レヴィナス『逃走論』精読 (1)

背景 (忙しい方は読み飛ばしてください!)

2020年6月に書いた数個の記事(下記リスト)を見直しつつ、私はこの短い間で、「主体の中途半端な自己否定」の思想と呼べるような領域を追ってきたように思う。

  1. 「乾いた笑い」の黙示録 〜ジュリア・クリステヴァにおける主体への祝福の拒否〜 - pyonta-hyontaの主体論

  2. 中途半端に自分を破壊すること 〜否定性の不可避な肯定性〜 - pyonta-hyontaの主体論

  3. 優しく分割される主体を言祝ぐ 〜『自己語りの社会学』書評〜 - pyonta-hyontaの主体論

イメージとしては、主体の中に自らを否定するようなものが必ず存在し(あるいは自らを否定するようなものとしてのみ主体が存在し)、それが中途半端であることによって主体は肯定される。ただし主体はその自己肯定においてもその到達地点が否定性によって永遠に宙吊りにされることによって、その肯定を先延ばしにされていく。そのような両義的なモデルが、私の想定する主体像である。

しかし私は、ここから「他者論」へと向かうことの必然性と難しさを同時に感じている。上記#2の記事に書かれているように、自己否定性のみによって主体をモデル化することの暴力性から、いかに「他者」の否定性の痕跡を非-還元主義的に捉えるかという問題が巨大な「残課題」として残っている。だがそれは「エクリチュールメリトクラシー」と呼ばれる壁にぶつかることになる。

結局は「自己否定」中心主義として統一的な主体を確立してしまった私は、「他者」のことを考えられない自分のことを認識し、さらに反復される自己嫌悪の渦へと飲まれていく。これが今の私の現状である。

ところで現代思想において「他者論」の筆頭といえばレヴィナスであろう。残念ながら私には、レヴィナスを読んだ経験がほとんどない。社会人1年目に『全体性と無限』を数ページ読んだが、そのままスルーしてしまったのだ。レヴィナスの精緻で独特の論法は読んでいて「気持ち良かった」が、深追いはしなかった。

しかし自己中心的な主体論から他者論を含むような主体論への転回を図るにあたって、(初期)レヴィナスこそもう一度チャレンジするのにふさわしい材料であると考えられる。なぜなら彼は後期の著作で他者論を展開する下地として、その初期の論考において肯定的な十全性たる「存在」概念から主体を引き剥がし、「存在するとは別の仕方で」、「自分が自分であるということから逃れようとする」(=他者へと向かう)欲求を説いた(とされる)からである。

私はもともと他人の文章を読むのも他人の話を聞くのも苦手だが、こういう機会を使って古典の読解にじっくりと取り組むことで、関心の解像度を高めていきたいと思う。

 

対象箇所

エニュマエル・レヴィナス 著「逃走論」合田正人 編/訳『レヴィナス・コレクション』、ちくま学芸文庫、2013、P143~178

  • 1記事あたり2~4ページの進度を考えています
  • 今回はP144~146をターゲットとします
  • 形式としては、段落ごとに一部または全部を引用しつつ、私が理解した範囲で解説をつけます

 

参考資料

以下の資料を読解の参考に使用します(引用などは特に予定していません)。

それ以外にも手持ちの本(特に教科書的なもの)を適宜参照しながら読んでいくので、その時は都度紹介します。 

 

いざ精読

第1段落(全体)

存在の観念に対する伝統的哲学の対抗は、人間的自由とそれに抵触する存在という粗野な事実との不和に由来する。この反抗を生み出した確執は、人間を世界とは対立させるが、人間を人間自身とは対立させることがない。主体を引き裂き、人間の内部で自我を非-自我と対峙するような闘争を超えたところに、主体は単純なものとして存在する。こうした闘争は自我の統一性を破壊するものではなく、自我は、そのうちにあって真に人間的ならざるもの全てを一掃して自己自身との和解を約束され、自己を成就し、自閉し、自己自身に休らう。

「逃走論」はいきなりこのような突拍子もない見取り図から始まる。この段落はヘーゲル(まで)の哲学における主体の観念を、皮肉を込めた口調で説明しているものと思われる。人間、自我、主体、自我、自己(自身)といった諸語彙の区別は、差し当たりつける必要がないだろう。すなわち全て《同》=「自己同一性」=肯定性としての人間主体のモデルであるとしてよいだろう。

ヘーゲル哲学は一般的に、《他》=同一性を脅かすもの=否定性との闘争の果てにある統合へと向かう「肯定性の哲学」、とされることが多い(このモデルがヘーゲル哲学を実際に理解したものであるかどうかという議論は別途必要であろうが。)。「肯定性の哲学」とはどういうことか。

(以下の議論は村岡晋一『ドイツ観念論 カント・フィヒテシェリングヘーゲル  Kindle 版』講談社、2015 を参考にしました)

ヘーゲル哲学において「存在」とは「本質」に対峙するものとされる。「これはペンである」というときの「これ」が存在、「ペン」が本質である。存在は感覚的確信で捉えられるが、本質は人間誰もが認める公共的な真理である。であれば、人間の「本質」の観取への道に立ちはだかり続けるものが世界」における「存在」である(なお、現時点での理解では、「存在」という概念自体が「人間的自由」と対立するものではないと考えられる。なぜなら人間主体それ自身も自同的な存在概念に依拠し、それ自身として存在するとされるからである。この議論は第4段落の解説で扱うこととする)。

ヘーゲルによれば、あらゆる「事物」は実体(具体的なもの=諸「存在」)と性質(一般的なもの=「本質」)の二元構造をなすものとして捉えられる。そして人間の認識は、ただ実体だけを「感覚」によって捉える認識のレベルから、実態と本質の二元構造をなす事物を捉える「知覚」へと発展すると考える。それは個別的なものを「否定」し、言語によって一般的な概念を通して評価する行為である。

よって人間主体は、自らの存在を賭けて世界(自然)の諸存在による制約を超え、対象を定立する。最終的に審級されるべき人間主体はその超越的運動の果てにあり、絶対的な本質の観取に基づいた知性そのものであるべきなのだ。その統合のプロセスには当然「個々の」人間主体どうしの闘争も含まれる(「主人と奴隷の弁証法」の議論を参照)。だがその極地は人間の精神が作り上げた世界であり、すなわち「人間的自由」の至る場所なのである。

世界(自然とも呼ばれる)における諸々の「存在」が途上に存在することは、そうした知性へ向かう人間的自由に対する「制約」すなわち人間の自己に対する否定性として位置付けられており、最終的には人間の自己によって否定され、抽象的な人間主体に同化されていくのである。

確かに(一般的に理解される)ヘーゲル哲学においても「主体を引き裂き、人間の内部で自我を非-自我と対峙するような闘争」、すなわち主体崩壊の危機、否定性の現前が訪れる。しかし肯定性としての主体はこうした闘争に勝利し、より上位の歴史的統一性のもと自己の安寧を確保していくとされる。その意味では主体が脅かされることは一時的なものであり、主体は否定性に勝利し、その「うち」に否定性を統合(つまり否定的なものとして消去=「一掃」)し、自己の「統一性」を守り続けて然るべきものとみなされている。つまり、ヘーゲルにおける主体はその安定性=「自己自身に休らう」ことを本質としているのだ。

その後の諸段落において、レヴィナスはおそらくこの安定的な主体像から「逃走」するために、それを攻撃していくことになると予想される(しかし、今回の記事ではそこに到達することはないだろう)。

 

第2段落(一部)

第2段落では、こうした自己概念への充足的理想が歴史的に保持されてきたことを述べている。「ロマン主義」は人間的主体の勝利という「ヒロイズム」に依拠しているが、それはあくまで主体と和解しない異質な外部存在への戦いを前提としており、主体が自分自身を異質化したり、それを否定したり、それに対して闘争を起こしたりするようなことはしない。つまりこの主体も「自己自身に休らう」主体なのである。ゆえにレヴィナスは以下のように評する。

障碍と抗争することでのみ、個人のヒロイズムは可能となる。闘いは異質なものにのみ挑まれるのだ。

 これを受けてレヴィナスは、ルソーやバイロンを「彼らより以上に自足せる者は誰もない」として皮肉るのである。

 

第3段落(一部)

第3段落は長いが、一貫して第2段落と同じようなことを述べている。「ロマン主義」と異なり、ここでは「ブルジョワ」がレヴィナスの攻撃対象となる。両者の違いは以下にある。

ブルジョワはいかなる内面的分裂も打ち明けることはないし、自己への信頼を欠いていることを恥じている。然るに、ブルジョワは現実と未来のことを憂慮している。なぜなら、彼に所有を保証している現在の、異論の余地なき均衡を、それらが破ってしまうかもしれないからだ。ブルジョワは本質的に保守的だが、不安な保守主義なるものも存在するのだ。

ブルジョワ資本主義の不安定なゲーム性に晒され、常に未来と現実に不安を抱えている点がロマン主義と異なる。だが不安だからといってその保守性の程度はロマン主義と変わらない。ここで糾弾されている保守性はいうまでもなく「存在の安逸」である。

 

第4段落(全体)

ところで、自足する安逸というこの範疇は、諸事物が我々に供する存在をモデルとして思い描かれている。諸事物は存在する。諸事物の本性やその数々の特性は不完全なものかもしれないが、存在するという事実そのものは、完全-不完全の別を超えている。存在するという事実のあからさまな肯定は絶対的に自足していて、他の何物にも準拠していない。存在は存在する。ある存在に対してその実在だけを考える限り、存在は存在するという肯定に付け加えるべきものではない。自己自身とのこのような関わり、それこそ存在の自同性という言い方で語られているものだ。自同性は存在の一つの特質ではなく、特性同士の類似を本義とするものではあり得ない。諸特性それ自体、自同性を前提としているのだから。自同性は、存在するという事実の自足せる安逸の表現であって、誰も、その絶対的で決定的な性格を疑問に付すことはできないように思われる。

「存在」が「他の何物にも準拠していない」としている点で、この段落の内容は一見ヘーゲルのモデルと矛盾するように見えるが、「本質」を捨象して「実在性」の面だけに注目すれば、ヘーゲルに対して十分整合的であると考えられる。

人間がある具体的な「このもの」と邂逅する時、あるいは邂逅する前にもすでに、「このもの」は存在している。このことは絶対的である。「このもの」が対象へと変化し、人間によって観取された本質がその存在の根拠となるには、言語による「否定」というプロセスを経る必要がある。否定が起こる前は、存在は存在することだけで自分自身を肯定しているのだ。

また否定が起こった後でも、「このもの」が存在すること自体にはいかなる根拠も必要ない、ということには変わりがない。「本質」と分離された「存在」の概念は、具体的な「もの」において常に絶対的に発揮され続けるのだ。

そしてこのような「このもの」が発揮する絶対的・肯定的・自足的な諸存在のあり方=「モデル」を、人間は自分自身の主体像にも当てはめていることをレヴィナスは指摘する。この適用が、第一段落〜第三段落までのヘーゲル哲学・ロマン主義ブルジョワに共通する「存在の安逸」という前提の理由であろう。またこれが、第1段落の解説で私が「『存在』という概念自体が『人間的自由』と対立するものではない」と仮定したことの論拠である。

また面白いのは、「諸特性それ自体、自同性を前提としている」という部分である。「存在」と対立する「本質」の概念もまた、「存在」の安逸的モデルが元になっているというのだ。

例えば「このリンゴは赤い」という文における「赤い」という本質(特性)は諸事物の具体性の制約を超越して適用可能だが、「赤い」が本質として適用されるためには「赤い」ことが「赤い」こと自身と同じである必要がある。A=A、すなわち同一律という言語の機能も、具体的な「このもの」が存在する時の様態を参考にして構築されている…そのようにレヴィナスは主張していると考えられる。

--- この辺り(特性が自同性をモデルにしていることの理由)の理解はやや不安なので、批判ビシバシお待ちしています!!! ---

 

第5段落(一部)

第5段落では、それまでの段落を総括して、「西洋哲学」全般に対する不満を吐露する。それは「自足せる安逸」という前提を頑なに保全してしまう哲学的思考の癖に対する不満である。

存在主義と闘いながら、また、現にそれと闘っている時にも、西洋哲学は、われわれ人間と世界の調和のために、われわれ自身の存在の完成のために、より善き存在を求めつつ闘ったのだった。平安と均衡という西洋哲学の理想は、存在の自足せる安逸を前提としている。

ここでも暗にヘーゲルがその主たる攻撃の矛先であると考えられる。「このもの」という存在性は人間の自己意識が絶対知に向かう途上の「制限」として理解される。しかしその制限がなぜ乗り越えられなければならないかというと、結局は「われわれ自身の存在の完成」のためであり、自分自身が他の存在の存在性を差し置いて、傲慢にも「自足せる安逸」を享受するためなのである。

こうして西洋哲学は人間主体「存在」の超越的「完成」、いわば「無限な存在と合一すること」を目指して奔走するのである。それが「より善く生きる」という古代ギリシアからの理念とも合一しているという信念のもとで。この傲慢からどのようにレヴィナスが「逃走」していくのかが、今後の段落の課題である。

 

所感?

レヴィナス解釈なのに、記事の内容はほとんどヘーゲルの話になってしまった。それもおそらく必然であろう。サルトルなどを読んでいてもわかるのだが、ヘーゲルフッサールとともにほぼ全ての現代思想の前提となっている。こういう精読タイプの記事の執筆には、より一層の自己研鑽が求められるはずである。

とはいえ、こうした厳しい側面があるものの、この記事は今までの記事の中で「書いていて一番楽しいものだった!」というのが私の正直な感想である。その理由の一つは、おそらく作業の性質にある。今までの「ゆるふわ」で「自分語り・感想文チック」な記事よりもよっぽど手応えのある作業だったように思えるのだ。

「テクストに書かれていることが絶対に正しく、自分の解釈はテクストそれ自体に比して絶対的に劣っている」というのが、こういう精読の作業につきものの「倫理」である。そこにおいて私は、「自分でみずから正しいものを書く」ことの義務と不可能性にぶち当たらず、自己嫌悪のストレスからある程度解放される。この点が精神衛生上良いのだろう。精読作業は、私を全体論的な批評のストレスから解放しつつ、「執筆をミニマルにして、その中で『ガチ』な読みを練習していきたい」という私の欲求にも合致しているのだ。

もちろん全体論的な記事も書くには書くだろうけれど、今後はこういう精読記事の割合を増やしていきたい。

 

次回:

pyonta-hyonta.hatenablog.com