「喪失」だけが私である 〜クリステヴァ「自己のアブジェクシオン」を読解する (1) 〜

※ この記事にはある重大な問題点があります。その点をまとめた記事を2020年11月に発行したので、よろしければこちらもご参照ください。

pyonta-hyonta.hatenablog.com

 

 

動機

本記事では、以前の記事(レヴィナス『逃走論』精読 (1) - pyonta-hyontaの主体論)で使った精読のスタイルを使いつつ、より自分の関心の「核心」に迫るテクストにチャレンジしてみる。「核心」に迫るものである以上、私にとっての難易度は極めて高いことが予想されるため、今後何度もチャレンジするかもしれない。

以前も申し上げたが、私の関心は「主体の中途半端な自己否定」にある。だが中途半端さを理解するためには、まずは極端な場合を理解しなければならない。もっと言えば、主体の行為が中途半端にならざるを得ないということは、その主体はあくまで極端さを目指しているということを示すのである。極端な否定性を読み解くのに最適な題材は、やはりジュリア・クリステヴァのテクストだろう。

どうして極端な自己否定性に執着し続けるかという個人的な話は、「自分が他人から好かれないのは、自分に能力がないからだ」 - pyonta-hyontaの主体論に詳しく書いたので、そちらを参考にされたい。

 

「不可解」なセクション

クリステヴァの文章は端的に言って、非常に読みにくい。以前の記事(「乾いた笑い」の黙示録 〜ジュリア・クリステヴァにおける主体への祝福の拒否〜 - pyonta-hyontaの主体論)において言及した、ロランバルトによるクリステヴァ評価に見られるように、クリステヴァの文章は一般的な論文の作法に則っているわけでない。その形式も内容も、言語的な作用も、彼女の理論と連動するようなエクリチュールとして捉えられるべきなのだ。『恐怖の権力』は1980年に出版されており、彼女の理論の変遷においてはやや後期の著作として位置付けられることが多い。文章全体を通して「アブジェクシオン」という概念にまつわるまとまりや流れはあるが、その言語表現の複雑さは指折りである。

アブジェクトないしアブジェクシオンの概念は何度か説明したことがあるため、以下のどちらかの記事を参考にしていただきたい。

さて、『恐怖の権力』のテクスト序盤において、一見「よくわからない」という印象を誘うような謎めいた段落がある。それは「自己のアブジェクシオン」という名の段落である。直前までのアブジェクシオンの現象的解説、および主体との関係の詳細な記述から打って変わって、そうした様々なアブジェクシオンが「最高度に経験される」場合についてクリステヴァは思考を進める。それまでの段落では、主体と切り離せないものの主体とはあくまで対立関係にあるものとしてアブジェクトが語られてきたが、うって変わってこの段落で彼女は、「自己(主体)がアブジェクトである」ということがあり得ることを明確に宣言している。

しかしその後は何事もなかったようにアブジェクトと宗教論、精神分析的位置づけ、セリーヌ論に至る。その用法は、後述するような、ほぼ一般的に使われている先行研究におけるアブジェクト理解とおなじものである。一体、「主体自身がアブジェクトである」というこの極端な掌返しは、どういうことなのだろうか。

 

先行研究と概念の応用への不満

クリステヴァに対する研究は、そもそもあまり充実していない。一つには彼女自身がまだ存命であることがその理由として挙げられよう。しかしクリステヴァのみを対象とする研究の範疇を大きく超えて、アブジェクシオンという概念は現代のテクスト論・哲学・臨床などの場で盛んに使われている。

アブジェクトに対するアブジェクシオンはなんと言っても言語のカオス、カオスとしての言語、破壊性そのものであり、象徴秩序を撹乱する可能性に開かれてる。よって文化理論における汎用性が極めて高い。

もちろん網羅したわけではないが、アブジェクシオンへの先行研究・活用事例を以下に挙げる。これらをチェックする限り、「アブジェクシオン」の定義が揺らぐことはあまりないように見受けられる。

先行研究例:

アブジェクシオン概念の文化分析への応用例:

例えば、最後の論文でのアブジェクトの解説は以下のようなものである。

「アブジェクト」とは、主体が主体であるために切り捨てなければならないものを表している。例えば、私の場合、学校社会に進むよう成長する際に、「障害」の曖昧性の要素は切り捨てなければならなかった。しかし、実際には、そうして切り捨てられた「私の曖昧性(不気味さ)」は、社会の正常性や規律(他者を構造化された世界)を脅かす潜在的な力を持っているがゆえに、おぞましいが同時に魅力的であるという両義性を有している。だから、視線が向けられるのである。単なる「客体」であるなら、あのような強い視線を感じることはない。主体と客体の間で、「対象」になりそうだけれどもなっていないところに存在する私の障害は「アブジェクト」なのである。

これは全セクションで紹介した過去記事における私のアブジェクト・アブジェクシオンの概念紹介と概ね一致する。だが、「客体」にならず主体にとって自己と不可分な両義性としての存在がアブジェクトであるという定式から、「主体=自己こそがアブジェクトである(ことがある)」という謎めいた宣言に至るまでの飛躍を、この定義はいまだ説明することができない。そしてこの宣言こそ、私を魅了してやまないあの極端さなのである。

この飛躍の理解に少しでも近づくため、テクスト(邦訳+英訳)の詳細な読解をまずはしてみようと考えるのである。

 

対象箇所

 

いざ精読

最初の二段落はそのまま全文掲載し、詳細に読解する。その後の段落は長いので全文の引用は避け、適宜一部を引用しながら解説を加える。

今回の記事では第一段落の第2文までを対象とする。

第1段落

- 第1文

アブジェクト[棄却すべき、おぞましきもの]が主体を要請すると同時に粉砕もするのが事実なら、主体が自己の外に自分を認知しようとする空しい試みに疲れ果て、自分自身のうちに不可能性を発見する場合に、言い換えれば、主体が自分自身アブジェクト以外ではあり得ぬのを発見して、アブジェクトは最高度に経験されることが分かる

まず「主体を要請すると同時に粉砕もする」というのはどういうことだろうか。こればかりは、この段落以前の段落を参照するしかない。まずはっきり書かれているのは、アブジェクトとは「主体でも対象でもなく」、ということである(P3)。この段階ではまだ、アブジェクトは論理的に主体ではないことが明確に宣言されている。だがアブジェクトは、主体や対象と全く無関係なわけでもなく、むしろその母体となる。なぜならすでに述べたように、アブジェクシオンは主体と客体を分離する際に投げ捨てられるもの、いわば「生きるために絶えず私が身をもぎ放す事物」(P6)なのだから。

「自己のアブジェクシオン」以前の諸段落では、「父」「超自我」「対象a」と言った様々な(ラカン)精神分析的モチーフがテクスト内に散りばめられている。「要請」と「粉砕」の意味を突き止めるためは、ここではジャック・ラカン精神分析理論における鏡像段階のプロセスに照らして理解するのが妥当であると考えられる。

(以下の議論は荒谷大輔ラカンの哲学』2017、講談社選書メチエ を参考にしました)

鏡像段階に至る前の乳児は、自分を統一的な主体として認識しておらず、母親と不可分な存在である。この乳児は統一性を欠いているため「寸断された身体」と呼ばれるが、乳児は鏡像に写った自分のイメージを見ることで、そうした「寸断された身体」を統合できるとラカンは主張する。乳児は「寸断された身体」を統合するとともに、その統合的イメージに囚われる。単なる鏡像であると理解しながらも、それを自分だとみなし続けようとする。

ではなぜその自己同一化への強い欲求が生まれるのか。それは鏡像が「自分から見える自分の像」であるとともに「他者から見える自分の像」でもあるからである。荒谷は鏡像と他者の関係を以下のようにまとめる。

乳児があえて自己を対象へと切り詰めるのは、その自己が他者の視線においてそう見えるものなのだからである。「寸断された身体」として、その都度感覚に則して自己を見出す乳児は、「他者からの承認」を求めるからこそ、鏡像という一つの対象の中に、あえて自己を切り詰めるのである

(P51)

他者の視線の中の自分を対象化することは「疎外」と呼ばれる。乳児は「自分自身に則して存在する」ことをやめ、他者との関係の中で、他者と並列されるような、そして即自存在とは異なる対象に自分を同一化させようとする。その意味で鏡像段階は他なるものへの同一化のプロセスなのである。

アブジェクシオンに戻ろう。アブジェクトは、アブジェクシオンという反応の結果だけ見れば、「同一化を目指されるところの鏡像」としての主体を新たに「要請」する。しかし主客未分化のアブジェクトが存在する限り、またそれに出会ってしまうや否や、アブジェクトは鏡像としての主体を「粉砕」することで、それが成立する前の「寸断された身体」というカオスに自己を引き戻してしまうのである。

ここまでくると、次の「主体が自己の外に自分を認知しようとする空しい試み」の意味も容易に推測できる。これはまさに鏡像を通して自己を他者たる統合された身体に同一化させようとする試みである。

ではなぜそれが「空しい」試みなのか。あるいは自分のうちに現われる「不可能性」とは何か。ここでは以前の段落の「不可能な同一性」というモチーフを辿る必要がある。アブジェクシオンを通して人は、「私が自己自身の死を代償として他者になりつつあるのを感じる」。この「つつある」というニュアンスは、P16に見られる「私と誰か他の人に差があるわけではない。自我、対象、記号が現出するのは模倣の論理による」という鏡像段階的同一化の作用の限界を示している。その直後に述べられているように、「私が自分を探し求めたり、自分を見失ったり、快楽を覚える」とき、アブジェクシオンする時に限り、「私は他の者と異質である」という。

鏡像段階においては、自己は厳密には自己ではなく、むしろ他者になろうとするのであった。であれば、本来「(自分自身に即してある)自分が(鏡像としての)自分と同一である」ことはどうしたって不可能なものでしかあり得ないということだ。アブジェクシオンはまさに、この不可能性につけ込むのである。

鏡像段階は一般的に、幼児期の主体形成のプロセスとされる。特に精神分析の文脈から離れて利用される時にはその傾向が顕著であろう。しかしクリステヴァによると、主体は常に安定して存在するわけではない。それは絶えず自分と不可分なアブジェクトとの出会い(あるいは自分の中のアブジェクトの発見)によって回帰されるところの出来事なのである。つまり主体(主観)と対象(客体)以外のものは絶えず存在して、いつでもそれらが未分化の時点=カオス=「寸断された身体」に引き戻してしまうのである。「自分は他者を模倣している」のであれば、自分の真の固有性(他人を模倣していないこと)はアブジェクシオンの反応にみ宿る、そうクリステヴァは主張する。当然、それら=アブジェクトは対象ではないのだから意味づけられることはない。クリステヴァは別の箇所でそれを「無意味の重み」と名付ける。

アブジェクシオンを鏡像段階として理解すると、ここには主体の二種類の主体が関わっていることがわかる。それらはそれぞれ「新品」と「死体」と呼べるようなものである。結果だけ見れば、アブジェクシオンは新しく主体を確立させる。しかしその過程で主体は「寸断された身体」に引き戻される。超自我としての「私」は当然他者と同一化しようとしているのであるから、前者を好み、後者を評価する。

クリステヴァは以下のようにアブジェクトへの反応を描写する。「それは、暗い、忘却の縁に沈んだ生活の中で私にとって身近なものであったかもしれないが、完全に私から切り離され、忌まわしいものとなった今は、私を責め苛む」(P4)。だが切り離されたアブジェクトはあくまで自分だったものなので、その意味では「もはや私が追放する主体ではなくて、私が追放されるのだ」(P6)。この二つの引用文の関係は、紛れもなく「新品」と「死体」という主体の二つの側面を示している。このある種の犠牲とも呼べるものが、主体をより《超自我》すなわち他者へと近づけ(しかし絶対に一致することはない)、集団的には「自然から文化へのジャンプ」を可能にするのである(P4)。アブジェクトを切り離して象徴の世界に参入することを繰り返すことで、全ての文明は形成されるのだ。

不可能性」と鏡像段階の自己ー他者の枠組みに戻ろう。自己は鏡像を見て他者になろうとする。そして自分自身を他者であろうと思い込もうとする。しかし自己=他者という等式は常に「他者になった自己」でも「他者になった自己にとっての客体」でもないものによって脅かされる。厳密に考えると、この等式は絶対的に成り立つことがない。むしろ絶対的に成り立つのは「不等式」であるはずである。

主体が自己を自己として認識する同一性は、つまり鏡像段階とは、こうした他者への不可能な同一化である。それは不可能であることがわかってしまうと、「空しい」ものである。であれば、永遠に他者としての主体になることができないことを、アブジェクトによる動揺を通して悟った「私」は、どのように改めて自己を位置付けるか?

もはや他者、すなわち「自己の外」に自分自身を認知するという逃げ道が閉ざされている以上、しかしそれ以外の道が主体の存在論に残されていない以上、「本当の私」は「他者として主体になることができない」という事実に他ならないという論理的な結論に行き着くのは当然のことである。この一文を正確に読むには、「主体とは全面的に他者の仮想的な模倣物以外の何者でもない」というラカン精神分析論の前提に絶対的な信頼を置かねばならないのだ。

そして自己=不可能性すなわち自己≠他者という式を明確に自覚した時、「アブジェクトは最高度に経験される」ことが「分かる」。これはなぜか。アブジェクトの定義に戻ると、アブジェクトは主客未分化の「無意味な重み」、おぞましいものであった。つまり「定義づけられない」というアブジェクトの定義自体が全経験を支配し、全ての意味が「無意味の重み」によって塗り替えられる条件は、自己意識の「反転」であると考えられる。すなわち不可能性との自己同一性、自己同一性の不可能性の認識である。簡単に言えば、他者になりたい自分の他者になれなさを自覚することである

逆に言えば、自分のことをまだ客体と分離された安定的存在として認識できるときは、鏡像に写った他者の幻覚にうまく騙されている状態であり、そういう自己認識が保たれている間は、自分自身が脅かされるようなアブジェクトの経験としては「二流」のものしか主体は経験できないのである。

 

- 第2文

自己のアブジェクシオン[棄却行為、おぞましさ]とは、主体のある経験、つまり彼の対象がことごとく、彼の固有な存在の基礎となっている発端の喪失にしか根拠を置いていないことが主体に暴露されるような、そういった経験の最高の形態なのだろう。

彼の固有な存在の基礎となっている発端の喪失」を文法的に理解するには英語版を参照する必要がある。上記の日本語訳は、どうもその修飾関係や節のつなぎ方が不明瞭に思われる。

The abjection of self would be the culminating form of that experience of the subject to which it is revealed that all its objects are based merely on the inaugural loss that laid the foundations of its own being.

この文の構文を見てみよう。全体としては典型的なSVC構文である。主部は"The abjection of self"で、述部(V+C)は"woud be ~ the subject"までの部分である。ここまでを訳すと「自己のアブジェクシオンは、主体(主観)の経験の最高度の形態になるだろう」となる。そしてto whichの先行詞がsubjectであるとして、「自己のアブジェクシオンこそ主体に●●を暴露するような(主体にとっての)経験の、最高度の形態である」という文意が明らかになる。ここまでは上記の日本語訳とほぼ同じである。

次に「●●」の部分を見てみよう。該当部分の英語はthat以下、つまり"all its objects are based marly on the inaugual loss"の部分である。その"loss"はどのようなlossかというと、"that laid the foundations of its own being"である。最後の関係代名詞thatの先行詞になっているのは"loss"である。つまり「固有の存在の基礎」の「発端」を「喪失」するのではない。むしろ「固有な存在の基礎」をなすものが、「発端」に位置する「喪失」であるという主張として理解すべきだろう。

また枝川の日本語訳には、英語版の"objects"の訳出が抜け落ちている。つまり「暴露」において暴露されるのは「全ての対象が、喪失(=自己を基礎付けたあの原初的な喪失)のみに基づいている」という事実に他ならない。

これらの含意を正確に踏まえていくと、自己のアブジェクシオンは単に自己に対する絶望的な経験、であるとするのは不十分である。自己認識の崩壊と反転は、世界を構成する諸対象が全て鏡像段階が後天的に生んだ幻影に過ぎないことの強烈な暴露とも不可分なのだ。したがってここにおいて、自己だけでなく世界の全てが崩壊していく。

ここで「喪失」は鏡像段階における母親との分離であることを思い出そう。すなわち母なるものから強制的に分離され、その分離を起点として、主体は他者の鏡像を自分と思い込み、思い込みに基づいて対象を形成していく。これを茶番と呼ばずしてなんと呼ぼう…。嗚呼、世界は自分と同じように、最初の離乳経験から始まった壮大な幻想の茶番なのだ! 

ここまでの議論を踏まえて、「自己のアブジェクシオン」と名付けられる経験は、そう名付けられる以上、[ 全ての存在の基礎喪失 ]であることの純粋な暴露」であるというロジックがわかりやすくなるだろう。アブジェクシオンには様々な類型があるが、その「最高度」のスタイルとは自己認識の全機能を「不可能性」という真実に飲み込まれ、世界が全て「無意味の重み」へと飲み込まれてしまう、それが直感的に痛いほどわかってしまうようなやるせなさ、あるいはあの自己破壊の極=「乾いた笑い」という着地点なのである。

自己のアブジェクシオンという経験は、精神科医R.D.レインの『引き裂かれた自己』における分裂症者の経験の極地に驚くほど類似している。

 彼(分裂病者)の努力は全て自己の保存に傾注される。彼は非存在への解体、自己解体の恐れに悩まされる。…(中略)…

彼は主体性や「生きている」という感覚を失うことから自己を守らなければならない。彼が空虚を感じている限り、充実した実在性は彼の手に負えない内破的な侵害なのであって、気体が真空を証拠し水が空っぽのダムを充満させてしまうように、完全に自己を抹殺しようとする。…(中略)…

しかし悲劇的逆説ともいうべきこと位、自己がこんなふうに防衛されればされるほど、自己はますます破壊されてしまうのである。

分裂症者は「存在論的不安」に苛まれ、こうした自分以外の全ての存在に対する激しい憎悪と拒否を繰り返すのである。皮肉なことに、それは自分自身の足場を削り、自己を縮小し破壊していくのである。分裂病患者が、ふと自分が虚無以外の何者でもない時に気づいてしまった時に、自己のアブジェクシオンは起こるのではないだろうか。

(ただし厳密に言えば、上記引用において患者はあくまで「自己の保存」を継続しようとしている。それが他者と共有されないような妄想や幻聴の発生につながるとレインは主張する。だとすれば分裂病は「自己のアブジェクシオン」の極限的危機の手前で、別種の対象を想像・創造することでそこから逃げようとすることであり、自己のアブジェクシオンそれ自体とは異なるものなのかもしれない。この点は理論的・現象的な比較が必須となるだろう。)

「主体」も「客体」も結局は鏡像を見たときの「喪失」によって基礎付けられることがわかってしまったあとは、私は私の部分を切り離しては捨てることを繰り返し、ひたすらに「真空」になることを徹底するしかないのである。それは自分を守ろうとする行為でありながら、同時に自分を破壊してしまうような反応なのである。

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やはりそれなりの量の引用をしつつ、それらを相当精密に読むというスタイルのため、記事の分量がかなり多くなってしまうようだ(なんと9,000字を超えている…)。これはクリステヴァの文章が恐ろしいほどの密度で書かれていることにも由来するだろう。

たった2文しか扱っていませんが、今回はここまでにしておきます。

(2)に続く…(下記リンク)

pyonta-hyonta.hatenablog.com