レヴィナス『逃走論』精読 (3)

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今回の対象箇所

エニュマエル・レヴィナス 著「逃走論」合田正人 編/訳『レヴィナス・コレクション』、ちくま学芸文庫、2013、P143~178

  • 今回はP149~151をターゲットとします

 

いざ精読

第9段落(一部)

この段落ではまず、レヴィナスは逃走の概念を、第五段落までに述べられてきた様々な立場と比較する。

詩人」が卑属な現実から逃れてイデア的な理想に向かうのも、「ロマン主義」のヒロイズムも、「ブルジョワ」の不安解消への活力も、西洋哲学も、全て「存在の安逸」を前提としているということである。この主張は、すでに第一回、第二回の精読で確認してきた。

なぜなら、逃走は単に、人間と人間を恐怖させる自然とのありうべき同一化ではないからだ。こうした動機はすべからく、逃走という主題の変奏にすぎず、変奏は主題の深さに見合うものではありえない。もちろん、変奏は主題をうちに秘めてはいるが、その調をすでに変化させてしまっている。それというのも、これらの変奏は存在を問いただすものではいまだなく、有限な存在の制限を超越せんとする欲求に従うものだからだ。それらは、存在そのもののではなく、我々の存在についてのある定義への恐怖を表している。

なぜなら」、と文を始めつつも、ここでは「逃走」とそれ以外の立場がなぜ違うのか、という理由を示しているというよりは、両者をひたすらに対比しているものと考えられる。そしてレヴィナスは、前者を「主題」、後者を「変奏」と呼んでいる。彼によれば、「無限と同一化したい」=「制限を超越」したいという欲求も、実は逃走欲求がベースにあるというのである。このように、後者が前者の「派生」であることは特に論証していないように思われるが、一応「それというもの」以下で説明されているとも取ることができるだろう。

「変奏」が変奏たる所以は、それが「存在そのもの」を問いただすわけではなく、あくまで制限超越の能力という尺度で自己を評価しているだけだからである。そうではなく、「そもそも存在が所与のものとして自明視・不問にされるようなものであるべきではない」とする立場があるのならば、それは諸々の「変奏」の基盤・前提条件を問うものであるから、より根本的な問題意識である(だからこそ変奏は主題を「うちに秘めている」)。そしてそのような問題意識は「いまだ」到達されないまま、「すでに」変奏へと変質してしまっているのである。

引用部分の後に続く部分では、逃走の欲求は目的地を持たず、本質的に解消されないものであるということを示している。逃走は「避難所」を探す行為ではない。それは「」というものを目指してしまう時点で、避難先の新たな存在への安逸に依拠することになる。そうではなく、逃走はいつでも、「どこかへ」いかなければならないとする欲求である。であれば、自分がどのような存在を抱えていたとしても、それをすり抜けようとし続けることを指すのであり、だとすれば絶対的に満たされないものである。

少し話題はそれるが、この逃走「欲求」という言葉は、精神分析の「欲望」と共通の性質は持つ。少なくとも両者とも、「あり得ないものを求めること」である点は同じだ。精神分析は主体の下部構造を明らかにし、主体中心主義を揺るがした。概ね、レヴィナスは自同性に基づくデカルト的な理性中心主義を乗り越えるものとして、精神分析を肯定的に捉えているように見える。

いや、自己意識はそれ自体で解体してしまうのだ。精神分析は、コギトにおける自己の一致の不安定さとそのまやかしの性格を証示した。かつてはコギトは、悪意の精の悪巧みを阻止し、至る所で胡散臭いものと化した宇宙に、以前の安定を回復させるものであったのだが。デカルト以降、存在は意識のうちに存在するとみなされてきたが、そうした意識の中での自己との一致は、<他者>にとっては(事後的には、主体自身にとっても)様々な衝撃や感力化や言語に操られ、歪曲されたものとして現れ、これらの衝動や感力化や言語は、性別はともかく人格という仮面を、百歩譲っても、単に経験的な内実を備えた登場人物として構成する。

(「ヒューマニズムアナーキー」『レヴィナス・コレクション』P)

だが一方で、両者は、不思議な対比をなしているようにも見える。発生論的には、後者が去勢によって奪われた存在の欠如を埋めるようなものであるのに対し、前者は、むしろ存在がただ存在してしまっていることをその由来としている。

にもかかわらず、「存在」からの逃走という点で、精神分析(特にラカンによるもの)とレヴィナスの志向は非常に近似していると思われる。

ここで、1点記事を紹介しよう。この記事で筆者の工藤は、ラカンフロイトにおける無意識を「脱-存在論化」し、存在論の「手前」にある暗黙の地帯を明るみに出したと述べている。これはまさに、一人の人間の主体という点に限れば、レヴィナス精神分析を評価するポイントである「まやかしの性格を証示」することにつながるものである。

www.akishobo.com

工藤も引用した『セミネール』の一節をここにも引用しておこう。

裂け目(béance)をつうじて姿を現す無意識の機能は、いわば前‐存在論的なものである。私はこの特性を、存在論に帰さないことによって強調した。それは、無意識の最初の発見、最初の出現の、あまりに忘れられがちな――その忘れられる仕方にも意味がないわけでない――特性である。まずはフロイトに、そして発見者たち、最初の歩みを刻んだ者たちに対して現れたこと。あるいはなお、分析のなかで無意識に固有の次元に属するものに関心をもち、それに焦点を合わせようとする誰に対しても現われること。それは、無意識とは存在でも非存在でもなく、現実化されていないもの(non-réalisé)に属している、ということだ

確かにレヴィナスの心みと精神分析は、同じであるとは言えない。いや、そのようにいうことは、レヴィナスのテクストに即して許されない。なぜならその相同性を指摘しようとすること自体、存在の安逸をモデルとした同一律に依拠した性質付与、還元主義だからだ。むしろ「〜のように」という模倣性が、両者が「同じであって同じでない」という状況を表すのに最も適している言い回しであると考えられる。レヴィナスフロイトラカンのように、存在とは別のことを考えている、とのみ述べることができるだろう。

「存在するとは別の仕方で」。またそのような「仕方」に想いを馳せるような新たな知の欲動のことを、レヴィナス精神分析は語っているのだ。とすれば両者は逆説的に、優れてデカルト的と言えるだろう。ただし、デカルトがなおも諸存在の自同性のモデルに基づいて「この私」の同一性を説いたあの「折り返し地点」において、なおも西洋哲学の伝統を徹底することで、レヴィナス精神分析とともに、皮肉にも西洋哲学の弱点を突いたと考えられる。 

 

第10段落(全体)

逃走の欲求は、生の跳躍や創造的生成とも同一視されえない。ベルクソンの有名な叙述によると、それらは予め到達点を定めることなく、それを創造する。しかし、創造された存在は、それが一個の運命に刻み込まれた出来事である限り、その創造者にとっての重荷と化すのではないだろうか。存在に孕まれたまさにこのような重みからこそ、逃走は遠ざかろうとする。なるほど、生の跳躍による継続的刷新は、現下のものと化すやいなや、過去に転じる現在の牢獄を破るし、創造も、その作品への賛辞では決して停止したりしない。とはいえ、生の跳躍においては、刷新はやはり創造とみなされ、それゆえ、存在への従属を示している。創造的飛躍の哲学は、古典的な意味での存在の硬直性とは隔絶しつつも、存在の威信から解放されることはない。なぜなら、現実の彼方に、それは、現実を創造する活動しか認知しないからだ。現実を乗り越える真の方法の本義が、当の現実に行き着く活動と似たものたりうるかのように。

いきなりベルクソンの諸概念が出現しておくので、手短に「紹介」しておく(とはいえ以下の紹介は『創造的進化』やその他関連文献を読みつつ概念の対立構造を整理したものにすぎず、正確な理解には程遠いので、別サイトなどを参考とされたい)。

ベルクソンは生命的存在と非生命的存在を対比する。またそれとともに、生命的思考と非生命的思考も対比する。後者の思考は例えば「進化論」であり、物事を「知性」によって「空間」にピン留めし、静的な概念として捉える思考である。対して前者の思考は「時間」に着目し、内的な直観によって絶えず変化する強度を捉えるものである。あまり前例のない前者の思考を推し進めようとしたのがベルクソンであった。

生の跳躍」は生命の「進化」という現象を前者の思考回路によって捉え直したものである。ベルクソンによれば、非生命的な思考回路によっては「進化」の結果とその外的要因をこそ辿ることができるとはいえ、進化そのものに肉迫してそれを知ることはできない。我々が真に進化の現場に立ち会うには、空間ではなく時間における、知性を超えた生命の予測不可能な生成変化を捉えなければならない、とベルクソンは主張する。

さて、このベルクソンの考え方を、レヴィナスは一方で評価しつつ、もう一方でそれ以上に批判する。まず「評価」の面から見ていこう。

ベルクソンはまず「現下のものと化すやいなや、過去に転じる現在の牢獄を破る」点でレヴィナスによって評価されている。それは「ある存在」に一時的にでも安逸することを許さない。別の言葉で「創造も、その作品への賛辞では決して停止したりしない」という点でも評価されている。これは前段落で見たような「避難所」としての別の安定した存在を探すという姿勢からはすでに逸脱して、常に「それとは別の仕方であるもの」を希求する態度のことを示すと考えられる。

だがそれにもかかわらず、レヴィナスは創造や跳躍を「逃走ではない」ものとして断定する。それはなぜか。理由はベルクソンの考え方が「ある存在に」安逸することを避けるのであって、「存在するとは別の仕方で」を求めるものではないからだ。

「創造・跳躍は逃走ではない」という主張は、これまでのレヴィナスの論旨からも理解しやすい。確かに創造・跳躍は、「刷新」はするし、同一の存在において安定したりしない。しかもその行先は予期できないものである。だが、結局は、「存在すること」自体に従属しようとすることである点は変わらない。そのような闘争的なゲームである点は変わらないのだ…。

レヴィナスはそのゲームへの拘束をまたも「現実」という言葉に言い換えている。「現実」においては存在から逃れることができず、逃走は不可能性に根ざしていると言える。第二回の話を踏まえれば、存在をめぐる闘争的なゲームから逃れることはできないが、だからこそ闘争から逃走することを希求する、という趣旨になろう。その意味でベルクソンは、「現実の彼方」に、「現実を創造する活動しか認知しない」ものとして糾弾されてしまうのである。

 


第11段落(部分)

この部分では、ほぼ前段落と同じことを言っている。「生成は存在の反対物ではない」というのはすでに述べたとおりである。それは「抗い得ない」仕方で存在へ従属することである。未知のものへ向かうということは、すでにその未知のものが「在ること」を前提としているので在る。

これに対して逃走はただの「脱出」であり、目的地を持たない。

刷新とも創造とも同一視することのできない、この逃走というカテゴリーを、全く純粋な形で把握しなければならない。類を見ない主題であろう。…(中略)…

以上に見てきたように、逃走の欲求に対して、存在は障碍のごときものとしてのみ現れるのではない。その場合には、自由な思考がその克服を課題とすることになるからだ。存在はまた、ルーチンへと導くとともに独創の努力をも強いるような堅固さとして現れるのでもない。このような一種の幽閉からこそ、脱出しなければならないのだから。

ベルグソンの生成論も、存在の安逸に依存する闘争的ゲーム、西洋哲学の伝統の延長であるとレヴィナスは考える。それは自我と非自我を対比させながら自己存在の完成に向かって努力し続ける時点で、一種の「ルーティン」である。あらゆる可能な自己啓発本を敵に回したような言い回しが、とても清々しい印象を我々に与える…。


第12段落(全体)

実存は、他の何物にも準拠せずに自己を肯定するような絶対者である。それは自同性なのだ。ただし、実存におけるこのような自己自身への係りのうちに、人間は一種の二元性を見分ける。自己自信と実存の同一性は、論理的ないし同語反復的な形態を喪失する。これから示すようにそれはある劇的な形態をまとうのだ。自我の自同性において、存在の同一性は緊縛というその本性をあらわにする。なぜなら、自我の自同性のなかで、それは自足せる安逸の形を的って現れ、逃走へと誘うからだ。このように、逃走は自分自身から脱出せんとする欲求である。言い換えるなら、最も根源的で最も仮借なき緊縛、自我が自己自身であるという事実を絶とうとする欲求なのである。

実存の定義は前回を参照。それは制限、完成・未完成といった尺度から独立した存在の絶対的な同一性である。それは、事物の自同性であり、人間主体の自同性や、諸特性の自同性のモデルにもなっている。これは絶対的なものなのであり尺度を超越している。諸「特性」が「同一律」という論理学・言語の仕組みに依拠した表現であるのに対し、実存はそうした制約すらも受けない。

この制約という観念を捨象したら、いよいよ「逃走」欲求のベースとなる「現実」たる、存在の「束縛」性が本性として立ち現れる。それはもともとヘーゲルの枠組みにおける「安逸」という心地よさだったものが、今や不快なものになったものである。その意味で存在は、二元的であると言える。その二元性はこれまでみてきたように、「仮象」と「本源性」という二つの軸に依拠している。

今や最後の文章は説明の必要はないだろう。ここが最も多く引用されていると思われる箇所だが、これまで見てきたように、その高品質な引用には、ヘーゲル的な枠組みと、彼の独特な反復的言い回しによる彼の逃走観念との、比較的単純な二項対立をしっかりと捉える必要があると考えられる。

 

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今回はここまでです。第4回に続く(かもしれない)ですがキリがいいから今回を最終回にするかもしれません。