもできるかもしれない。だが、私はもう少し禁欲的な選曲方法をとっている。

 この曲はどちらかというと「象徴体系の象徴」と呼ばれるべきかもしれない、と私は考える。どういうことか。

 我々は生まれてから言語という理不尽な体系に組みこまれる。身体の外にある体系は、その外部性により我々の身体をいじめ、切り抜くことで、我々のイメージの中に一つの鏡像を作り上げる。身体の放棄とイメージの獲得、後者へのあくなき同一化は、理不尽な言語体系による「去勢」なしには成立し得ない。この曲はラカン精神分析の言語=無意識=システム=構造性を示唆するような唐突さ・冷たさ・巨大さを連想させるのだ。

 同様に、死体になった私は、これから死後の世界という未知の象徴体系に足を突っ込むことになる。それはプレイリストのプランナーである自分が、死後の世界を具体的にデザインしているということを指し示すわけではない。むしろ逆に、我々が「生きている世界」しか知らないからこそ、「死」は圧倒的な理不尽を誇るプロトコルとして我々の前に立ちはだかるのである。死は思弁的にしか理解することができない。それに従って我々の主観的な精神性や意味がどのように変化していくか、誰も予測できない(それを人々は消失と呼ぶのだが、消失がなんなのか結局何もわかっていないのだ)。死の前では我々は絶対的に「赤子」であり、死はなんらかの形で、我々が生きている限り未知のものを教えてくれる可能性がある。

 ここから先は、そのように「生者」「死者」両面のメタファーによって葬儀の曲を選んでいくことになる。

 

M2:『Diamond Dust』/Jeff Beck

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 世界三代ギタリストの一人、Jeff Beckの曲。8分にもおよぶ長さで、構造はややM1と似ているかもしれない。しかしそこにはM1にはない、どことなくナイーブなニュアンスが聴き取れるだろう。

 M1で言及したように、生者または死者は、プロトコルの理不尽さにその身体を切り取られながら、一つの主体になっていく。だが切り取られる直前、我々はいろいろなものに癒着しており、自と他の区別がつかない「寸断された身体」として存在する。そこから「自分の像」を求めて彷徨い始める時の「孤独」を想像して、私はこの曲を選んだ。

 例えば(何かを例える場合、それはすでに生者の論理を用いて例え話をするしかないことに留意しよう)赤子は、親が発する「謎の音」を辿り、意味もわからず意味なるものを獲得していく。でもその謎の音が自分に全く根ざしておらず、自分の根拠のはずだった母親やミルクとの区別をひたすら刻み込んでいく。、そういう「刻み込み」のプロセスがあるからこそ、徐々に「自分」をイメージできるようになっていくのである。そこまでの果てしない不安は、大人の我々が今や想像できなくなったものであるに違いない。そして死という理不尽に直面した場合、きっとそのような「砂漠のなかを探索するような」プロセスが死後の我々の時間に組み込まれるかもしれない。この曲は、そのような「荒廃した道」としての時間のイメージに合っていると思い、選曲の対象となった。

 この曲は私にとって、生きて人間になっていく時と、死んで死体になっていく時の不安・孤独を同時に表現してくれるものなのだ。

 

M3:『祈りの季節』/岡村靖幸

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 ここから徐々に「生者」を象徴する曲の志向へと選曲ポリシーがすり替わっていく(これは単純に自分の頭のスペックが足りず、「死について考えようとするうちに生者側の理論を使わざるを得ないこと」より先に進めなかったからです。ここはまさに自分の修行不足を露呈する箇所であるとは思う)。歌詞がついているというのも重要で、直前2曲とは異なり、すでに「言語を使用可能な主体」のことを想定している。

 中学生ぐらいの頃を思い出してほしい。言語をそれなりに獲得し、なんとか「意思疎通の真似事」みたいなことをできるようになっても、結局我々は「孤独」でしかなかったことを思い出してほしい。主観の檻に閉じ込められ、自分の見たまま・感じたままのことは言葉でどうしても言い尽くすことができな。誰にも伝わらないし、誰にも理解されない。周りに他人がたくさんいても、誰にも頼れない孤独。それはM2の段階で捨てたはずの「身体」の名残だと私は考えている。失われたはずの安心を取り戻そうとしても、絶対に満たされない…そのようなものこそ、「欲望」なるものの構造である。

 必ずしも良い意味ではない「アドレセンス」の内部で、狭い視野でナイーブに悩む自我構造を象徴するために、あえて卑近で子供っぽい疑問を切実に歌った曲を選んでみた。

眠れない夜はきっと 神様が君にメッセージしてる

眠れないんだ僕はずっと だって君はもう僕のもんじゃない

 

幾千の童話の業の深い輩と僕らは似ている

負けん気のスピリットが僕らの取り柄のはずだったんじゃないの?

もうこのまんまじゃマズイぜ もう、もう、もう

 

M4:『World Citizen』/坂本龍一David Sylvian

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 坂本龍一が関わる曲目が再び出てきたのだが、この曲はDavid Sylvianの歌唱がついているという点でM2とも大きく異なるだろう。冷静で客観的なイメージが流れてゆくこの曲を選んだ理由は、「精神の発達」や「理性」のメタファーとして、である(なおこれはメタファーにすぎず、私は「精神は発達する」などと思っていない)。

 生きているうちに人は、自分のナイーブさに引きこもっていられないような衝撃的な危機に出会う。それは言葉や意味をやりくりするだけではどうしようもないような出来事であり、例えばたくさんの人が亡くなったり怪我をしたり病気になったりといったような、具体的な帰結を伴う。そこから、言語は単なる不条理な構造のみであることをやめ、徐々に危機に立ち向かうツールとしての意味をも帯びてくるようになる。ある種の啓蒙のプロセスとでも形容されるべきだろうか。

 この曲は2003年、坂本龍一らが9.11テロに衝撃を受けて作った曲らしいが、当時その恐ろしさを理解するには私はあまりに幼かった。だが現在の私は、昨今のポピュリズムネオリベラリズムの急速な蔓延などといった社会的情勢にも、すでにこの曲が示唆するようなカタストロフィを予感している。利害による殺戮、集団の力学による悲劇は遠からず繰り返され、歴史に記されていく。そのような「現実」に対して我々が頼ることのできるものは、結局「言葉」しかないのである。

It’s not safe
All the yellow birds are sleeping
Cos the air’s not fit for breathing
It’s not safe

 

M5:『Virtual Insanity』/Jamiroquai

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 言わずと知れたJamiroquaiの名曲。私は中学時代から10年以上ずっとこの曲を聴いており、だからこそこの曲は間違いなく「私の一番好きな曲」のリストに入るだろう。「思い入れ」的なものからは距離をある程度取りたいと思いつつも、この曲は葬式プレイリストにも入れざるを得ない。

 この曲はM4のような途方もない状況を知った後、立ち直り、もう一度「魂」を込めて言葉を使い、何かを考え始める…そのような「主体の円熟期」を示唆している。この曲の切迫した歌詞に対してはこれまで、「近未来SF」「遺伝子操作」などの方向から様々な考察がなされてきた。だが、そのような具体性に回収されないような「疎外」への根源的な不安と、それへのストレートな回答こそを、この曲は試みようとしていると私は考えている。

 曲調は、ピアノを主軸としつつも拍の強いパーカッションやオーケストラによる盛り上げに彩られ、何らかの「ジャンル」に容易に嵌め込めないような複雑さを呈するように思われる。かなり有名な曲のため、曲調に関してはもはやこれ以上言及するまでもないと思うので、以下では、このプレイリストで筋を通すための歌詞の考察を試みる。

 この曲の和訳を何パターンか見てきたが、納得のいくものはひとつも見つからなかった。ひとえにはそれは、抽象的なものを抽象的なまま扱おうとせず、なんらかの具体的なイメージに落とし込もうとする訳者の傾向によると思われる。

 Virtualという言葉は多義的である。この語の一つの側面は「仮想の」というニュアンスであり、現実から離れた想像上のものであるという意味合いをはらむ。だがもう一方でこの語は「実質的な」という意味を持つ。それは本質や事実性を掴み取る語でもあるのだ。なので、この語は存在自体が矛盾していると言われる。だが、現実と仮想の区別など、いったい誰にできようか?...これは言語を扱う我々の根源的な問いであり、Jamiroquaiはこの問い自体を糾弾しているわけではない、と私は考える。

 重要なのは以下のことである。すなわち、現実と仮想の間に横たわる「曖昧さ・両義性・不条理」それ自体ではなく、「既存の世の中の構造に従って不条理をそのまま暴れさせてしまう」ことこそがInsanityと呼ばれるべきなのである。有り体に言えば、搾取する側は、搾取される側よりもずっと、世の中がどのような構造でできているか思考しないままに、昔から続いている搾取の構造を言語的・身体的に確定させていくということである。

 では私が正確に歌詞を訳せるかと言われれば、きっとそうではないだろう。それくらい難しい曲なのだ。だが批判のリスクを背負いながらも、上記の考察をベースに、僭越ながら自分が訳したものを置いておく。

And I'm giving all my love to this world only to be told

I can't see I can't breathe

No more will we be

And nothing's going to change the way we live

Cos' we can always take but never give

And now that things are changing for the worse, See

Whoa, It's a crazy world we're living in

And I just can't see that half of us immersed in sin is all we have to give these

(ひょんた訳) 

そうして僕はこの世に、ただ言われた通り「愛」を捧げているわけだ

何も見えないし息も出来ないし、

かといって我々の状況が改善するわけでもなかろう

そして我々の「生」のあり方を変えるものも何もない

というのも、人というものはTakeするばかりでGive出来ないものだから

物事は全部、悪い方向に向かっているわけだから...見てみろよ、

ああこの世の中は狂っている!

何より納得できないのは、我々がGiveしなければならない相手が、人類の半数を占める(Takeばかりしている)罪深い連中だということだ

 

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Futures made of virtual insanity now

Always seem to, be govern'd by this love we have

For useless, twisting, our new technology

Oh, now there is no sound

for we all live underground

(ひょんた訳)

「虚像的事実性」という狂気で形作られた未来はいつも、

我々のこの「愛」で制御されているかのように見える

その「愛」というのは結局のところ、我々のくだらない小手先の「技術」に捧げられているのだ

ああ、何も聞こえない

我々は地下に住んでいるようなものなのだから

 「作者はきっとフーコーの権力論とかを読んでこの曲を書いたのだろうな」と妄想をしていたら、実は「旅行先の札幌の地下街を歩いていたら偶然思いつき、作者がホテルの部屋で一時間で書き上げた曲」だったということが判明したときには、私は流石にがっかりしたものだ。

 

 ああこの世の中は狂っている!

 

M5.5:『天国へようこそ Tokyo Bay Ver.』/東京事変

 (2020/11/15追記) 中座曲が欲しくなったので、プレイリストのど真ん中に一曲足してみました。トイレ休憩とかに使えそうですね。実際の葬式には中座という制度はないらしいですが。

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…後半へ続く!!!

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