レヴィナス『逃走論』精読 (2)

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今回の対象箇所

エニュマエル・レヴィナス 著「逃走論」合田正人 編/訳『レヴィナス・コレクション』、ちくま学芸文庫、2013、P143~178

  • 今回はP147~148をターゲットとします

 

いざ精読

第6段落

しかしながら、近代の感性は、このような超越への配慮の放棄がおそらくは初めて告知しているであろう数々の問題と取り組むこととなった。いってみれば、近代の感性は、制限という観念は存在はするものの実在・実存(existence)に適用されうるものではなく、単にその本性(nature)にのみ適用されるということを確信し、存在のうちに、この種の制限以上に深刻な欠陥を看取したのである。現代文学は、逃走という奇妙な不安をあらわにして見せたが、この逃走は、われらが世代による存在の哲学に対する最も根底的な糾弾のごときものであろう。

ここは私にとって非常に難易度の高い文章であった。「現代文学」という項が突然挿入され、それまで批判されてきた「存在の哲学」と対比される。この部分だけでは、「現代文学」と「近代の感性」が具体的に何を指示しているか全くわからない。そのため、ある種のリサーチが必要である。残念ながら、インターネットや『レヴィナス入門』を参照しても、このテクストが「現代文学」の例として具体的に何を指定しているかを確定することはできなかった。

そこで『レヴィナス・コレクション』に収録されている別の論考「ある(イリヤ)」における文学者への言及に目を向け、ある種の仮説を立ててみよう。

ユイスマンやゾラのいくつかの文章、モーパッサンのある短編の微笑を堪えた静謐な恐怖は、しばしばそう考えられているのとは違って、現実の「忠実な」、もしくは過度に忠実な描写を提供するだけではない。これらの文章は、光があらわにする形態を貫いて、その背後の「質料性」にまで突き進むのだが、ここにいう「質料性」は、自然主義作家たちの唯物論哲学に対応しているどころか、実存の暗い基底なのだ。彼らの文章は夜を通してわれわれに諸事物を現出せしめる。然るに、こうして現出する事物は、不眠の中でわれわれを窒息させる単調な現存の如きものなのである。

(『レヴィナス・コレクション』P219)

また直後には、

芸術作品の中に、哲学的なある概念の厳密な等価物やこの概念の内的諸連関全ての詳細な解釈を探し求めるには及ばない。そうせずとも、われわれは、われわれがあると呼ぶものに対する鋭敏な感情を、死に関するエドガー・ポーの文章にうちに見出す。

(『レヴィナス・コレクション』P219)

これらの引用から、「現代文学」で指示されているのはゾラやモーパッサン、そしてポーといった文学者による作品であると想定される。どれも概ね1890~1920年ごろのレンジに収まり、「逃走論」公表の1935年より少し前、という点で妥当なものであろう。そして「逃走論」における「近代的感性」の本質は、「われわれがあると呼ぶものに対する鋭敏な感情」を指示していると考えられ、それは「哲学的なある概念の厳密な等価物やこの概念の内的諸連関全ての詳細な解釈」との対比関係にもある。「逃走論」の内容とも整合的である。

さて、これを踏まえつつ最初の引用文の精読に入る。「存在の哲学」においては、存在がある種の「制限」として扱われてきたのは、前回の精読で見た通りである。だが「現代文学」は、「存在の哲学」においてこれまで使われてきた「制限」という概念が実は存在には当てはめられるようなものではなかったということを暴露する。ポーの著作『息の喪失』に見られるような近代的感性は、そのことが隠蔽していた存在それ自身の欠陥のようなものを看取するという。それは無限に合一しようとする「超越」、すなわち「存在の哲学」が陥っているある種の癖を「放棄」することで初めてわかることである。この癖の根本は前回の諸段落から明らかなように、「存在の安逸」という癖であり、自分自身を安定したものとして非我(それもただの「性質」面における制限としての)と対比し続ける癖である。存在の哲学は、非我との葛藤を乗り越えた末の完全な存在との合一を目指すものである。翻って、先に述べたような文学は哲学の癖を破って、存在それ自体の欠陥を見破り、そこから逃走しようとしたとしてレヴィナスは評価する。

存在は「性質」とは独立して十全たるものとして存在することである。さしあたり「実在・実存」という言葉で存在のその側面を表していると文脈で判断して良いだろう(実存という言葉はもちろんハイデガーサルトルの文脈を背負っているが、本段落ではこれを扱わない)。そして「制限」という考え方がそれ自体、その逆、つまり「性質」的な思考であると考えられる。それは「完全」・「不完全」という対比軸の中で個別存在を評価するものだからだ。前回の記事のヘーゲルの枠組みを思い出しつつこの問題を考えてみよう。人間主体はある存在に出会い、それを否定することで本質を引き出し、普遍的な知識を得ていく。ところで否定に基づいたこの弁証法的運動には極限が想定されており、それが「絶対知」という場所である。すなわちレヴィナス流に言えば「無限との合一」である。だがこの絶対性は、あくまで本質看取における絶対的な極という意味合いである。レヴィナスが指摘するように、人間主体の存在の観念も諸事物と同じようなものが想定されており、「諸事物の本性やその数々の特性は不完全なものかもしれないが、存在するという事実そのものは、完全-不完全の別を超えている」のである。

そのような意味で、「無限への合一」への「制限」という考え方が、すでに「存在」の概念から横に逸れて、人が諸事物のなかに見出す性質に当てはめられるようなものなのである。そういう意味では、「存在」の「制限」性という発想自体がそもそも論理的に成り立っていないとすら思われる。

 

第7段落(前半)

逃走という措辞を、我々は現代の文芸批評から借用したのだが、それは単なる流行語ではない。それは世紀の病なのだ。この病が姿を表すような近代の生活の全ての目録を作るのは容易ではない。こうした状況は、生活の余白が誰にも残されず、誰も自分自身との距離をとる力を持たないような時代に作り出される。万物の秩序の不可解な歯車装置に挟まれているのは、自分のことを考える暇をまだ持たない個人ではなく、自立した人格そのものであって、この人格は、自分が獲得した堅固な地盤に立脚しながらも、あらゆる意味で動員可能(mobilisable)な者と自分を感じている。この堅固な地盤が問いただされる時、自立した人格は初めて、自分は究極の現実を犠牲にするよう強いられていたのだということを悲痛にも自覚するようになる。はかない実存が、絶対的なものという名状し難い味わいを得る。存在がある - それ自身で価値と重みを有した存在がある - という基礎的な心理が、その露骨さと重大さに見合った深淵さを伴ってあらわにされる。

近代の生活風景に現われる一般的な特徴として「自分自身との距離をとる力」を持たないような組織性があるとレヴィナスは指摘する。私は私であり、あなたはあなたである。私やあなたは一意に定められた生活を営む。私とあなたを包摂するコミュニティがあり、その上位に別のメタ・コミュニティがある。近代国家の階層的な権力構造の末端に、理知的で「自立」的に動く責任主体が位置付けられる。

こうした整然たる構造の中に、ナチズムが影を落とす。『レヴィナス入門』によるとこの論文はファシズム批判の文脈の中で「エスプリ」誌に収録されたという。レヴィナスがここで暴露する「世紀の病」を、ナチズムや、それを包摂する全体的な時代の雰囲気の話に還元してもいいのだろうか?情報量が不足している現時点では、差し当たりそう仮定することもできるだろう。だが少なくともレヴィナスは、ナチズムという特定のイデオロギー語を超えるような、同時代的な普遍現象としてこの雰囲気を捉えているように思われる。こうした雰囲気の中での近代社会の「万物の秩序の不可解な歯車」としての近代個人像に見事に一致している。ちょうど「逃走論」の1年後に発表された映画『モダン・タイムス』におけるチャップリンの歯車のように(ちなみに、「逃走論」の後半部でもレヴィナスは偶然にも、同じくチャップリンが登場する『街の灯』に言及している)。

充足した存在を持っているにもかかわらず、いや持っているが故に、存在は「動員」される。何に動員されるのか。おそらくは、具体的にはファシズムに。だが何によってであれ、存在するとは「動員」されるリスクを孕むことであろう。そしてそれは、他ならぬ「私が私である」という同一性によって可能となる動員なのだ。近代とはそのような時代なのである。

「存在の哲学」によって「堅固な地盤」を獲得した近代的人間は、理性によってこの地盤を問いたださないことによって「無限への合一」という目的に邁進してきた。だが前段落で言及されたような文学の近代的感性がその地盤を問いに付す。これまでの段落と整合的に読むのであれば、この段落の後半部では以下のことが述べられていると考えられる。すなわち、地盤を問いただされた我々がようやく、存在がただそれだけで「深淵さ」を持つことに気づき、同時に、「究極な現実」たる存在を動員されるという「犠牲」を強いられてきたことに気づく、という筋書きであろう。

ただし、ここまででは「動員」と「自己同一性」の関係が不明瞭である。「動員」を、「自分自身と距離が取れないこと」がなぜ可能にするのか。

そのため「動員される自分自身の存在から逃れられない近代の我々が、存在自体の持つ重み・深淵さにようやく気づく」というはっきりした論旨に比して「なぜそう言えるのか」が分かりづらい。ナチズムという時代背景を踏まえればこの段落の主張のイメージは容易に掴めるが、正直なところ、この段階においてまだ私はそのロジックを掴めていない。この点は後半部で明らかになるだろうか?

 

第7段落(後半)

生活における快適な遊びは、遊びとしての性格を失ってしまう。遊びを脅かしている様々な苦しみが、遊びを不快なものにしているからではない。そうではなく、苦痛の根底にあるものが、遊びを断つことが不可能であるという事実であり、また、「釘付けにされている」という痛切な感情であるがゆえにそうなのだ。遊びから脱出して、事物に道具としての無用性を返してやることの不可能性は、幼少期が終わるまさにその瞬間を告知するもので、それは真面目さという概念そのものを定義している。だから、現実についてのこの経験全体の中で重要なのは、我々の実存のある新たな性格の発見ではなくて、我々が実存するという事実そのものであり、我々の現存の終身性そのものなのである。

ここで鍵を握るのが「遊び」の概念であるが、「遊び」という突然出てきた訳語では何のことを指しているのかさっぱりわからない。英語版では"game"という訳語が当てられているので、差し当たり「ゲーム」という意味合いで介しておこう。だがこの「ゲーム」とはどのようなゲームか。おそらくそれは精読第一回で扱ったロマン主義ブルジョワの生活にも関係しているが、そういった限定的なカテゴリを超えた、ある種茫漠としたものだろう。「ゲーム」の意味はいったん宙吊りにして、語句の関係を軸に文章を読んでいこう。

まず第1文を読み進めてみると、近代の感性によって存在の重みに気付いた我々は、もはや本質的に「快適」("pleasant")なはずの生活内のゲームを「不快」に感じてしまう。その理由は第2文にあるように、存在に「釘付けにされて」おり、「遊びを断つ」ことの不可能性を事実として自覚してしまうことにある。第3文にあるように、我々は存在に縛り付けられる以上、こうした遊びをやめられない。それは近代社会において、何者かによって動員する・される関係に巻き込まれることに他ならない。

後半部分でゲームから脱出できなくなることを、「幼児期」が終わることになぞらえているが、これも前セクションで述べられた「自分のことを考える暇をまだ持たない個人」(英語版では"the person who does not yet belong to himself")という語句に対応していると考えると整理しやすい。近代社会の成長モデルにおいて存在論的に自己同一性を獲得した個人は、カテゴリカルに曖昧な自己を持つ幼児期を脱出し、自立した主体として「真面目」("serious")に単一の現実に向き合うことを強いられる(私であれば、おそらく「くそ真面目」という訳語をあてがっただろう)。ここでも「遊び」が言及されており、それは事物に「道具としての無用性」を決して返還できないような、つまりあらゆる事物を秩序の中で道具として「有」用化するような遊びである。

ここまで読んだ上で、精読第一回で扱ったヘーゲルの「主体」のモデルが思い出される。「主体」は諸事物の存在を「否定」し、その本質を看取して「絶対知」に向かう。それは諸存在を「制約」として捉え、それらを乗り越えた先にある「人間的自由」に向かう主体であった(その意味で「喜ばしい」("pleasant")ものである)。そして諸事物はそのように、人間存在の完全性の道具、有用性へと変換される。ヘーゲルにおいて人間は諸事物と、場合によっては人間同士で闘争することで無限との合一を目指すが、レヴィナスはその人間自身の存在が、諸事物の「十全な」存在形態を参考にして作られた観念であることを指摘した。

さて、ここで「遊び」(game)という言葉を戦争やファシズムブルジョワロマン主義と直接的に結びつけることなく、広く「闘争的な構図」を意味するものとして読むことが可能なのではないか。ヘーゲルのような西洋哲学にせよブルジョワにせよロマン主義にせよ、自己の「存在への安逸」を前提としながら、その制限となる諸事物(ブルジョワの場合は「未来」など)と闘争し、自由を勝ち取っていく。近代の生活においてこのヘーゲル的構図はもはや逃れがたいものであり、その基盤となるのは「存在への安逸」すなわち自同性である。とすれば、先ほどの疑問点=「動員」と「自己同一性」の関係もある程度説明がついたことになるだろう。「動員」とは、自己同一的性がもたらすゲームへの動員であると考えられる。

このように「遊び」を定義すると、次の文もすんなりと筋が通るであろう。すなわち「近代的感性」によって存在そのものが問題になるのであれば、「実存のある新たな性格」という性質的な面ではなく(その性質について云々する時点ですでにゲームに参加してしまっているのだ)、徹頭徹尾、存在をそのまま存在として捉えて考えることが必要だというものである。これは第6段落に見られる「存在の哲学に対する最も根底的な糾弾」と同じ方向性のレヴィナスによる指摘だろう。

 

第8段落

存在ならびに、存在が有する深刻でかつ、言うなれば決定的なものすべてのこのような啓示は、同時にある反抗の経験である。ここにいう反抗は、自我を非-自我に対立させていた反抗とはなんの関係もない。非-自我の存在はわれわれの自由と衝突しはするが、まさにそれによって、自由の行使を強調するものであった。戦争と戦後がわれわれに知らしめた自我の存在は、もはやいかなる遊びの余地も残しはしない。それを克服しようとする欲求は、逃走の欲求以外のものではあり得ない。

ここの対比関係も非常に明瞭である。すなわちレヴィナスは、自我と非自我の対立ではなく、いよいよ自我に対する対立を考えることが問題になったと主張する。

前者も後者も「反抗」であるが、その意味合いが全く違う。前者は「自我」と「非-自我」の対立というあのヘーゲル的構図における自由への闘争である。反抗の対象は、絶対知という目的地を阻む制限としての非-自我、諸存在に過ぎない。そこには「存在への安逸」があり、自我それ自体への反抗の契機が存在しない。

そして「戦争と戦後」の暴力的な世の中の流れが、その自我のあり方を確定させ、その自我のモデルに基づいた巨大な秩序を形成した。それが「遊び」を否定したとレヴィナスは言う。ここでいう「遊び」は前段落の「闘争的なもの」というニュアンスとは異なるものであると考えられる。すなわち余地のある遊びであり、余白としての遊びである。意味づけられた、動員される諸存在は、諸事物を否定して特性を看取し自由を勝ち取る無限の遊びに巻き込まれ、無意識や無意味であることが許されなくなった。

これに対して、後者の対立は「それを克服しようとする」欲求であり、つまり自己同一性、存在への安逸に基づいた無限のゲームから「逃走」することである。後の段落で言及されるように、それは「自分自身が自分自身であることからの逃走」に他ならないのである。

 

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今回はここまでです。第3回に続く(かもしれない)。

おそらく第3回で区切りをつけて、最終回とするかと思います。