はじめに

※ この記事にはある重大な問題点があります。その点をまとめた記事を2020年11月に発行したので、よろしければこちらもご参照ください。

pyonta-hyonta.hatenablog.com

 

初めまして。ひょんたと申します。

このブログは、「いざとなったら誰からでも見られる」というブログ自体の公開性を利用して、自分のお勉強の継続に役立てるツールとして私自身のために開設したものです。

分野としては哲学・思想・芸術などのカテゴリに含まれるのでしょうか。

 

問題意識

私の現在の問題意識は、一言で言えば「主体の構造」です。

まず卑近な生活感覚において、私は小さい頃からずっと、私自身の存在をいまいち自明視できていません。

正確に言うと、「人格を持ち意思を持って動く私自身の存在の根拠を明確に説明する言語を持たないのに、なぜか自分が私自身の存在を自明に感じていること」を自明視できません。ここまで書くと、多くの人がこの感覚を持っているのではないかと思います。

私自身の「存在」という言葉と私の「主体」という言葉は当然別物で、混同して使うことは本来避けねばなりませんが、いったん簡略化のために混同させていただきます。

 

さて、この「主体」の問題(批判的検討)は哲学の最も古いテーマの一つであり、特にフーコーを代表とする構造主義によって徹底的に批判された概念の一つです。

よく知られているように、ラカン精神分析では人間の「主体」は最初から存在するものではありません。人間は自他の区別も統合性もない「寸断された身体」から、二つのプロセスを経て、自他の区別や統合的な同一性を備えた「主体」へと変形していきます(その二つのプロセスは「鏡像段階」と「エディプス」です)。

この二つのプロセスは不可逆的なものですが、いったん成立した主体も、絶えず自らの根底を揺るがすような危機に直面しながら生活することになります。例えば、見えるはずのないもの(=見ないようにしていたもの)が見えてしまったり、トラウマを植え付けられてしまったり、どうしようもない立場に追い込まれて錯乱してしまったり…

 

こうした危機の前に自他や世界に関する「自明性を喪失」(ブランケンブルク)し、主体は、その機構自体の存続すら危ぶまれるような事態へと陥っていきます。主体を破壊しうるこの危機をギデンズやR.D.レインは「存在論的不安」と呼び、クリステヴァは「アブジェクト」と呼んでいます。こうした主体に対する否定的概念はそれぞれ個別の領域を持ち互いに区別して論じられるべきですが、大雑把に主体への「否定性」と呼ぶことができます。「否定性」に主体が飲まれ切ってしまうと、臨床的には統合失調症などの精神病になってしまうこともあります。

こうした「否定性」は避けられるものではなく、主体にとってはリスクそのものですが、一方では主体に乗り越えられることで主体に成長の機会を提供するものでもあります。このような「主体 VS 否定性」という構図はヘーゲル弁証法から由来し、のちの多くの思想家が共有しているものだと思います。

 

さて、危機に対して人間主体はどういう反応を見せるのでしょうか。主体は一方で、曖昧になった自身の輪郭を神経症的に取り戻そうと躍起になります。ただしここが面白いところなのですが、主体は「自身の輪郭がはっきりすること」だけを求めているのではなく、むしろその逆の事態も欲求している…という指摘が様々な思想家によってなされていることです。

主体の輪郭の曖昧さは、「快楽」の概念と結びついています。例えばバルトはテクストというポリフォニー的な「引用の織物」のなかで自己融解し、存在的に軽くなることで快楽を感じる主体(読者主体)のあり方を綿密に記述しています。

ここで注意するべきなのは、二元論的に「強固な自己」と「弱い(軽い)自己」のモードがあって両者のバランスが大事だという単純な話に陥るべきではない、ということです。むしろバルトが想定しているのは、「本質が失われていく中で、より一層『虚無』としての自己に対する明晰な意識が涵養される」という経験です(これを桑田光平(2011)はサルトルにおける非反省敵意識における対他自己の立ち現れ方と結びつけ、実存主義哲学と接続する形できれいに論証しています)。

 

長くなりましたが、私はこうしたアンビバレントでパラドキシカルな「主体」としての私のあり方に強いリアリティを感じています。

ゆえに、私の興味のある分野は「近代・ポスト近代全て」であると言えますし、また言わ「なければなりません」。なぜなら精神分析記号論・テクスト論・現象学実存主義構造主義・科学論など全てが、この「主体に対する問い」を中心的テーマとして扱っているからです。

 

ブログの使い方

当然、一人の人間が(ましては職業として研究をやっているわけではない人間が)近現代の思想を網羅することは不可能ですし、そもそも「網羅」の定義も意義も不明瞭です。「主体」の問題はそれほどまでに広大で無限に発散していく議論なのです。

そのため私はこのブログを自分の読書の足がかりとするため、以下の具体的な有限化を行います。

  1. 「仮説」→「検証」(+所感など)のスタイルで書く
  2. 歴史上の具体的な出来事を自分の探究の結節点として想定する(必ずしもブログ内で取り上げるわけではない)

1. についてはよくある話なので、解説は不要かと思います。

2. について私は1960~70年代「反精神医学」運動をそのような出来事として想定します(理由はきっと後で明らかにします)。

以上が私が私に課した最低限のルールですが、逆に言えば分量・頻度などで私は自身に制約を設けないことにしています。

 

非常に内向的なブログになってしまいそうですが、訪れてくださった方は私の稚拙なノートを少しでも楽しんでいっていただければ幸いです。