道具と隔たりの現象学 〜運転できない奴は何をやってもダメなのか〜

ボードゲームの呪い

 

「イケイケな人たち」はボードゲームをよくやるということを、私は知っている。皆さんも心当たりがあるのではないだろうか。

 彼らは人を騙すのがうまく、駆け引きがうまい。ゲームのプロトコルと目標を瞬時に理解し、それに向けて必要な手を打つ。

 私はそうした狡猾さとは無縁の人間だった。私はボードゲームが苦手なのだ。無論、ボードゲームをやるような集まりに友人から誘われたことは、人生で一度もない。下手すぎるからだ。

 かなり昔に家族と一緒にやった「人生ゲーム」でも、私は大抵最下位であった。私が帯びたのは、「お金」以外の切り口においても、誰がみても「最下位」と判断できるようなパラメータの低さであった。

 ふと、コマとして使われる「オブジェクト」に目をやってみる。色分けされた小さな人型のプラスチックの人形が乗っているのは「車」である。そう、そもそも私は「車」にうまく乗ることができないのだった…。

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「運転できない奴は、何をやってもダメだよね」

 

 インターネットなどで、表題のようなコメントを何回か目にしたことがある。非常に悲しいが、この言説に私は全面的に同意せざるを得ない。なぜなら、自分の不器用さ、人生のうまくいかなさが、自分の「運転できなさ」と根底から繋がっているように思えるからである。簡単に私の教習所ライフをご紹介しよう。

 教習所で私は、「見極め」に何度も落ちた。常識的な文体が全然理解できず、筆記の模擬試験にも何度も落ちた。本当に「卒業ギリギリ」だったのだ。

 私は努力した。5回の自主練習で「見極め」を突破し、3,000問×10回の問題演習で試験もなんとか乗り切った。これは、受験生の頃の1科目あたりの対策の労力を遥かに凌駕している。その後も実家に戻った時など、親の監督で運転したことはあったが、危なっかしすぎて頻繁に事故を起こしかけた。

 

 そういえば小学校1年生の頃に、買ったばかりの自転車を飛ばしていたら、自宅から200メートルほどの場所でトラックとぶつかってしまったことがあったのを思い出した。

 

 思えば生まれてから、全てが「そう」だった。手元の道具を、私は何もうまく使えることができなかった。自分が手にする道具は全てボロボロになって何処かへ行ってしまう。先生にもらったプリントはほとんど紛失するか破損させてしまうし、持っている筆記用具は全て一瞬で壊れれたりどこかへ消えたりしてしまい、カバンはすぐに穴だらけ、革靴の紐は1ヶ月でズタズタに切れるし、歩いているだけですぐにほどけてしまう。家庭科の授業で作ったベストは、見るもおぞましい怪物の様相を呈していた。ミシンであんなに手に穴を開けたのに。文字通り「血の滲むような努力」だったのに。

 そうやって何もうまく乗りこなせない自分の不器用さが、私の世界の全てを作っていた。私はそのような世界においてのみこそ、存在することができるのである。

 

 

検討①:世界の世界性 〜ハイデガーの道具分析〜

(忙しい人は飛ばしてください!)

 

 この問題を、ある程度古典的な議論に載せて考えてみよう。世界の世界性と、人間存在(現存在)の存在のあり方と、人間にとっての世界のあり方を「道具」という切り口で語り始めたのはハイデガーであった。ハイデガーの「道具分析」と呼ばれる有名な議論を見てみよう。

※参考文献は以下の二つ:

  1. 存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫) マルティン ハイデッガー 
  2. ハイデガー入門 (ちくま新書) Kindle版

 まず、ハイデガーの「世界」に関する問題意識を簡単に整理しよう。彼は、デカルト的な「延長するもの」の集合的空間としての世界像を拒否し、「それをして、適所性という存在のあり方において存在者をで合わせるところのもの」として新たに世界を捉え直そうとする。適所性とは「手元にある道具が、手頃な大きさを持ち、適切な形態を持ち、しかるべき場所に置かれていること」という配置性のことである。人間にとって世界とはそのようなものである。

 彼によれば、そのようなものの見方こそが現象としての世界の理解を取り逃さないことに繋がるという。少し長いが、以下の引用で彼の目論見を確認されたい。

 従来の存在論を振り返ると、そこでは世界=内=存在という現存在の構成が取り逃されてきただけでなく、それに伴って世界性の現象も飛び越されてきたことがわかる。そして人々はその代わりに、世界の内部に客体的に存在していて、その上さしあたっては決して発見されていないような存在者、すなわち自然を基にして、この存在者の存在から世界を解釈しようと努めているのである。…(中略)…

 

 逆に、現存在の世界性と現存在の世界化の様態や様式を解釈する我々は、現存在が世界認識という存在様式をとる時に、世界性の現象をなぜ存在的にも存在論的にも飛び越すことになるかを、示さなくてはならないだろう。それと同時に、このような飛び越しの既成事実を見るにつけても、世界の現象に接近するためには、このような飛び越しを防ぐような適切な現象学的手がかりを得るように、特別の予防策が必要である、ということが知られるのである。

 我々はそれに従って、世界=内=存在を、ひいては世界をも、現存在の最も身近なあり方としての平均的日常性の地平において、分析の主題にする。すなわち我々は、日常的な世界=内存在を追跡し、そこに現象的手がかりを求めながら、世界というようなものを目撃しようとするわけである。

(『存在と時間』P156)

 ハイデガー現象学的に捉えられた「世界」を、人間が実存するところの環境の持つ独特の存在論的形態であるとし、客観的に理解されたような「自然認識」的世界像と鋭く区別する。

 その「世界の世界性」を最も身近な形で顕著に示すのが、「適所性」の担い手たる「道具」であるとハイデガーは主張する。人間にとっての道具のあり方は、諸々の存在者が集合的にパッケージされている時間・空間的領域の諸項目ではなく、そこにおいて人間が存在者に出会うような、特別な「身の廻り」性(環境性)なのである。

 ハイデガーは諸々の道具の「手許(てもと)性」と「手前性」を区別する。前者が「道具が意識されていない状態」であり、後者が認識の対象としての定立されたものとなった道具の状態である。我々は普段道具を「使う」が、その時には特に道具自体を意識することなく、道具を使って成し遂げたいことのことを考えている。そのときの道具は人間にとって、「目立たない」、透明のような存在である。これが「手許性」である。

 道具がその存在においてありのままに現れて来るのは、例えば槌を揮って槌打つように、それぞれの道具に呼吸を合わせた交渉においてのみであるが、そのような交渉は、その存在者を出現する事物として主題的に把握するのではなく、ましてそのような仕様が、道具そのものの構造をそれとして知っているわけではない。…(中略)…

 槌が単なる事物として眺められるのではなく、それが手っ取り早く使用されればされるほど、槌に対する関わり合いはそれだけ根源的になり、槌はそれだけ赤裸々にありのままの姿で、すなわち道具として出会ってくる。…(中略)…

 道具がこのようにそれ自身の側から現われてくるような道具の存在様相を、我々は用具性(Zuhandenheit)と名付ける。

(『存在と時間』P163)

 道具のような「内世界的」存在者を目の前にした際、槌で何かを打つというような「実践的知識」の場面が、存在者を諸々の集合にカテゴライズして捉える「客観的知識」の場面に先立つのである。道具は「…のため」という構造(「配慮」)に基づいて、その手許性においてすでに人間によって了解されているものなのだ。

 さて、そのような道具が壊れた時には、どうなるか。道具が壊れて使用不可能になると、それは「目立つもの」へと変貌する。その時には道具はようやく客観的に捉えられるような対象となるが、その場合でも、「目立つこと」によって道具の手許性をありありと(迂回的とはいえ)開示する。ゆえにここでも、「手許性の手前性への優先」という原則は守られており、手許的な存在=「透明なままうまくいくもの」こそが道具の根源的なあり方であると解することができる。

 

 駆け足であるが、以上がハイデガーの「道具分析」の要約である。さて、これをさらに「私にとっての」現象として解釈してみる。

 

 私自身の「所感」レベルのことを言えば、私の「道具」の経験だけに則して考えるならば、これはやや人間中心主義的というか、少なくとも能力主義にすぎるのではないか、と私には思われる。確かにハイデガーによる道具分析は、「道具が壊れた場合に、そのインターフェースがうまく機能しなくなる」ことも視野に入れた描写である。しかし、私にとっては、そもそも全ての道具が初めから壊れているように思えるのだ。そして壊れたものと壊れたまま付き合い続けることによって、ようやく道具に対する違和感が消失し、「手許的存在」=「透明なままうまくいくもの」としての道具と慣れ親しむことができる。だが少なくとも、そうなるには、私にとってはかなり長い時間がかかる。ハイデガーの道具分析が描写する世界の世界性は、私にとっての世界の世界性と食い違っているように思えるのである。

 このように「うまくいかない」こと自体が自分と世界の根本を構成するような説明に立ち会うことは、ハイデガーの道具分析の中だけでは難しいように感じられる。

 

※ただ、注意していただきたいのは、もちろんハイデガー存在論に則って存在のあり方を議論する際には、ハイデガーの諸概念をきちんと受け入れて論じなければならないということである。例えば、「うまくいかない」ものはすでに道具として壊れているのだから、ハイデガーの枠組みに抵触しない、と考えるべきである。

※とは言え、こうした私の主観的な反論・反感が全く無意味であるとは思わない。後に紹介するように、そのような「主観的違和感」が道具分析の「変奏」とも呼べるような応用を可能にしているケースがあるからだ。

 

 

検討②:道具のアクセス不可能性 〜ハーマンの道具分析〜

(忙しい人は飛ばしてください!)

 

 直接私の感覚に近しい言説に飛びつくより、まずはハイデガーの道具分析がどのようにアレンジされているかというところで、私ともハイデガーとも別種の考え方を一つ紹介する。

 ハイデガーの道具分析をアレンジして、モノの独立性・不可視性がより強い世界観を形成したのはグレアム・ハーマンだった。彼のオブジェクト指向存在論キノコの記事に詳しいので、そちらを参照されたい。

 

※参考文献は以下の二つ:

  1. 非唯物論: オブジェクトと社会理論 (日本語) 単行本
  2. 退隠と四方界 ―ハーマンはハイデガーから何を引き継いだのか―

 ハーマンは「退隠」というハイデガーの概念に着目する。「退隠」とは、先ほどの議論において、手許的道具が「目立たない」状態を指すものである。

 彼はこの「退隠」を基に、ハイデガーの道具分析を存在論的に読み替える(ただしこれはハーマンによる明らかな「誤読」であるというのが通説である。「ハーマンはハイデガーの概念を自分流にアレンジした」という理解で問題ないだろう。誤読の詳細は上記PDFを参照されたい。)。

 手許にあるものは、退隠するという性格をもつ限り人間から独立に存在し、決して汲み尽くされることがない。他方で、手前にあるもの(Vorhandenes; 眼前存在者)は人間との関係のうちにあり、私たちの知識に依存した存在者である。以上から、ハーマンは一般的なハイデガー解釈と逆の帰結を導く。「手許性はつねに〔人間から〕独立していなくてはならず、手前性は〔人間に〕依存していなければならないのである。」(52(84))どのような関係にも還元不可能な退隠する道具存在というハイデガー解釈から得られた概念をもとに、ハーマンは実在的対象というハーマン自身の概念を描き出す。実在的対象は、私たちのあらゆる経験から退隠
するものであるがゆえに決してアクセスできないものとして存在するのである。

『退隠と四方界 ―ハーマンはハイデガーから何を引き継いだのか―』P50

 人間がなんの困難もなく道具を使用している場合には、道具は「インターフェースとして、つまり人間(主観)とモノ(対象)をなめらかに(障害なく)つなぎ合わせ、対象の変化や移動という目的に合わせて道具は『透明化』する」。この点まではハイデガーと全く同じである。

 しかし、ここでハーマンは対象のアクセス不可能な実在性という自らの概念に接続する。ゆえにハーマンは「壊れた道具」こそが、「使える状態の『手許存在』の背後にある文脈や地平としての『道具関連』の地平を示唆する」(『非唯物論』、P175)とする。これはハイデガーの「目立つこと」とは異なり(これはあくまで「…のために」という、人間存在に依存した全体性に接続される「目立ち」である)、道具それ自体の存在を思弁的に考える契機である。その点で、この「壊れた道具」の契機はハイデガーのものと全く異なる方向に向かっているのである。

 さて、こちらは私にとってややしっくりくるものである。これは、私の世界観をある程度説明してくれるだろう。道具が蠱惑的に存在し、私にとっては理解も及ばないようなイニシアチブを握っているのだ。私とは関係なしに、私のあずかり知らぬところで、道具は自立している。

 しかし依然として「道具が人間によってナチュラルに使われる」ことを想定している。つまりそれは引きこもりでありながら、依然として、円滑なインターフェースの存在を想定した引きこもりなのである。不器用な人間にとって、あらゆる道具が最初から、円滑なものではなくむしろ障害になり得ることを、存在論的にどう説明すれば良いのだろうか。探究はまだまだ続く。

 

  

検討③:そもそも道具を使えない 〜道具分析から身体分析へ〜

(忙しい人も、できれば読んでください!)

 

 先ほどの「円滑でない道具の世界観」にマッチする言説を「道具分析」縛りで探してみて、私がたどり着いたのはD.リーダーという障害学(ディスアビリティ・スタディーズ)者である。彼の見解は以下の田中(2014)論文が手際よくまとめている。

 

※参考文献は以下の一つ:

  1. 障害の身体におけるコミュニカビリティの研究 : 芸術と日常の実践を中心に

 彼のキー概念は「ディス・アピアランス(dis-appearance)」である。田中の説明によると、これは「身体に痛みや機能不全があるときに、普段は無意識のなかに沈む身体が、意図せずして意識に立ち現れる身体の現象」、つまり「身体が自己、さらにはそれまでの身体そのものから離れたものとして、『異なるかたちで現れる』その相貌を意味するもの」である。

 リーダーは、ハイデガーの道具についての議論を用いながら、道具が身体に組み込まれ、身体の拡張した一部として身体のなかに入り込んでいる状態とは異なり、自分の身体を道具のようには「使えない」と経験するようなものとして、ディス゠アピアランスの様相を論じている。ここで示されるディス゠アピアランスの特徴は、我々が日常の熟練や健康から離れて、隔たっているときに生じる傾向があるということであり、加えて、身体がしばしば自己から離れた、隔たったものとして経験されるということである(ibid. p.87。それゆえ、正常あるいは健康であるときには意識のなかに現れることのない(消失したdisappearance)身体に対し、ディス゠アピアランスは、機能不全や問題のある状態に引き起こされる身体の主題化を指すことになる。

(『障害の身体におけるコミュニカビリティの研究 : 芸術と日常の実践を中心に』P25)

 「(身体または道具の欠損により)道具を使えなくて、道具が目の前に立ち現れる」場合だけでなく、「道具を使おうとして使えない、自らの身体」こそが異質なものとして立ち現れる場合を主眼とする。これは非常に自分の感覚に近い説明であると考えられる。私の場合は手足こそ自由に使うことはできるが、道具の透明な道具性とは決定的に切り離されたものとして自分の身体をいつも知覚しているというのは事実だ。

 とはいえ、やはり「身体自体を道具のように使えない」ことに対する当事者性はやはり「健常者」の私には十全に担えないものである。これらの観点の差異を存在論化することは、障害学の観点からも、私の個人的な探究の観点からも、非常に重要である。

 

 さて、ここでリーダーの、障害学(ディスアビリティ・スタディーズ)における位置づけを説明しておこう。リーダーたちは「障害の社会モデル」(ざっくり言えば、障害を社会の構築物・無力化の過程とみなすこと)による「インペアメント」(身体の機能不全)の非政治化に対抗する。障害の社会モデルは身体を障害から引き剥がしてしまう。だがそうではなく現実には、インペアメントは身体と結びつくことで、経験の根深いところで政治的に作用しており、決して軽視することができない、と彼らは主張する。これは、世界や自分の立ち現れ方にインターフェースの円滑さが根本的に寄与しているとするハイデガーの枠組みにも一致する。

 これをさらに、ハーマンの議論にぶつけてみよう。ハーマンは、人間中心主義を徹底的に嫌い、「対象(オブジェクト)」の次元でフラットに物事を説明しようとする。その中で、人間もまた特権的な認識主体ではなく、対象=オブジェクトであると説いた(キノコの記事参照)。しかし、リーダーの考えを踏まえると、身体も様々なパーツに満ちており、それぞれが自分からアクセスできないオブジェクトたり得るのではないか、と私は考える。リーダーなどによる「ディスアピアランス」の観点は、自分の身体をオブジェクトとして分割しつつ、それぞれに対して安易な所与を想定せず、そのアクセス不可能性に思弁的にアプローチしていく一つのきっかけになるのではないか。その意味で、障害学はOOO(オブジェクト指向存在論)の今後の展開に寄与しうる要素を持っていると考えられる。

 壊れた道具と身体の世界めぐるひょんたの探究は、まだまだ始まったばかりである。ひょんた先生の次回作にご期待ください。

 

 

ここで懺悔します!

 ここまでで、自分の経験をある程度「道具分析」によって可知的にすることはできたかと思う。しかし、Macでこうして文章を作っている私はいよいよあらゆる違和感を抑え難くなり、徐々にブラインドタッチによるタイピングをすることもできなくなってきた。押すべきキーを一つ一つ確認しながら、この文章を打っている。

 まず指摘できるのは、論証不足と、論証の不可視化である。これを書くために行った膨大な調べ物とその整理は、結局ほとんどアウトプットとして形を見せることがなく、見せても最終的には消されてしまった。だがそもそも道具分析は「存在論」という巨大な「知脈」の一つの枝であり、それ自体で成立する「系譜」として擁護するのも難しい。限られたスペースで説得力を増すための、「参照」という基本的なスキルが自分には身についていなかったのだ。

 かといってそれでも中盤はややこしいので、おそらく「検討」の①〜③はほとんど読んでもらえないだろう。「忙しい人は飛ばしてください」と、自分で予防線を張ってすらいる。ならば論証も、適当でもいいのではないか?いや、そういう場合ほど、「補足資料」としてしっかりした論証をするべきではないか?

 そもそもオレンジの太字は、それだけを拾うことでだいたい言いたいことが伝わるようなメディアを作るためのものである。私はこれを典型的なブログやビジネス書の形式をまねることで「習得」した。だがそれは先人の知恵を雑に、都合よく引用してしまっているだけなのではないか。

 この都合良さは、特に当事者性の問題に顕著に現れているだろう。先ほど私は、「自分は五体満足であり、障害を抱えた人との断絶をしっかり認識しないといけない」と予防線を貼ることで、自分が直面する問題のレベルを調整し心地よい説明を求めた。もちろんそれを一般化することはできない。だが、私は少なくとも、その実感をわかってもらえるようにすることで私の売り出しを行おうとしている。いわば、障害者を「ダシ」にして、注目を集めようとするような売名行為・間接的搾取である。これが倫理的に赦されてたまるものだろうか。

 そもそもそうやって「ブログのPVを稼ぐこと」=「自分を売りに出すこと」にすら、今や違和感を感じてしまうし、どうすればそれがうまくいくかも、自分にはよくわからない。売りに出すような価値も意味もない自分を無理に売り出したところで、一体何になるのか。キノコになりたいなんて生ぬるいこと言ってんじゃねーぞ。

 

 ブログという営みに慣れても、いや慣れてしまったが故に、そのプロトコルとゴールが上滑りして、自分が何をやっているのかわからなくなってしまう。

 「道具分析」の枠組みに戻るならば、ブログという媒体が自分において壊れてしまったようにも思えるし、ブログという道具を扱う身体が酷く破損してしまっているようにも思える。だがそれは、「スランプ」の一言で片付けられるようなものではない。そもそもこれが、本来の状態なのだ。うまくいっていたと思うのが、ただの幻想だったのだ。

 

そもそも私は、ブログをうまく書けない。何をやってもダメなのだ

 

 

そろそろお開きにしましょう…

 

私「…という悩み?があるんです」

 

先輩「あー…それはね、コミュ障特有の『反省会』をしちゃってるからダメなんだよ」

 

私「…というと?」

 

先輩「コミュ障ってさ、誰かと話したあと家に帰って、自分がした会話のことを反省し出すじゃん。PDCAのCの部分で止まってるってこと。君は、Aをしなければならない。どんどん次にいけばいいんだよ、次」

 

私「…はぁ」

 

先輩「まあ正直君の言ってることはよくわからないし、理解できていないからこちらが何かを言えるのかはわからない。でも、そんな時でも、とりあえずやってみればいいんだって」

 

私「そうですね…」

 

先輩「呼吸の仕方を考えちゃうから呼吸できなくなるんだよ。そういう奴は、何をやってもダメだよね」

 

私「そう…ですよね、深く考えすぎないようにやってみます」

 

 

 この人は、わからないなりに、こちらに寄り添ってくれる。私はこの人の言っていることに一ミリも賛同できない。しかし彼が持ち合わせているのは、優しく、素晴らしい人間性ではないか。私みたいな無能下等生物にも、対等接してくれるの

 そのまま私たちは会計を終え、JRの駅のホームに着いていた。無論、私が使うのは銀座線なので、先輩に合わせてルートを調整したというわけだ。

 

 

先輩「それじゃ、俺はここだから、お疲れ様でした」

 

私「はい!本日もありがとうございました。また明日も頑張りましょう!」

 

 

 

 

 

 その後私は感謝の念とともに先輩を後ろからつけ、店から持ち出したビール瓶で思い切り殴り殺してしまった。自分でも訳のわからないことを叫びながら、何度も何度も、執拗に側頭部を打ち付けた。瓶の破片が頭皮に突き刺さっており、私の手も血まみれになってしまった。

 でも私は不器用だから、先輩の頭の重心に、瓶をうまくクリティカルヒットさせることができない。だから何度も何度も殴るしかないのだ。先輩は、徐々に意識を失っていくようだった。

 

 周りの人々は皆、異様なものを見る目でこちらを見ている。刮目するが良い。これが不器用な人間の末路だ。

 

 

 

 

 飲み会が終わり、人殺しが終わり、私の世界から誰もいなくなってしまった頃には、私は鮮血とアルコールの海に溺れて、呼吸をするのも面倒に感じ始めていた。

 徐々に凄まじい頭痛と眠気に襲われ、私はその場で横になり、先輩の骸の横で眠りについた。

 

 

 それでも寝ている間に呼吸をすることができてしまって、どうやら朝を迎えることができてしまったらしい。これが、「とりあえずやってみる」ということなのだろうか?

 

 駅の近くにあったシンボル的な時計の針は、朝5時を迎えていた。警察に通報されることもなかったようだ。そもそも駅には誰もいなかったのだ。警察すらも、今は「自粛」している。一緒に飲んでいた先輩の亡骸も、そこにはなかった。だから大丈夫。そこに事件性はないのだ。

 

 

 

 私の頭皮は、かさぶただらけになっていた。ひどい頭痛を蓄えながら、そして血まみれの服のまま、私は銀座線のホームで始発を待つことにした。