「観察以前のモノ」はどこにあるか(1)

言い訳と前提

 約1ヶ月ほど筆を休めていたが、その間も私はある種の予防線を維持していた。それは「まあ書けなくても仕方ないし、無理に書くべきではないよな」というものである。というのも、8月に自分が執筆した記事を見て、その質の低下の著しさに困惑していたからである。したがって私は、「何を書くか」を真剣に考える期間を作り、「すぐに何かを書いてしまうこと」への禁欲を実施していた。とはいえ労働の日常で忙しかったので、本来の目的であるところの「熟考」すら満足にできなかったのであるが...。

 では、それはどのような「質の低下」か。私が見出したのは、「記事を書くことがただの個人的な憂さ晴らしになってしまった」、という品質低下現象である。読者にかろうじて読んでもらうためにも、私は盛んに「卑近な例」を用いて問題意識を説明しようとしていた。だがいつの間にか手段と目的が逆転し、卑近な現実を任意にピックアップして、「偉い哲学者」の枠組みに紐付けて昇華し、自分に対する納得を誘うような、「記事として卑近」な記事が量産されてしまったように思えたのである。そのような記事は、飲み会の雑談程度のものであり、そういうことを喋りたいのであれば、オンラインでのお喋りのハードルが下がっている昨今であれば、誰かを誘って通話でもすれば良いのである。

 そもそも自分は普段、生活の諸タスクに還元されないようなレベル感において何を考えているのか。というより現在、そもそも自分は何かを「考える」ことができているのか。そのような危機意識から始まった禁欲期間で、実際になんらかの思考を取り戻せたかどうかはわからない。もっといえば、生まれてこの方四半世紀以上、自分は一度たりとも何かを考えたことがあるのかということすらわからない。記事の質だって、元々この程度のものだったのかもしれない。過去の自分を神聖化することは、現在の自分に自信を持つよりも危うい行為であることが多い。

 とはいえ、しばらく時間を置いてみることで、自分の関心を少しだけパターン化することができたので、本記事では私が今後それを追うための、私向きのガイドラインを「手短に」作ろうと思う。コンセプト上、本記事は原則として一次文献を取り扱わず、二次文献の整理のみを作業対象とする。

 

論点の整理

 論点と言いつつも、これは私の「気になる点」を言語化したものに過ぎず、多少エビデンスを揃えつつも、その論証は不足している。触れる論点が多岐に渡るため、量もやや膨大となってしまった。その点でこの記事は「わがままで、独りよがりな出発点」である、ということを了承した上で読んでいただきたい。

 8月に入るまで、私は比較的(きちんと理解できたかは置いておいて、)色々な本を読んでいたというのは事実である。とりわけ私が関心を持ったのはジュリア・クリステヴァグレアム・ハーマンである。私が書いた記事のサンプルを以下においておく。

 

ジュリア・クリステヴァ関連記事

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グレアム・ハーマン関連記事

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 これらの思想家が依拠する立場はかなり異なっている。というより、ほぼ真逆と言っても過言ではないかもしれない。だが、彼らが依拠する「枠組み」はほぼ同じであるように私には感じられた。その枠組みを整理していく作業は概ね本記事外で取り扱うことにするが、その枠組みを「私が」要請するバックグラウンドをここで説明することはできるだろう。以下、再び「卑近」で一般的な例にお付き合いいただきたい。

 我々は自分や他人、自分以外のモノを理解したり、了解したり、把握したりすることができるのだろうか。論理的には、A「自らを知ること」とB「他(者)を知ること」の組み合わせ関係は、極めて大雑把に、4通りに分けられる。

  1. AもBもできる
  2. AもBもできない
  3. AはできるがBはできない
  4. AはできないがBはできる

 ちなみにBにおける「他」は人でも物(モノ)でも良い。人であるか物(モノ)であるかが重要な立場の分岐をもたらすにはもたらすのであるが、差し当たりその区別は控えておこう。であれば、現時点では「自分ではないものとされるもの」と定義できよう。自分とは何かという問題は、それはそれで宙吊りにされなければならないが。

 閑話休題。近代以降、厳密にはカントの「物自体」の発想の浸透以降、ほぼ全ての人間は、#3 の立場にいると考えられる。まれに#2 の立場を取る人を見かけても、その主張は#3 の延長であることが多い(「相対的に他人より自分の方が理解しやすい」という考えに依拠した発言によって、多くの懐疑的言説はできているだろう)。

 またヘーゲルなどは#1 の立場をとっているようにも見えることがあるが、仮にそれが#1 だとしても#3 に近い#1 であり、#4 からは程遠いと考えられる。詳しくはレヴィナスの記事でのヘーゲルの項目を参照されたい。そもそも私は#4 に属するような立場をほとんど見たことがない...(無勉強なだけかもしれないが)。ただ、「頑張れば」、ヘーゲル#4寄りの#1であると読めなくもないような気がするので、この点は一旦保留にしておこう。
 人間にとって一般的に、他を知ることは難しいのだ。「物自体」の議論やそれ以前の「普遍論争」は、Bの困難性を示しており、その主な原因はBのAへの不可避の依存という「観察者問題」にある。

 さて、③クリステヴァや、彼女が依拠するラカン精神分析なども、④ハーマンや彼が依拠する②現象学(フッサール)ハイデガーなども、さらにラカンフッサールの大元とも呼べる①カントも、全て#3 の立場であると私は考える(ここでは、次の話の流れをわかりやすくするために時系列で番号を振った)。厳密には、「少なくとも①~④の立場は互いをそのようなもの(#3 の立場を取るもの)だと思っている」と私は考えている。

 これは相当思い切った発言であるが、それぞれの立場への私の現時点での理解を順に述べていこう(これが間違っていたり破綻していると良くないので、この仮説が破壊されるのではないかというアンテナを張りながら諸文献を読むように心がけている)。尚、その論証には時間がかかるかもしれないので、必要に応じて別の記事で実施する(かもしれない)。

 まずは、少しずつエビデンスを揃えながら、#3の立場として読んだ場合の①〜④相互の関係を捉えていこう。以下がその組み合わせの列挙と要約である。

  • ①&②〜④共通: カントが提出した物自体という大前提は、上記全ての立場の土台となった
  • ①&②: カントの超越論は、フッサールの「還元」的態度を要請した
  • ①&③: 精神分析は超越論のもう一つの後継者である
  • ①&④: ハーマンはカントの「物自体」を評価し、実在論の再興を目指した
  • ②&③: 現象学精神分析は、超越論哲学の後継者として、異なるアプローチでアプリオリを解明せんとした
  • ②&④: ハーマンはフッサールの概念を独自に読み直すことで、相関主義的傾向に対抗した
  • ③&④(未着手、別の機会で取り扱う)

 

①&②〜④共通: カントが提出した物自体という大前提は、上記全ての立場の土台となった

 カントは認識の一切が、経験に由来するわけではないと想定した。そのため「経験に先立つ」「経験を可能にする」領域、すなわちアプリオリを探究する立場を取るとされており、その見方を「超越論」と呼ぶ。その立場と不可分なのが、物自体という想定である。「経験の条件と経験の対象の条件とが一致する以上、経験を超えている対象についてはどのような認識も成立しない。物自体は経験不可能であり、したがってまた、どのような認識もありえない。旧来の形而上学が理性の対象として考えてきた事柄の全てから、その根拠が奪い取られる」(熊野純彦西洋哲学史』P137)。

 カントの態度はまさに#3の立場そのものであると考えられるが、それは②〜④全ての土台となっている。後に詳しく述べるが、以下はその要約だ。

  • フッサールはカントの問題意識を引き継ぐ
  • クリステヴァフロイトラカン精神分析にその理論の基礎的な部分を依拠させている。ラカンの構図とカントの構図・問題意識の共通性はしばしば指摘される
  • ④ハーマンはカントの物自体という発想をもっぱら称賛し、カントを含むカント以降の関係主義を批判する

参考資料:

 

①&②: カントのアプリオリは、フッサールの「還元」的態度を要請した

 我々からは不可視な「物自体」の世界が実際に存在するかどうかという不毛な議論は、学の基礎づけという目標を遠ざける。諸学が学として成り立つには、確実なものに依拠するほかない。そこでフッサールは、エポケー(判断中止)という態度を提出する。それは人間の認識から独立して存在する世界に対する定立を「カッコに入れ」るような態度だ。人間の認識作用を「自分のこと」、独立して存在する世界を「他なるもの」であると仮定すれば、フッサールもまた#3の立場に、カントと同じような意味で依拠していると考えられる。

 客観性には「超越」が伴う。対象は意識を超越し、認識の客観性は、対象によって保証されるかに思われるからである。超越の意味を、したがってまた認識の客観性を問うためには、一旦この対象を、意識から超越するものの一切を「排除」しなければならない。現象学的還元という発想の、一つの原型である。...(中略)...

 人は普通、人間から独立した世界、意識を超越した対象の存在を自明なものと考えている。このような通常の態度をフッサールは「自然的態度」と呼び、そこに含まれる世界の自明視を「一般定立」と名付ける。世界が一箇の超越であり、その超越の意味が解明されるべきとするなら、つまり超越論的な態度が可能出なければならないとするならば、このような一般定立が宙吊りにされる必要がある。

(熊野純彦西洋哲学史』P233)

 フッサールの超越論はカントの超越論と問題意識を共にすると考えられる。

 「超越論的」と呼ばれるこの見方は、この述語そのものがカントからの借用であることからも推測されるように、カント哲学との出会いから開かれたものである。...(中略)...例えばフッサールがリアルな経験的意識に代わる<純粋意識>や<純粋自我>の概念に到達するについては、直接間接に<意識一般>についてのカントの思想に影響されたことは否定できまい。あるいはまた現象学の中心的テーマである構成の問題も、カントの構成概念についての批判的研究なしでは、少なくとも現在我々が知っているような形では、展開されなかったであろう。

(立松弘孝 編『フッサール・セレクション』)

参考資料:

 

①&③(vs②): 精神分析は超越論のもう一つの後継者である

 フロイトフッサールと異なり、語る主体・聞く主体たる超越論的エゴの確実性を揺さぶる。そこで探求のフィールドとなるのは無意識の領域であるのは周知の通りである。

 とはいえ、精神分析は以下のような観点からカントの超越論哲学の後継と考えられる。それは#3の立場を丸ごと擁護するものである。言い換えれば、#3のような立場こそ、超越論哲学と呼ばれるのだ。

 フロイトは治療を目的とした作業仮説から踏み込んで「メタ心理学」と呼ばれる理論的な体系を構築しようとしていた。...(中略)...このようなフロイトの議論は、精神分析的な臨床の経験に基づいて構成されるものではない。意識されない領域の事項をなんらかの経験として積み重ねるためには、それを把握するための概念枠が必要となる。フロイトが誠実な自己批判に従って語るように、「メタ心理学」という「基本概念」を持つことで初めて、無意識的な現象を把握できるのである。...(中略)...

 「メタ心理学」は一つの「思弁」であり、臨床的な観察だけから導き出されるものではない。それはむしろ、精神分析的な経験を記述するための条件として、超越論的に要請されるものと考えられる。カントがいうように、経験が経験として成立するための条件を語ることが超越論的な哲学の課題だとすれば、フロイトの「メタ心理学」はその哲学的課題を引き受けていると考えられる。

(荒谷大輔ラカンの哲学』P13)

 ラカンの想定する「現実界」もカントに非常によく似た構図であり、同じく超越論的に要請される概念である。

 ラカンは、人間の精神活動を次のように三つの次元で説明した - イメージの次元=想像界、言語の次元=象徴界、そしてその二つから到達できない外部=現実界という三つである。...(中略)...事物にイメージと言語の網をどうかけても、こぼれる何かが残り続ける。現実界とは、無限に意味を引き起こし続ける意味の彼岸=<意味がある無意味>である。

 ところで、以上の構図は、カントの超越論哲学によく似ている。カントの言葉で言えば、我々が認識しているのは「現象」であり、その外部に、不可知の物自体がある。ラカン現実界は、おおよそカントの物自体に相当する。カントは、真の実在について語ることを禁止し、哲学とは人間がいかなる方式で物事を記述しているのかの分析であるという再定義を行った。それが超越論哲学=近代哲学である。フロイト以降の精神分析は、そこに「性」の次元を導入し、無意識を持つ主体がいかに事物を性的に思考するのかを問題とする。

(千葉雅也『意味がない無意味』P14〜15)

 クリステヴァによる探求も、フロイトラカンの構図がベースとなっている。ラカンクリステヴァも、対象を定立する超越論的エゴそのものの作用ではなく、そのようなエゴの発生過程を問う。ラカンが依拠したのはフロイトのエディプスコンプレックスの言語論的な読み直しと、鏡像段階という想定である。それらを通じて人間が象徴秩序に参入していく過程をモデル化しようとする。

 クリステヴァはさらにそこから遡り、超越論的エゴが発生するにあるカオスな場を見つめようとする。統辞ルールを逸脱・撹乱するような詩的言語の領域に、秩序をなすものの綻びを見出し、諸秩序が本質的に依拠する反-秩序的なものを探していく。

 その過程で、彼女はアブジェクト・アブジェクシオンの概念に出会う。アブジェクトとは、いまだ「対象」として認識されることのない曖昧な存在で、主観的には「おぞましいもの、嫌なもの」として体験される。しかし同時にそれは自らから切り離せず、絶えず自らがそこに戻っていってしまうようなものでもある。つまりアブジェクトは主体の成立以前の状態を喚起するようなものであり、こうした混沌・混乱としてのアブジェクトを「アブジェクシオン」=棄却することで主体は主体として成立する。

 主体は「主体と客体の区別が曖昧であるもの」(アブジェクト)を排除することで、象徴秩序に参入していく。しかしアブジェクトは一回きりの排除で人間から分離されるものではなく、秩序が秩序たる限り/秩序が秩序たるためにつねに我々に付き纏うものであり、かつ我々がつねにそこへと回帰してしまうようなものである。これは言語=秩序=聖なるものvs身体=カオス=汚れたものという単純な二項対立ではない。詳細は冒頭にリンクした記事を参照されたい。

参考資料:

 

①&④: ハーマンはカントの「物自体」を評価し、実在論の再興を目指した

 ハーマンは「モノは我々から絶対的に無関係なものであり、我々の預かり知らぬ余剰を抱えている」という考え方を持っている。その点でカントの「物自体」と同じ発想であり、本セクションの冒頭で述べた#3の立場=「AはできるがBはできない」に立脚する。にもかかわらず、ハーマンはその前提から真逆の結論を導く。すなわちハーマンが主張するのは、哲学は人間の預かり知らぬさまざまなモノ=真の実在を「思弁的」「形而上学」に考えるべきであるということである。

 具体的に見ていこう:

 オブジェクト指向哲学の重要な特徴は、知的生活には欠かせない要素であるが評判芳しからぬ物自体へのこだわりである。...(中略)...カントの刷新をただ一語に要約するとすれば、何より候補としてふさわしいのは間違いなく「物自体」だろう。過去の哲学が理性を通して直接にモノの真理に到達できるとして独断的(ドグマティック)であったのに対し、人間の認識は有限であり、実際にある通りのモノに至ることはできないとカントは主張した。...(中略)...人間は「現象」のみに直接的に接近し、ゆえに哲学は世界についての瞑想ではなく、人間が世界を理解する際に経由する有限な条件、空間や時間、悟性的範疇についての思考である。

(グレアム・ハーマン『非唯物論』P41)

 他ならぬこの「こだわり」によって、カント哲学がはらむ相関性をハーマンは批判する。以下の記事からの引用が、その状況を端的にまとめている。

 オブジェクト指向実在論Object-Oriented Ontology」(OOO)という別称がよく表しているように、これは実在論存在論である。認識論的な側面がないわけではない。しかし、認識論的な問題系は、存在論的な問題系によって包摂されているようだ

 非唯物論はある程度までカント的な措定をなぞる。対象であるモノがある、認識者は対象=モノにある程度までアクセスできる、しかしながら、十全なアクセスは不可能である、というように。

 カントの言う、現象(五感で認知可能なもの)と物自体Ding an sich(五感では認識不可能なもの)の二層性を、ハーマンはとりあえず受け入れている。しかし、カントがここから、認識不可能な物自体の探求を禁じ、認識可能な現象の方へのアプローチを試みるという戦略的選択を捻りだしたのにたいして、ハーマンは、物自体の把握の最終的な不可能性を受け入れながら、それにもかかわらず、物自体のほうに向かっていく。

(存在がなければ生成はない:グレアム・ハーマン、上野俊哉訳『非唯物論』(河出書房新社、2019) - うろたどな)

 

参考資料:

 

②&③: 現象学精神分析は、超越論哲学の後継者として、異なるアプローチでアプリオリを解明せんとした

 共に#3の立場、すなわち超越論哲学の後継者とされる両者は、想定やアプローチが決定的に違う。両者の共通の土台を示唆する研究こそあれど、それは両者の距離感(象徴的には、意識を対象とする現象学無意識を対象とする精神分析という対比)があまりに大きいが故の逆説的な要請だろう。私にそう感じさせた研究をいかに列挙しておくが、いずれにせよ両者を差し当たり区別しておくことに今のところ不便はないだろう。両者をつなぎ合わせることは人文学における至難の技・宿命の宿題でありながら、のちに私が述べる私の問題意識の解決にあまり貢献しないと考えられるため、両者の関係性の考察はペンディングとしておく。

 

参考資料: 

 

②&④: ハーマンはフッサールの概念を独自に読み直すことで、相関主義的傾向に対抗した

 ハーマンは『四方対象』という著作にて、フッサールを擁護・評価する。

 一方でハーマンはカントに対する場合と同じく、フッサールの前提から逆の結論を導き、超越論的エゴに相関する世界の外へと考察の対象を広げてゆく。

 両者の関係は、以下の研究計画からの引用に端的にまとめられていので、その説明に全面的に依拠したく思う。フッサール側からのハーマンへの反応を含め、その他の参考資料として私が挙げた諸文献も、同様の見解を抱いているので、詳しくはそちらを確認されたい。

 ハーマンの『四方対象』を読むと、オブジェクト指向存 在論はフッサール現象学ハイデガー現象学を土台にしていることが分かる。ハーマンは、 オブジェクトの構造を「感覚的対象」、「感覚的性質」、「実在的対象」、「実在的性質」と規定するが、いずれの概念も現象学に対するユニークな読解を通じて取り出されている。「感覚的対象」と「感覚的性質」は観察者にとって現われる対象性と性質を、「実在的対象」と「実在的性質」は観察者から独立して存在する対象性と性質を意味する。 ところが、ハーマンは現象学を評価しつつ、根底から批判してもいる。その要諦は、現象学はオブジェクトの重要な側面を描き出すことには成功したが、結局のところ、現象学観念論的枠組みにとどまるがゆえに、オブジェクトをオブジェクトそのものとして尊重することができない。つまり、現象学者はオブジェクトそれ自体を探究できない。ハーマンにしたがえば、意識体験の学である現象学では、人間の世界に閉じ込められてしまうのである。
(岩内章太郎『オブジェクト指向存在論と現象学の影響関係の研究』研究概要)

 

参考資料:

 

仮説・目的の提示

 ここで、やはり私の関心の対象であるの関係を、今後の記事で深堀りしていきたいと考えている。

 上記に見られるように、ハーマン的に見ると、クリステヴァにおける「対象」は全てエゴ(正確には、エゴを形成する作用)に依存しており、その発生源をエゴと共有している。後天的に自分と分かたれたものが対象であり、分かたれた後も絶対的に自己と関係している。であれば、クリステヴァは相関主義者、それもかなり極端な部類として考えられるだろう。方法論的に、ハーマンは真っ先にクリステヴァを否定しにかかるかもしれないし、方針が違いすぎて話にもならないかもしれない。その程度の断絶は想定したほうがよかろう。

 そう、確かに、対象と主体の関係という点で両者は「真逆」だ。だが、とりわけクリステヴァに関しては、超越論的主観の成立に先立って存在する「モノ」の次元を捉えようとする点でハーマンと関心を共有しているのではないか?と私は考えるのである。

 冒頭でリンクした記事で言及したが、クリステヴァが研究対象としたものは「アブジェクト」であり、それは主体と客体が未分化な状態を指す。彼女の考えによれば、主体(超越論的エゴ)客体(ノエマ)の区別に先立って存在するアブジェクトという領域に対して、人=「既に成立した主体(超越論的エゴ)」は「吐き気」をもって応答するほかない。それはひたすらな拒絶作用であり、関係の切断である。これこそ、人間の「モノ」性であり、人間の自身に対する「無関係」の契機である(ただし、彼女の考えでは「無関係」こそが「関係」を支えるのだ。その意味では無関係性は絶対的ではない)。

 一方で、ハーマンは、人間主体の取り扱いについて以下のように指南する。

 問題は、所与の状況から人間を差し引くsubstractこと/ ではなく、人間とはただ外部から注視する特権的な観察者というより、人間自身、ある共生における構成要素であるということなのだ。人間自身が対象であるということ、また人間は、自分がいる時間と場所の単なる産物であるのではなく、自分が直面するどんな境遇に対しても抗えば抗うほど、対象と同じように人間はより豊かに、また意義ある存在になるということ、我々はこうした点を忘れてはならない。

(グレアム・ハーマン『非唯物論』P41)

 その後ハーマンは東インド会社を例に取り、それを取り巻く「共生」を、「なるべく人間主観を特権化しないような形」で記述しようと試みる。

 だが相関主義を乗り換えるには、やや「難儀な」課題があると私は考えるのである。『非唯物論』内の東インド会社に関する考察において、ハーマンはいまだ「人の、自身に対する無関係」を問題にしていないと考えられるのだ。

 人自身や、自らを特権化する人の視点をも等しくオブジェクトへと変換するためには、以下のことが必要なのではないか。すなわち、

  • モノによって汲み尽されない「人自体」への我々の「引きこもり」を記述すること
  • 「人」の観点よって汲み尽くされない我々自身の「モノ」性を記述すること
  • さらに、両者の関係と無関係を把握すること

である。そして、この課題を解決するために行うべきは、クリステヴァの理論のような「相関主義的言説」の極を、オブジェクト指向哲学として読み直すことであると私は考える。

 次回以降の記事では、この問題意識へアプローチする何らかの調査を行いたい。まずはオブジェクト指向哲学と精神分析の関係を考察した先行研究を撫でることから始まるだろうか。いずれにせよ、そのような「未来の自分への無責任な期待」をもって、この記事を終えてしまうことにする。