交通整理 20200620

背景

前回の記事(「乾いた笑い」の黙示録 〜ジュリア・クリステヴァにおける主体への祝福の拒否〜 - pyonta-hyontaの主体論)の執筆途中、また執筆後友人のフィードバックを受けて、自分の記事の書き方について以下の問題点を実感した。

  1. 可読性の不足(単にわかりにくい)
  2. 背景の不明瞭さ(なぜそれを調べているのか、という納得感を読み手に与えられていない)
  3. 字数のアンマッチ(一回の記事で色々書こうとするあまり字数が増え、内容を圧縮しすぎて論理が雑になったり可読性が低下する)
  4. 概念の雑な利用・概念の雑な属人化(「ヘーゲル的」などの語彙の安易な利用)

初回記事は、あくまで執筆時点での実力を限られた時間の中で発揮した結果である。そのため、すでに執筆した記事に対してこれらをすぐに直そうとは思っておらず、別の記事を書く中で「直せたら直す」ことを考えている。

ただし、今後の記事の生産を継続するに当たって上記問題をなるべく最初から回避するために、いったん現時点での交通整理を行っておきたい。

具体的には、まずは自分の言いたいことを直感レベルで書き下し、次に同じく直感レベルで反論に備えることで次の仮説→検証作業の大まかな流れを作っていこうと思う。

そのため、この記事のカテゴリは「主体論」ではなく「アドミン」としておいた。また自分や他人の可読性を最大限まで高めるために、「接続詞+箇条書き」を中心としたスタイルで書いていく。

 

仮説

大仮説クリステヴァの否定性概念は有用である
(←こればかりは本当に好みの問題である。私は直感的にこの概念・考え方を好み、本能的にその有用さを示したいと思っている)

  • 具体的には→経験を抑圧するような偽善に陥らずに、主体の複雑な経験を表象することができる
  • そのことによって→クィアなエンパワメントの方法論の理論的強化にも繋がる

反論1:「それって何の新しさがあるの?」
=それはクリステヴァに固有の革新性を持たないのではないか

反論2:「それって実際に使えるの?」

=それはクィアなエンパワメントに援用可能ではなく、むしろそれを妨げてしまうようなものなのではないか

反論に対する反論1

  • ヘーゲル弁証法クリステヴァ弁証法の構図自体は全く同じであり、構図に革新性はないと考える
  • すなわち「自分は自分である」(同質性、パラノイア)と「自分は自分ではない」(異質性、スキゾイド)という二重性の間を主体が往復することである
  • しかし両者の違いは構図ではなく、何を絶対的とすべきかということにある
  • すなわち、ヘーゲルサルトルの場合は、否定性が論理的な全体性と運動性という構図に吸収される
  • しかし、クリステヴァの場合は、エクリチュールこそが最優先される。ただ書くこと/書かれた否定性が、否定性の経験としてそのまま残留する。さらにそれは単に否定的であるだけでなく、何の肯定も許さないことによって主体に快楽をもたらすものである
  • つまり、前者はどうしても普遍性や絶対知、それに到達しうる主体を祝福するか(ヘーゲル)、あるいは普遍性がないとしても存在し選択する主体を祝福する(サルトル)ことを帰結として持つ
  • 他方で、後者は否定性の経験をそういった判断に還元しない上に、「おぞましさが持つ快楽」という複雑な問題系を開く端緒になる

反論に対する反論2

  • たしかに、ニヒリズムは何も肯定せず、エンパワメントに使えないかもしれない
  • しかし、果たしてエンパワメントは何かを肯定することを意味するのだろうか。逆に主体の無条件の肯定は、何かしらのエンパワーすることができるようなものなのだろうか
  • むしろ、「主体とはかくいうものだ」というドグマを多数派は持っており、その枠組みで例えば障害を持った人を肯定的に鼓舞しても、単なるノーマライゼーションになってしまうのではないか
  • そうではなく、そういう多数派のドグマに面した主体が、ドグマというその主体にとっての否定性に面することを(しばしば快楽を伴う複雑な)経験として表象することで、初めて是正に向けた経験の格差を可知的にすることができるのではないか
  • さらに、それを立証するようななんらかのクィアなテクストがあるとすれば、それはまさにアブジェクシオンのエクリチュールなのではないか
  • 故に、意味論的なエンパワメントにはクリステヴァ的な否定性の捉え方、そして表象作業が必要条件である、そうでなければ空疎な「プライド運動」のようなものになってしまうのではないか

 

検証方法に関する仮説

「反論に対する反論1」の検証

  1. ヘーゲルの主体概念と否定性の関係を、サルトルがどう読み直したかを確認する
  2. ヘーゲルサルトルの主体概念と否定性の関係を、クリステヴァが正しく理解したであろうことを確認する
  3. クリステヴァのテクストにおいて、「エクリチュールの一般的構図に対する優位性」を認め、その優位性によって主体概念・否定性の関係がもたらす帰結が、ヘーゲルサルトルのそれと異なるものになることを確認する

「反論に対する反論2」の検証

  1. クィア理論またはクリップセオリーにおけるエンパワメントの位置づけの先行研究を集め、全体的な理解を図る
  2. エンパワメントの文脈の反動的なプライド運動の問題点を読み、それがクリステヴァによるサルトルなどへの評価と同じであることを類比する
  3.  #2に対する解決としてクィア理論またはクリップセオリーで使われる手法が、アブジェクシオン的なエクリチュールであるという事例を確認する

 

課題

前回も今回もほぼエスプリだけで書いてしまったが、このスタイルは自分の中であまり変えられないと思うので、記述量に見合うだけの読書量を後から足していこうと思う。

特に上記の論理の流れの中に「快楽」を明確に位置付けることに困難を感じたが、快楽の問題を抜きにこれらの論証をすることは不可能だという直感があるので、その辺りに役立つインプットを増やしていきたい(というか、快楽の問題を結びつけることが目下のところ一番クリティカルな課題だと思うので、「検証方法の仮説」で述べた調査よりも先に取り組むかもしれない)。

テーマのあまりの壮大さに比べて、環境面では資料へのアクセスが弱く、また能力面でも私の頭のスペックは絶対的に不足しているはずなので、適宜規模を分割・縮小しながら継続できる範囲でやっていきます。