箸休め(あるいは明日も綺麗にならない部屋について)

1 - Room.toBeCleaned();

 屋を掃除する時、その部屋は少なくとも一回、余計に汚くなる。苔のむすごとく沈着した薄い埃も、無造作に積まれた本も書類も、褶曲され押し固められたモル状の組織から、分子状の暴徒へと化す。やはりこの混乱がなければ、新しい秩序は生まれないのだが、果たして我々はそもそも「秩序」を求めていたのだろうか。少なくとも、古い秩序に倦んでいたという言い訳はできるのだが、新しい秩序のためにこうも物事が台無しに散らばっていくのを目の当たりにすると、なんだかそのまま散らばったままでいてもいいのではないかという気がしてくる。そこで、何かを言祝ぐわけでもない、乾いた笑いがこみ上げてくるのだ。

 

2 - Class HelloWorld {String self = new Terrestrial();}

 歩をしたければ外に出なければならないという固定観念は、このコロナの時代には捨てねばなるまい。私のようなプロのCitizenになれば、家の中にいれば、どんな大冒険だってすることができる。なぜなら部屋のものを移動し、並べ、あるいは無視するだけで、分子が新たに関係し直すことができるからだ。

 さらに、家には窓という素晴らしいスクリーンがある。窓から見える様々なマンションに住んでいる人々の生活に思いを馳せると良い。あの黒い■の一つ一つに、人がそれぞれびっしりと住んでいる。そのことを考えすぎると、鳥肌が立ちすぎて気分が悪くなってしまうのでやめておく。だが少なくとも、全宇宙とまではいかなくても、私の家のリビングは、地球の全てとつながっている。それは地層と平原のどちらにも「向けられて」いるのだ。

 地層は神の裁きであり、地層化全般は、まさに神の審判の体制そのものなのである(だが大地あるいは、この器官なき身体は、どこまでもさばきを逃れて逃走し、地層化を脱して、脱コード化し、脱領土化し続ける)。*1

 前者、すなわち地層化というありがたくもあるが嘆かわしい出来事についてドゥルーズは以下のように述べる。

 神は巨大なロブスター、二重挟み、ダブル・バインドである。これは、地層が少なくとも二つ組になって形成されるだけでなく、それとは別に一つ一つの地層もまた二重になっている(各地層自体が複数の層から成る)からだ。事実、どんな地層にも二重分節を構成する現象が認められる。*2

 二重分節を本文に即して、簡単に整理しよう。

  1. 第一分節:「不安定な流れー粒子群から、分子状もしくは準分子状の準安定的単位(実質)を選び取り、または取り出し、これに結合と継起の一定の統計的秩序(形式)を課すもの」
  2. 第二分節:「緻密で機能的な安定した構造(形式)を配置して、モル状の複合物(実質)を構成するもの」

 その背景としての存在論に思いを馳せる。目に見えない「最小」の粒も、コースターでなんとなく作ってみたオブジェのようなものも、全て等しくイマージュである。イマージュは無限に広がらず、有限の切断を無数にその身に浴びて、繋がったり繋がらなかったりする中途半端さによって、映画のようなメディアとしてのぎこちなさを発揮する(ただしあらゆる関係は外在的であることにも留意すべきだ)。世界はグラフィックではなく、モンタージュであり続けるのだ。

 だがここでドゥルーズは、誤解を招かないよう注釈を加える。「明らかにこの二つの分節は、その一方が実質をにない、他方が形式をになうといった形で区別されるのではない」*3。分子状・モル状という区別も便宜的なものであり、常に「●●状」=「どちらかといえば」という傾向の問題に帰着される以上、その極が分離されて作用しているとみなすのは誤謬であろう。

 そしてふと我に返り、部屋の中には、埃と物と、自分の身体だけがあるのを発見するし、自分は地球とも、地球の誰とも、いや目の前の埃や物とも繋がっていないことを発見する。これほどにまで異邦人なのであれば、「いっそ、やっぱり外に出てみたい」と掌を返すのであった。

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3 - helloworld.self.purge();

 人的なものに出会ってしまえば殺される。「会わな」ければ、どこへだって行ける。オンラインで人と会う場合は、相手の目を見なくてもいいし、カンペだって作れる。だから、居酒屋に行けるような時よりもよっぽど「どこへだって行ける」。

 今週もやはり何かを書かなければならない。そのためにブログを書いているのだから。だが、「その」の中身が分からなくなってきたのと、「ために」という機能も可知的でなくなってきたという問題がある。

 しかし、これはそもそも問題なのだろうか。やはりこの混乱がなければ、新しい秩序は生まれないのだが、果たして我々はそもそも「秩序」を求めていたのだろうか。少なくとも、古い秩序に倦んでいたという言い訳はできるのだが、新しい秩序のためにこうも物事が台無しに散らばっていくのを目の当たりにすると、なんだかそのまま散らばったままでいてもいいのではないかという気がしてくる。

 本来書くべき記事などない。強いていうとすれば、一番最初に書いた「あの記事」なのだが、あれはだからこそほとんど誰にも読まれることがなかった。私が言いたいことなど何もない。そんなものはないし、かつてあったためしもなかったのだ。

 物事が手許(てもと)でバラバラになっていく苦しみを、医者は「不安」と名付けた。だが不安というものはないし、かつてあったためしもないのだ。それは意味の宙吊りを利用した意味付与であり、クッションの綴じ目である。到来する「はずの」不在としての未来的な意味。とはいえ、そのように政治的なものであるからと言って、それは別に忌避すべきものでもない。政治は自分の中途半端さを真摯に引き受けることであり、超人と「接続されないという点において接続」されている。超人でないことに絶望せよ、名前は不安であろうが憂鬱であろうがなんでも良い。

 「素直」にものを書けば、人々のウケが良いことを知っている。人間態度の素朴主義化もまた一つの規範である。なぜならそれは、特権的な認識主体たる読み手に対し、「私が近代主観の檻に囚われており、あなたこそが客観である」と頭を垂れる行為であるからだ。幸せなら態度で示せということか。しかし、その権威と権威への服従がなければ、何も書くことができない。書くことだけによって、両者の中途半端な存在の形態を記述することができるはずなのだから。忌み嫌うべきものであるというよりは、初めからそうなっているし、地層化の裁きがあるからこそ、平野に逃げることが成立するのだ。

 

 部屋を掃除する時、その部屋は少なくとも一回、余計に汚くなる。苔のむすごとく沈着した薄い埃も、積まれた本も書類も、褶曲され押し固められたモル状の組織から、分子状の暴徒へと化す。