弁証法的「奴隷」戦争 〜サルトルとクリステヴァにおける主体の否定性〜

※忙しい方は検討の中にあるヘーゲル読解における共通点と相違点というセクションから読み始めてください。

 

背景

ジュリア・クリステヴァのほかに、私がもう1人深く勉学の対象にしたいと思っている思想家がいる。それはJ.P.サルトルである。学生時代にも、わからないながらも彼のテクストを一部読み、その一部をR.D.レインに関する卒論でも扱った。

だがサルトルは、現在私が「深入り」しているクリステヴァが属するような精神分析系・記号論系の思想家とはかなり毛色が違う。かつて(1960年代ごろ)には「マルクス主義か、サルトルか」という文言が流通したほど、サルトルは「知の巨人」として名を馳せていた。クリステヴァはどちらかというとマルクス主義レーニン的な読み直しにも依拠しており、サルトルとも対立関係にもあると言えそうだ。

だがサルトルはその処女作となる小説『嘔吐』から集大成とも言える論考『存在と無』に至るまで一貫して、「自己に内在する否定性」という、クリステヴァのアブジェクトに非常によく似た理論的対象を扱っているように見える。これらの依拠する諸前提や構図の共通点及び相違点はなにか、というのが今回の記事の問いである。

そこでサルトルクリステヴァにおける「主体の否定性」を、彼らの共通の土台であるヘーゲル弁証法との関係において、無謀にも比較することとしたい。

 

仮説

サルトルクリステヴァの否定性は、その依拠する弁証法原理の前提やその現象的結果こそ違うが、共に主体を「奴隷」として定義づける根源的なものである

 

検討

前提: 主人と奴隷の弁証法

サルトルクリステヴァについて比較するための土台づくりとして、いきなりヘーゲルに「寄り道」する。まず、レヴィナス『逃走論』精読 (1) - pyonta-hyontaの主体論の段落を引用することで、ヘーゲル的な「主体」と「もの」の関係を前提としておさらいしておく。

ヘーゲル哲学において「存在」とは「本質」に対峙するものとされる。「これはペンである」というときの「これ」が存在、「ペン」が本質である。存在は感覚的確信で捉えられるが、本質は人間誰もが認める公共的な真理である。であれば、人間の「本質」の観取への道に立ちはだかり続けるものが「世界」における「存在」である。

ヘーゲルによれば、あらゆる「事物」は実体(具体的なもの=諸「存在」)と性質(一般的なもの=「本質」)の二元構造をなすものとして捉えられる。そして人間の認識は、ただ実体だけを「感覚」によって捉える認識のレベルから、実態と本質の二元構造をなす事物を捉える「知覚」へと発展すると考える。それは個別的なものを「否定」し、言語によって一般的な概念を通して評価する行為である。

よって人間主体は、自らの存在を賭けて世界(自然)の諸存在による制約を超え、対象を定立する。最終的に審級されるべき人間主体はその超越的運動の果てにあり、絶対的な本質の観取に基づいた知性そのものであるべきなのだ。その統合のプロセスには当然「個々の」人間主体どうしの闘争も含まれる(「主人と奴隷の弁証法」の議論を参照)。

レヴィナス精読第一回の記事では省略したが、ここで「主人と奴隷の弁証法」と呼ばれる、自己主体と他者主体の間の闘争を表すテーマを詳しく見てみる。ヘーゲルは、「この」存在のみを感覚的な確信のみによって捉える段階を「自己意識」を持たない「生命」の次元として定義する。この「生命」の次元においては、主体は自己の存在もその都度感覚のみによって確認する。それはある時間や場所に限定される小さな、断片された確信であり、こうした自己を「即自的自己」と呼ぶ。

では、自分が時間や場所を通じて同一の、つまり「自己」となるためにはどうすればいいのか。「自己」になることはとりも直さず、「この」という限定である存在から、普遍的な本質としての自己へと同一化することである。そのために必要なプロセスは「他者からの承認」であるとヘーゲルは述べる。自分の感覚だけでなく、他者の視線を介して認められる自己(「対自的自己」)を確認することで、ようやく本質としての「私」を含んだ「自己意識」が成立する。

だが、ある人間主体が対自的自己になるために他者の承認を必要とするのであれば、その他者もまた当然その人間主体による承認を求めている。とすれば、それぞれの生命は承認を互いに求め合うことになる。諸々の生命は「承認を得られる者」と「承認を得られない者」へと二分されていく。承認を得られなかった「敗者」は、感覚的確信に基づいた「自分自身に即して存在する」という即自的自己を放棄せねばならない。逆に「勝者」は「敗者」の存在の根拠となり、「敗者」を否定して(すなわち、「敗者」を「対象」へと変換することで)自らの世界の中に位置付けていくのである。この闘争が進むことで、世の中のあらゆるものだけでなく、あらゆる主体は自分自身に根拠を持つか、あるいは自分以外に根拠を持つものとなる。

(かなり余談だが、私が『輪るピングドラム』などをはじめとした幾原邦彦監督の作品を好むのは、このような生々しい闘争に独特の演出で肉迫していると思われるためである。だが虚構の作品に頼らずとも、日々労働などで上位の権力が私という主体の主人としてその存在を規定してくる例は枚挙にいとまがないだろう。)

この「主人と奴隷の弁証法」の構図を踏まえた上で、サルトルクリステヴァの比較に入っていこう。

  

サルトルにおける主体の否定性

サルトルの枠組みは、このようなヘーゲルの「承認をめぐる闘争」をそのまま受け継いでいると考えられる。サルトルにおける主体も、世界に否定を通じて無を投げ込むものとしてみなされる。だがサルトルは、他者を否定する主体としての自己ではなく、他者主体によって否定される自己こそが本源的であると主張する。人は元来、否定されるものである限りにおいて、否定されるものとしての奴隷であるという。どういうことか。

(以下の議論は、中島義道『哲学塾の風景』で展開されているテクスト解釈を参考としながら作成しました。)

まず、サルトルは意識を、判断を行うことができる「反省的」意識とそうでない「非反省的」意識に分ける。前者は何かについての意識であり、「対象」を持つことができる。ヘーゲルにおいて「主人」と称される意識は前者にあたり、サルトルにおいては「否定によって世界に無を呼び込む」存在と呼ばれる。だがサルトルヘーゲル解釈においては、この否定の矛先は、理論的には「自己」にも向かわなければならないという。すなわち無を呼び込む人間存在自身も「無」でなければならないのだという。

人間存在は、単に世界の中に否定性をあらわれさせる存在であるばかりでなく、自己に対して否定的態度をとりうる存在でもある。…(中略)…

奴隷がはじめに主人を捉える仕方も、あるいは脱走しようとしている囚人が見張りの番兵を捉える仕方も、まさに一つの「否」である。世には、自己の社会的存在がただ単に「否」の存在であるような人間(番人、見張り人、獄卒など)さえいるのであって、そういう人たちはこの地上では「否」としてしか存在することなしに、生きかつ死ぬであろう。そうでない人たちも、人間である限り、やはり不断の否定として自己を醸成し、それによって「否」を自分の主観性そのもののうちに持しているのである。

 (J.P.サルトル著・松浪信三郎訳『存在と無 I』)

サルトルによれば、「反省的」意識においては、「無」たる主体は判断によって自分以外のものを否定し、「否定によって世界に無を呼び込む」。これはまだ「主人」的な自己のあり方を保っている。

だが「非反省的」意識においては、このような「主人」的な自立した自己はかき消えてしまう。逆にそのような意識においては「他者に向かって」存在する「奴隷」的な自己のみが存在する。それは他者の眼差しによって対象化され、他者によって否定された自己である。中島はその仕組みを以下のようにまとめる。

人間存在は意識存在として否定(判断)を介して「無」を世界に呼び込む存在なのだが、それができるのは、それ自身の中に「私は私ではない」という根本的な否定構造を有しているからである。ここでサルトルが言いたいのは、こうした他者の視点を捨象した対自の構造分析は基本的だが、一つの抽象、方法的独我論であって、実は対自には初めから「私は他者に向かって私から逃れる」というあり方をしているということなのだ。

(中島義道『哲学塾の風景』、2017、講談社学術文庫)

すなわち、対象を定立する「主人」としての私は、あくまで独断的な思考回路を経由したものであって、より本来的な自己のあり方は「他者」に差し向けられた奴隷のような自己である、とサルトルは考える。こうした自己を「対他存在」とサルトルは呼ぶ。では「非反省的」意識は、そのような「対他」的自己をどのように意識するのか。それは自分が規定する世界構造の「崩壊」、それに伴う自分の「物象化」として立ち現れる。より主観的には「自分が自分から逃れ去ってしまう」というような、存在論的な不安のような形態をとる。

私は、今、公園の中にいる。ここからさして遠くないところに芝生があり、芝生にそって幾つかのベンチがある。1人の男がベンチの側を通る。…(中略)…

その対象-人間がこの関係の基本的な項である限りにおいて、またこの関係がその対象-人間の方に向かっている限りにおいて、この関係は私から逃れさり、私は私を中心に置くことができない。この最初の関係の総合的出現を通して、芝生とその男との間に繰り広げられる距離は、私が、それら二つの対象の間に - 典型的な外的否定として - 打ち立てる距離に対する、一つの否定である。かかる距離は、私の宇宙の宇宙の諸事物相互間に私が捉える諸関係の全くの崩壊として、現われる。

(『存在と無 II』P96~97)

 

突然、廊下で足音のするのが聞こえた。誰かが私に眼差しを向けている。このことは、何を意味するであろうか?それはこうである。私は、突然、私の存在において襲われる。本質的な変様が私の構造のうちに現われる。この変容を私が捉えて、概念的に定着させることができるのは、反省的なコギトにおいてである。

(『存在と無 II』P94)

これは「物」同様に自分が何の理由もなくこの世界に存在していることへの「吐き気」として、『嘔吐』のなかで触れられている感情でもある。自らが何の理由もなく存在することを私が認識するのも、まさしく自分ではなく他者の眼差しを介してであった。この感覚は反省的意識、すなわち何かについての概念的な判断(否定)をする能動的な意識に先立って存在し、受動的・非反省的な意識によって捉えられる。それは他人が私を「他人の対象としての私」、物体のようなものにいつの間にか縛りつける不自由さであり、自分の反省から逃れ続ける自分のあり方である。

さて、最初の引用にある「私は私ではない」という根本的な否定構造は、ヘーゲル以前にフィヒテの「知識学の第三根本命題」に遡ることができる。この否定性を、差し当たりサルトルにも引き継がれているものとみなしておこう。

自我は、自我において、可分割的自我に可分割的非我を反定立する。

(フィヒテ著・木村素衛訳『全知識学の基礎(上)』、1985、岩波文庫、P132)

これはどういうことか。「私」が私として存在するために私を対象化する時には、すでに対象化された私は「私ではないもの」にならざるを得ない。だがあくまで「私は私」であるということは成立しなければならない(「知識学の第一根本命題」)。故にこの矛盾を回避するには、私は全ての私を対象化するのではなく、部分的に「私ではないもの」を対象化する、ということである。

フィヒテにおいて、私という論理構造が要請する否定の力は、他ならぬ私を最初に分割するようなものなのである。その分割の権限は、フィヒテによるとあくまで「私」に属している。

だがそのような「私」の「私ではないもの」への原初の分割判断は、サルトルによれば、私が世界に投げ入れられた時点で、すでに自分に先立って存在する他者の判断によって刻印されたものである。以上がサルトルにおける「主体に内在する否定性」のあり方である。それはその根本的な存在を外部に存在する「他者」に握られているという、主体の受動的な側面なのである。

 

クリステヴァにおける主体の否定性

『恐怖の権力』において、主体に内在する、主体に対する否定性は「アブジェクト」と呼ばれる。主体はこうしたアブジェクトを「アブジェクシオン」することで、自らを守ろうとする。過去の記事よりその説明を引用させていただく。

アブジェクトとは「同一性、体系、秩序を撹乱し、境界や場所や規範を尊重しないもの、つまりどっちつかず、両義的なもの、混ぜ合わせ」、別の表現だと「自と他の自己同一性の不確定な状況」「主体と客体の不安定な状態」である。それはいまだ「対象」として認識されることのない曖昧な存在で、主観的には「おぞましいもの、嫌なもの」として体験される。しかし同時にそれは自らから切り離せず、絶えず自らがそこに戻っていってしまうようなものでもある。つまりアブジェクトは主体の成立以前の状態を喚起するようなものであり、こうした混沌・混乱としてのアブジェクトを「アブジェクシオン」=棄却することで主体は主体として成立する。個体のレベルでは、自分と不可分に繋がっており、自分の輪郭を曖昧にし破壊してしまうようなものを強制的に拒絶することである。それは母性的原理に代わって父性的原理である象徴秩序への参入を意味し、共同体のレベルでは、自然から文化への「スプリング・ボード」(枝川、1984)としてみなすことが出来る。

こうしたアブジェクトやアブジェクシオンは別の箇所でたびたび触れてきた話題のため、以下の記事を参考とされたい。

さて、クリステヴァでは、アブジェクシオンによって初めて主体が成り立つ。主体にとっての「否定的なもの」としてのアブジェクト、という言い方も度々なされる。しかしこの否定性は、サルトルにおけるような「他者にとっての対象になってしまうこと」ではなく、そもそも「主体と対象という区別が曖昧であるということ」なのだ。

アブジェクシオンは確かにアブジェクトに対する否定である。だがこのアブジェクシオンは私と対等に存在するような「他者」から直接、対象としての私に下されたり、あるいはその逆であるわけではない。クリステヴァが依拠するラカンの鏡像段階を踏まえれば、むしろ私他者に同一化しようとして、常にそれに失敗するのである。その失敗の契機、主体になりきれなさが否定性なのである。であれば、サルトルにおける「他者による自己の対象化」とはやや位相の異なるようなものであるようにも見える。

ただし、その極限における「自己のアブジェクシオン」において、自己はまさしく「自分こそがアブジェクトである」という感覚を抱く(同じく上記リンク、「自己のアブジェクシオン」の記事を参照)。そこにおいて主体は自己を二つの異なる様式で経験する。一方ではアブジェクシオンを通し、新しく固有な、安定した「新品」の自己が生み出される。しかしもう一方で、アブジェクシオンにおいて切り落とされるアブジェクトもまた自己そのものであり、それは「死体」のようなものとして経験される。この場合サルトルにおいて自己を対象化していた他者の地位に、「新品」の自己があてがわれるという違いはあるものの、「物扱いされる自分」を経験するという共通点を見出すことはできる。

 

両者における「否定」と「判断」の比較

主体に内在する否定性。それを主観が体験する現象面においては、サルトルの嘔吐感の土台は「他者によって物象化される自分の不能感」のようなものであり、対してクリステヴァは「自分が他者のように存在するために抱く、自分と区分できないものへの嫌悪感」である。ある意味ではどちらも「自己嫌悪」でありながら、そこには質的に大きな差が見られる。

この質的な違いとは何か。サルトルの自己嫌悪は、能動の極から受動の極へと一気に転落するようなものだ。その転落には、他者の能動性を認めること、主体vs対象という区別を保ち続けることが理論的には必要になる。対してクリステヴァ的な自己嫌悪は、その区別すら保てないすべての人間主体が抱く普遍的な「居心地の悪さ」である。ただしこの二つの嫌悪感は、先ほど述べたように「死体(物)に転落する自己」という共通のイメージを持ってもいる。

だがこうした現象の表面の部分ではなく、形式に目を向けてみよう。すなわちサルトルクリステヴァの「主体の否定性」は、その「対象」と結ぶ関係において異なっていると考えられるのだ。

サルトルが依拠したヘーゲル的構造において、主体は対象を認識=否定して定立するか、あるいは他者が主体を否定する。サルトルの枠組みにおいては他者を能動的に否定する主体以前に、他者によって否定された「対象としての自己自身」が先立つ。一方でクリステヴァにおいては、主体・対象という区別が成り立っている時点で、すでにその主体は一つの秩序に属するものであると捉える。そしてそこから逆算される、主体と対象の区別すらつかないようなカオスな領域こそを、「主体の否定性」の地位に据えるのだ。サルトルは能動・受動の極のどちらかに主体の自己が存在し、他者によって受動へと転落する自己を根源とみなすのに対し、クリステヴァはそれらの区別がつかない曖昧な場を根源的なものとして措定する。

 

ヘーゲル読解における共通点と相違点

これはヘーゲルの構図、すなわち主人と奴隷の弁証法をどのように受け入れるかの違いであると考えられる。クリステヴァのアブジェクシオンはラカン精神分析理論がベースになっているが、ラカンヘーゲルの構図を導入する際、ヘーゲルの以下の主張をも受け入れているという。

主人は枠組みを措定するものであり、奴隷は主人の枠組みに服する者とみなされる。しかし奴隷にとって主人は実は必要不可欠のものではない、とヘーゲルは言う。奴隷はすでに奴隷として「死」を経験している。その限りにおいて、「奴隷の意識は、畏怖を感じることにおいて内面深くに解消し、心中動揺せぬところなく、心中一切の執着を震撼させられた」。そのような「畏怖」を内面かすることにおいて、奴隷は目の前の主人がいなくとも「死」それ自体を「絶対的主人」とみなしうる、とヘーゲルは言うのである。

(荒谷大輔ラカンの哲学』、2017、講談社選書メチエ)

「主人は想像されたものである」という、この前提を人間主体のモデル内に受け入れるかどうかが、サルトルクリステヴァの決定的な違いであるように思われる。

主体の「能力」に関して言えば、サルトルの枠組みにおける「判断を下せる主体」=「主人」というものも、クリステヴァラカンにおいてはもはや実際には存在しない、想像されたものに過ぎないのである。後者において、「主人」としての主体を破壊するのは別の「主人」たる他人による判断ではなく、そもそもあらゆる人間主体が「主人」のように判断できないという事実なのでである。

これは、「否定」の権能としての「判断」と人間主体の関係を、両者(サルトルクリステヴァ)の間で真逆のものにする。サルトルにおいては判断によって人間が否定性(「AはAではない」)を行使し合う。そこにおいて判断の権限は具体的な諸個人に属する。「判断」をめぐる権限の闘争に敗れた「私」は、「他者」による「対象」の位置におさまる。しかし、クリステヴァにおいては主体の判断の範疇から常に逃れ去るものこそが否定性なのであった。クリステヴァにおける「否定性」は誰かが能動的に行使できるような能力ではなく、むしろ私たち主体に埋め込まれた、能動性を行使できない無能さそのものである。否定という判断の権限は、常に人間の手の届かぬ超自我が担っており、人間主体はそのような超自我の模倣に失敗し続けるのである。独立した項目の闘争関係への先天的敗北としてのサルトルと、模倣の不可能性としてのラカンクリステヴァ、という対比ができるだろう。

もちろん主体によってコントロールできないものを否定性とみなし、否定性を主体にとって内在的かつ根源的だとするのはサルトルも同じである。なので2人の構図・概念の分水嶺の由来は、否定性が諸々の人間主体の判断能力の源泉となるか、あるいはその判断能力の破綻こそが否定性とされるか、ということにある(これらの前提をさらに統一的な視点で揃えた上で、突き詰めて考えれば、両者は論理的には同じものなのかもしれないが、その結果を見れば両者は少なくとも異なる表象であり、区別して論じられるべきだろう)。

この違いは大局的に見れば、「観念論」的弁証法と「唯物論」的弁証法の違いにあるとも考えられる。R.カワードはヘーゲル的な観念論と、マルクス的な唯物論が展開する弁証法(別の段落でカワードはクリステヴァ弁証法唯物論的と評する)の性質の違いを以下のようにまとめる。少し長いが引用しておこう。

ヘーゲルの観念論的問題提起は、運動の必然性が初発の解決し難い身振り、すなわち《イデー》から生み出されたと提唱した。すると、過程とは単純な発展および論理的信仰のしれになる。…(中略)…

弁証法は一定の局面、すなわち《絶対知》のそれに集中しており、主体は、それ自体の自己同一性がすでに完成されている実在物である。この過程の結末をすでに知っている完結した完全な主体はヘーゲル弁証法の基本的仮説である。それはこの過程の土台とさえ名付けられ、「自己意識」と呼ばれている。

(R.カワード著・磯谷孝訳『記号論と主体の思想』、1983、誠信書房、P131)

ヘーゲルの観念論とは対照的に、マルクス主義弁証法は単に観念論的諸概念ではなく、実践的活動、生産物、対象物を取り扱う。人間たちの実践活動は、イデーの展開に逆らって彼らの精神的諸関係を支配するのである。…(中略)…

観念論的哲学とは一線を画したマルクス主義を特徴付けたのは、過程と実践の両方の強調である。そしてこれらは両方とも、弁証法の「核」すなわち自己同一性に対する矛盾の優越において見出されるはずであり、それは、闘争、運動、あるものの別のものへの変化と言ったものが他に還元し得ないということの強調を伴うのである。

(『記号論と主体の思想』、P133)

すなわち、観念論においては自己同一的な主体は自己充足した存在であり、別の自己充足した存在を否定し自らをその根拠として滑り込ませることで、観念的な絶対性へと近づく。一方で、唯物論において絶対的に存在するのは「矛盾」である。「矛盾」は観念としてのみならず、存在論的に存在する。逆に自己同一性はあくまで真理への過程の一つの契機に過ぎない。

もし観念論のように主体が「自分の自己同一性を保ち、他人の自己同一性を崩そうとするもの」であるなら、それは「主体vs対象」という対立構造を堅持することで、サルトル的な「自己同一的な主体同士の否定合戦」を呼び起こす。逆に、もし主体が「自己同一的になろうとしてもなれないもの」という微妙さに苛まれ、自己同一性の矛盾こそが優先されるならば、それはクリステヴァ的な「同一性そのものへの否定」を呼び起こすと考えられる。

サルトルクリステヴァの「否定性」は、共に、人間の奴隷性を表現するものである。人間は奴隷である。その主人は言語であり、超自我であり、父であり、まなざしであり、そして他人である。奴隷は主人を真似て、意味という供物を主人に捧げつつ、主人の否定(叱り)を受けて、あらかじめ否定されたものとしての身体を嫌悪し、吐き出す。

だがクリステヴァサルトルでは、支配する側となる「主人」と我々人間との距離が違う。クリステヴァにおいて誰も近づくことのできない「主人」の「否定」の権能を、サルトルにおいてはあくまで具体的な「他者」が握っていることになるし、後に「自分」がそれを担うチャンスも残されている。これはとりも直さず、自己同一的な存在として自分を保つことができるという人間主体の能力、可能性を想定するか否か、という違いでもある。もちろんこの「具体的な他者」があくまで「想像されたもの」に過ぎないと宣言してしまうならば、両者の構造は一致するのだが…。

こうした違いは、サルトルクリステヴァにおける「奴隷戦争」の顛末をも異なったものにする。サルトルの奴隷戦争は「自己同一性」という賭け金を巡って「勝つか、負けるか」という、主権国家同士の近代戦争の形を取り、勝った場合は元々の自己同一性を保持し、負けた場合は勝者にとっての「対象」としての別の自己同一性(奴隷のアイデンティティ)に依拠することになる。一方でクリステヴァは自己同一性という大義自体が絶えず脅かされ、明確な勝ち負けがない、ベトナム戦争のようなゲリラ的な泥沼の様相を呈する。

とはいえ、この違いを云々する以前に両者とも、結局は「物」と同レベルの存在になってしまうような自分、自分の物質性を果てしなく倦む自己嫌悪の営みであることには変わらない(それはおそらく古代ギリシアから続いている)。弁証法に巻き込まれた「奴隷」(=物扱いされた人)としての我々の、死ぬまで続く自分との戦争の苦痛を、別々の仕方で、彼らは余すところなく現象的に記述しているのだ。

 

課題(というより反省)

今回は残課題というより、記事の書き方やテーマ選びにやや問題を感じたので、強い反省のみによって締め括りたい。

理論的な面で言えば、「否定」と「否定性」の定義的な区別を最後まで明確にすることができなかった。あくまで前者を「AをAとして認めないこと」、後者が「AがAでないこと」という区別であり、私は前者を能動的な主体の側に、後者を受動的な対象の側に属するものとして定義した。であればこの二つは、「同一律の破綻」という同じ意味のベースを持つ。

もしヘーゲル弁証法においてこれらの語彙がもっと根本的に違うものであるならば、上記のような結論には至らないはずである。そうなると、サルトルクリステヴァが異なるように見えるのは、単に「否定」と「否定性」を本質的に同一のものとして私が扱ってしまったからである、という「勘違い」の話になってしまう。この「大恥」を晒しているかどうかを私が判断するには、やはり地道な勉強を続けるしかない。

しかしそれ以前に、文章全体の企画性として、「それを言ったところでどうなるのか」という点が弱すぎるのではないか。この側面で私は、この記事に限らず、最近ある種の「スランプ」を感じている。結局何が言いたいかいまいちわからない記事になってしまいがちというのが、最大の問題である。この記事の結論は結局、「サルトルクリステヴァは違うとも言えるし、同じとも言える」という至極当たり前のものに過ぎない。本記事の「仮説」を立てた段階で、まずはその「面白さ」の程度を評価してから作業を進めるべきだろう。

つまりこの記事全体が、あまり弁証法になっていないのである。確かに「否定性」の弁証法における位置付けを整理して、いろんな角度でその理由を考えるという論説の「真似事」をしている。だがその真似事の精度を高めるのは、「真似事をして結局何がもたらされるか」という結果への欲望の解像度であるはずだ。

「精読」でもない限り、何かをただ比較するだけのまとめサイト的な記事は卒業し、それがどんなに破壊的で卑屈なものであっても、有用性や新規性をもたらすものを目指さなければならない(仮説思考)。その意味では、先行研究への疑問に基づき新規性を提供しようとする既存の「精読記事」の方がまだ弁証法的であったと思われる。

 とは言え、「どうしてもサルトルクリステヴァを比較したい」という衝動的欲求があったのも事実である。そのため次にまず取り組むべきなのはサルトルのテクストの精読と、その理論的バックグラウンドの整理であろう。どうも、そのような地道な作業を飛ばしてダイナミックな比較をしようとするのは、素人には「火傷」の原因になるように思われる。もっともそのスリルこそ、私が「今すぐ」、「どうしても」味わいたかった感覚なのであるが…。