「主体の位置」について、あるいは過去の記事における「過ち」

提訴

 「なんらかの原理によって筋を通せると自分が思った時は、大抵、自分がその原理を誤解している時である」...そのようなことを、最近私は強く思う。

 本記事は学術書ではなくブログなので、どうも上記のような通俗的な書き出しから軽々しく自己の開示を開始したがっているようだ。しかし、この書き出しを実際に書くまでの2ヶ月程度の間、私の書き手としての気持ちは絶望的に重いものであった。それでも書かねばならぬということは明白なので、一旦は、本日の私は「書くべきこと」だけを書こうと思う。

 さて、私がこの記事を書こうと思った理由は、以下の2つの過去記事に重大な勘違いが含まれるのを私が発見したということにある。

pyonta-hyonta.hatenablog.com

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 一つめの記事は、クリステヴァの「自己のアブジェクシオン」を、ラカン鏡像段階理論によって読み解きながら精読しようとするものであった。まずこの論旨自体には、瞬時に一定の批判が可能である。例えば「ラカン鏡像段階理論を提出した際、鏡像段階における現実界との関係を現象的に捉えていなかったのであり、それをアブジェクシオンの概念と結び付けるためには、精神病という文脈との関係をまず明確にたどることが論証的に必要である」というようなものだ。

 だが、この批判は少々ややこしく、またこれから述べる「過ち」に比べれば遥かに些細なものである。そのため、この批判に対する解説・検証は加えない。最も大きな問題は、このブログ自体のタイトルにもある「主体」に関する私の勘違いにあるのだ。

 上記の2記事で私が犯してしまった最も重い罪は、「主体」と「自己」をはっきりと区別しなかったことにある。ラカンにおいて両者は全くの別物であり、その区別なしにはラカンフロイトを読み解くことは到底不可能であると断言できる。にもかかわらず、自分はその基礎的な事項を無視して無様を晒してしまったのである。確かに、私は両者を全く同一視していたわけではないし、区別が示唆される書き方も該当記事内の随所に見られるだろう。しかしながら現在の私は、少量ではあるが多少の自己研鑽によって、「両者を対立概念として捉え、その対立性という前提から論を開始すること以外の方法によって、精神分析を適切に語る資格はない」と思うに至ったのだ。

 ずいぶん感情的な書き振りになってしまったが、とりあえずこの問題について、ラカンセミネールの一部をまとめた『精神分析の四基本概念(上)』のIII「確信の主体」という章を軸に解説してみることにする。

 

罪状

 ラカンが「主体」に言及するとき、それは必ず「無意識の主体」である、というのが通説である。仮にラカンがそうでない主体を話題に出すことがあっても、論点になっているのは無意識の主体であり、我々の意識下に上ってしまうような主体は仮初の姿や、間違った像に過ぎないのだ。「自己」という言葉が用いられる際は、大抵そのような主体の虚像のことを指す場合が多いと考えられる。

 まず、以下の引用を参照されたい。

 我々にとって重要なのは、考える主体、そこで自身を位置付ける主体、そういう主体のいかなる形成よりも前に、何かが算え、何かが算えられ、その算えられたものの中に算えている人が既に含まれている、そういう次元を我々はここで見ているということです。

(『精神分析の四基本概念(上)』P48)

 この文章をすんなり読み込むには、精神分析(超心理学、メタサイコロジー)が、意識のアプリオリを意識によって説明できないと主張していた、という前提が必要である。その前提に基づけば、ここでラカン現象学に見られるような超越論的自己による意識説明の「裏をかく」ような問題設定をしていることがわかるだろう。構造主義的とも言えるが、ラカンは、「私たちの意識のコギトが働くには、意識としての私たち以外の何かが既に何かを考え、その枠組みの中に私たちを置いている必要がある」という一般的な枠組みを示しているのだ。

 ラカンは、デカルトフロイトが「我思う、ゆえに我あり」という命題に関し同一の前提から発展しながら、考え方を互いに分岐させていくことについて述べる。

 デカルトは、「我、疑うことによりて、思うことを確かとす」と言っているのです。私は「我思う」についての議論を避けることによって、この「我思う」が暗に我々にこれを「言う」ことによって初めて定式化される、と言う事実から確かに切り離せないこと(デカルトが避けていたのはまさにこのことです)、そのことから生じてくる議論を避けている、と言う点に注意してください。

...(中略)...

全く類比的な形で、フロイトは、彼が疑いを持つその時に、なんらかの無意識の思考がそこにあるということを確かだとしています。ということはつまり、無意識の思考は不在として現れてくるということです。

...(中略)...

 ここにフロイトデカルトの間の非対称性が現れます。主体に基づいた確信という最初の歩みに非対称性はありません。非対称なのは、無意識の領野こそが主体の本拠地であるということです。

(『精神分析の四基本概念(上)』P81-82)

 ここで注意するべきなのは、フロイトラカン共に、「考える」という作用が意識ではなく無意識に属するという前提を持っているということである。この点の起源はフロイトの「心理学装置」という初期の論文にまで遡って確認できる前提とのことだが、詳細な検証・論証は避けておく。ただ、上記引用の主張が、「思う」という作用に関して一番最初の引用(P48)とほぼ同じ前提を持っていることは明白だろう。

 ではこのような意識的自己とは異なる、無意識の主体とは、何か。「主体」の問題に入る前に、まずは無意識に関するイメージ的な解説から取り上げてみよう。

 無意識の機能における存在的なもの、それは割れ目であり、その割れ目を通して何者かがほんの一瞬日の目を見るのです。我々の領野におけるこのなにものかはごく短い出来事のようです。それは一瞬です。というのは、閉鎖の時である次の瞬間にはこの把握は消滅という様相を呈するからです。

(『精神分析の四基本概念(上)』P72)

 それは結局、分かりやすく言うとどのような現象のことを指すのか。人間に当てはめた場合、それはなんのことを指すものなのか。

 フロイトラカンによれば、上記の「割れ目」に相当するような具体的な振る舞いは、人間の言い間違い・どもりなどの言語的な切れ目であるという。分析家は強迫神経症などの症例で、「否定辞」を何度も登場させて自分の発言内容を歪めたり、早口で喋ってみたり、言い間違い・どもりを展開したりする「抵抗」の様相を見てとるのである。

 そして言い間違いなどの言語的作用によって、「無意識の主体」が浮かび上がるとフロイトラカンは主張する。ここでは、手っ取り早い解説のために松本卓也人はみな妄想する -ジャック・ラカンと鑑別診断の思想-』からの引用をしておく。

 無意識の噴出に直面した分析主体は、「その言い間違いは偶然である。私はそんなつもりで言ったのではない」と主張するかもしれない。しかし、「そこに無意識の主体が現れたのだ」とラカンなら答えるであろう。主体が意識の相関物ではなく、むしろ無意識の相関物であるというのは、この意味においてである。

...(中略)...

 当然のことながら、精神分析が考えるこのような主体は、決して安定した形で存在するようなものではない。それは言い間違いやどもりのように、語りの中の裂け目として現れることしかできないものである。そして、現れたかと思えば次の瞬間には消え去ってしまう、拍動する点のようなものである。

(『人はみな妄想する -ジャック・ラカンと鑑別診断の思想-』P17-18)

 補足すると、この文章にも「意識 - 無意識の非連続性・背反性」という前提があることを指摘する必要があるだろう。私たちが言語を使ってなんらかの意味の通るような文や単語を取り出した瞬間には、既にそれは私たちの意識にのぼっているということになり、それは無意識の領域にはないことになる。半-意識のような想定はここではなく、いわば釣り上げた瞬間に溶けて無くなってしまう「水でできた魚」のようなものである。

 この主体を貫く原理は「欲望」であるというのが精神分析の想定であるが、今回の議題からはやや逸れるので、この辺りで解説を止めておくことにする。

 以上から、フロイトラカンが主体を扱う際、それは意識的な自己(あるいは「意識の考える作用を主体と同義とする」ような発想にとっては「意識的な主体」とも表現できるだろうが、精神分析的にはそれは間違いである)とは明確に分離されるべきものであると考えられる。

 さて、冒頭の2記事を批判するために、もう一つ指摘しておくべきことがある。それは「主体の位置」ではなく「主体の時間」という通時的側面によるものである。これらの記事は、あろうことか鏡像段階によって主体が発生する」と書いてしまっているが、それは大きな間違いである。正確には「主体は鏡像段階によって自己を獲得していく」のである。逆にいえば、鏡像段階によって母との関係を持つ時、無意識の主体が既に成立していることが前提となる。鏡像段階は、主体成立ではなく、既に成立した主体における想像上の出来事なのである。鏡像段階が与えるとされるのは、「主体」ではなく「自我」や「自己」といったものなのだ。

 なぜこのような勘違いを私がしてしまったのか?と問われれば、ひとえに「主体」と「自己」をはっきりと区別しなかったこととしか言いようがないだろう。両者をきちんと区別していれば、このような誤解にはたどり着かなかったはずである。つまり、主体の時間を理解するには、まず主体の位置を理解する必要があったということである。

 さて上記のような「時間軸の修正」を行った後であれば、例えば以下のラカンに関する論考も正確に理解でき、それがクリステヴァを読むための正しい土台になるのであろう。言い換えれば、私はこれから無意識の主体と共に、文字通り「0から」クリステヴァを読み直す必要があるのだ。

 藤田は「寸断された身体」の前史として、主体と 〈母〉の未分化の段階及び主体が欲求の領域から欲望の領域に移行するフェーズを想定する。この移行によって、バラバラの欲望の寄せ集めとしての「寸断された身体」 が形成されると考えるわけである(藤田,1990,pp.39~41)。本稿では後者の見解に従う。その理由は,出生時から「寸断された身体」を想定すると,後述の対象a= 〈もの〉das Ding(フロイト)の位置付けができなくなるからである。

...(中略)...

  他者autreのイマー ジュが鏡像の機能を果たす。(小)他者とはこの場合、主体にとっての対象となった 〈母〉 である。鏡像としての(小)他者= 〈母〉のイマージュによって、主体はみずからが身体で あることを(視覚的に)知り、「寸断された身体」にかわるまとまりを持った身体像を得る。この身体像が最初の自我=想像的自我moiimaginare (藤軋1993c,p..149)であり、その形成過程が鏡像段階である

(『〈主体〉の構造と類型』P38-39)

判決

 私の罪状を説明するのには、もはやこれで十分だろう。冒頭に示した過去記事の「なにがいけなかったのか」を自ら逐一あげつらう行為は、流石に私の「精神」をオーバーキルしかねないものなので、差し控えさせていただく。「私は根本的に間違っていた」ということを認めて、今後の私が「先に進む」ことをお赦しいただきたい。

 後期ラカンにおいては、「無意識の主体」の中でも「欲望の主体」・「享楽の主体」の二者が区別されてゆき、無意識に関する象徴の作用だけでなく「現実界」への理論的接近が試みられていく。そこにおいて探求されるのは「言語のように構造化される前の無意識」であるのだが、とはいえ本記事の論点が位置するのは、これを扱うずっと以前の段階である。いずれにせよ初期〜中期のラカンまでは、フロイトの読み直しによって「言語のように構造化された無意識」が扱われているのであり、そのような無意識を主体の本拠地とする限り、主体は象徴界の作用により「非存在論的に」「出現」するものである。

 そのため、冒頭で紹介した過去記事については、その内容が全くの的外れであると言わざるを得ない。仮にそれが結果的に「正しい」仮説であったとしても(正しいはずがないのだが)、それは精神分析の枠に沿っていない限り、無効なものになるのである。

 ここまで恥ずかしい姿を晒してしまった以上、この記事が私の人生最後のブログ記事になってしまう可能性がある(もとより何らかの記事は人生最後の成果物になる可能性があるのだが)。それでも私は、死ぬ前にこの記事によって自分の過ちを言語化できたことに、ひどく安心してしまっているのである。

 

ひょんたの「葬式プレイリスト」(後半)

※前回の記事はこちら!できれば前半から読んでください

pyonta-hyonta.hatenablog.com

 実は前半の記事を書いてからすこぶる体調が悪くなり、変な夢でうなされたり、起きてからも脳の言語機能がバグっているような感覚に襲われたりしました。死という「もの自体」に気軽にアプローチしようとするべきなのではないのかもしれません。

 というわけで、後半戦を「さくっと」書いてこの企画を完結させてしまいたいと思います。あまり時間をかけるべきではないという直感もあるので…。文字数は前回の4分の3程度に抑えられていると思います。

 

【備考】

  • M0〜M11というように、「M+番号」で曲順と内容を識別する
  • 前半ではM0〜5、後半ではM6〜11を紹介する
  • 各セクションの冒頭にYoutubeまたはSpotify音源リンクを貼る
  • 各セクションの文章欄で曲を選んだ演出上の理由と意図を端的に説明する

 

 

M6:『ラストダンス』/Eve

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 さて、後半からだいぶ「ポピュラー」になっていく。この曲はプレイリストの中でも一番新しいのではないだろうか。

 言語体系・社会のルールをツールとして用いていくうちに、主体はいつの間にか体系そのものと同化していく。あれほど「外部」だった体系が、いつの間にか自分そのものとして振る舞い始める。これは言語との戦いに勝ったのか、はたまた単なる言語の乗り物へと堕してしまったのか…?

 この頃(?)になってくると、「虚無を用いて虚無をなす」「本質がないことが本質」のような、世界のナンセンスな「回し方」を覚えてきてしまう。それはおそらく、体系を内面化してしまい、かといって他に参照すべき規範もなくなってしまったからだろう。いつの間にか世の中にはだいぶ「こなれ」てきてしまったわけだが、その感覚が新鮮なのでしばらくそれに酔いしれていても良いと思う。そこで働いているのは相変わらず「存在しないものを求める」という欲望の構造である。欲は本来的に満たされることがないから、我々は同じことを繰り返しても気が狂わないのだ。

 このように躍り狂う主体というものは、側から見ると痛々しいかもしれないが、全身であらゆる動きを享受して陶酔できる特権的な時期にいるということでもある。この曲の曲調は、そのような「キレのある陶酔」を彷彿とさせるような若々しい邦ロック的ギターをそのテイストの主軸としているように思われる。

 それはまた、頭で死を思考することで死を忘却しているという逆説的な時期でもあるのだ。

 曲調のみを基準に選んだので、私はこの曲の歌詞のことを正直よくわかっていないが、以下のあたりとかはこの位置で表現したいコンセプトに近しいものがあると思う。

虚勢を張って自分を失った

虚言を吐いて幻になった

馬鹿になって宙を待って

したらもう壊れてしまいました

...(中略)...

あなたが言った本当の意を

世界の片隅で考えているわ

冷え切った嘘さえも

溶かしてやってくれるのなら

 

 

M7:『新宝島』/サカナクション

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 この曲目を見て驚かれた方も多いと思う。「葬式でサカナクションを流すの!?」と。そう、これはもともと「葬式でサカナクションを流したら流石に面白いんじゃないか」という野心から選曲したものだ。きっとダンスシーンなどが入るのだろう。棺桶を持ちながら葬儀屋が踊ったりしたら尚良いのだろうが、死んだ後のことなので詳細はわからない。

 この段階に来るとM6で見られたようなテンションの上げ方から、さらにナイーブさが失われてくる。エスニック兼レトロ風味、ミニマルな構成の洗練されたダンス・ミュージックは、一定の役割へと身を固め、職人のようにその役割を果たす主体の安定化を象徴しているかのように思われる。しかも、安定しているのに「踊って」いるという皮肉も露呈させながら。

 歌詞は曲調のイメージとほぼ合致していると思うので、説明は割愛する。

 

 

M8:『めくれたオレンジ』/東京スカパラダイスオーケストラ

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 この辺りになってくると、主体が繰り返し享受しているものの「終わり」の匂いが漂ってくる。生者の場合は「死」がそれこそそれに当たるだろう。ややおっさん臭い曲で、酒・タバコなどで薄汚れた30-40台の人間が想起されるだろうか(あえておっさん、と呼ばなかったのは、そこに含まれる男性性のステレオタイプに細やかに抵抗するためである)。その人を突き動かしているのはここでも、冷徹な自己分析に基づいた自己陶酔なのである。

 M6-7のダンス的なモチーフはやや変化し、「スカ」による「セッション」へとその音楽スタンスを変えていく。時間帯は夜かもしれないし、あるいは明け方かもしれない。

 似たような曲に岡村靖幸の『OUT OF BLUE』などがあるが、『めくれたオレンジ』の方がだいぶこなれた印象を与える。岡村靖幸の方をこの位置に持ってくるのも「アリ」かと思ったが、曲数が多くなりすぎると思ったのでプレイリストからは外した。

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 ここでも選曲時に歌詞のことはあまり考えられていないが、以下の英語部分の歌詞が少し関連しているようにも思える。相当前向きで「思考停止」を忌避するかのようなことを歌っておきながら、実態は現状維持を受け入れただ人生に酔いしれているだけのような怠惰な中年時代が目に浮かぶ(このブログを書いている時私はまだ20台中盤だが、早くもそんな雰囲気に飲まれてしまっているのではないかとすら思う)。さらにその人は「酔いしれている」ことを自覚していることにすら酔いしれてしまっているので、もう救いようがないのである。ちなみに個人的に歌詞のこの部分は、あまり「いい英語」を使っていないと思う。

Bring back your lonliness and stand up! fight again!

Drive your soul foever/ burn out your lazy days

Break out your lonliness and throw your orange peel

Don't be scared! come on! go for your Brand-new days

 

M9:『幸福な朝食 退屈な夕食』/斉藤和義

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 M8のような「から騒ぎ」を繰り返すうちに、主体はふと落ち着いてくるだろう。だんだんとエネルギーがなくなり、意味どころか運動性すら失われてくる。死者の場合はいわば肉がなくなり骨へと変化していく時期であり、生者の場合は日常の記号の量と質と内容が一定になって、全てが飽和していく時期に当たるだろう。

 自らの「頭の悪さ」への自覚はいよいよピークを迎え、何も変わらない状況と何も変えられない自分の無能さ「だけ」に主体は貫かれる。一方で主体を取り巻く環境は主体になじみすぎているので、赤子が握るボロボロの布きれのように心地よいものとして主体を包み込む。どうせこの快楽の中に我々は溺れていってしまうのだ

 前半記事を思い出してもらいたい。あれほど自分の外部にあって、理不尽に自分を切り取ってきた諸ルールが、今や自分が愛着を持って縋ってしまうところのものへと変わってしまったのだ。M4(Virtual Insanity)で見られたような、規範を批判する知性を渇望する主体は、そこには見る影もない。もう自分からこの規範を切り離すことはできない。そしてこの癒着は将来も続いていく。「今歩いているこの道は、いつか懐かしくなって」しまうのだ。

どうもご無沙汰おやすみまたねそれじゃまたねそのうちまたね

今歩いているこの道はいつか懐かしくなるだろう 

今歩いているこの道がいつか懐かしくなればいい

偶然と必然 キャッチする努力 丈夫な肉体 シワの足りない脳みそひとつ 

 

 

M10:『風よ』/藤井風

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 骨のような虚しい枠組みも「終わり」に直面して、いよいよ粉々になって風に飛ばされ、どこかへ消えていくことになる。いよいよ我々は陳腐で甘美な人生を全面的に許容する。「何らか」を「何らか」のまま、いわばブラックボックスにしたまま次世代のために挫折する。まるでそのような「絆」の発想が「素直さ」であったかのような欺瞞的な振る舞いをも自分に許しつつ。

 この曲はM9と雰囲気をガラッと変えているように見せながら、実はM9と調が同じ(多分)なのである。M9を流している最中にM10に切り替えてみるとわかるだろう。それもあって、M9の後にこの曲を接続するのが自然であると思い、選曲した。ジャズのベースに演歌的な歌唱方法が乗り、2000年代が好む情緒(特に平井堅的なところもある)も相まって、この曲の内容通り、様々な年齢層に受け入れやすいフィナーレを飾れたら良いと思っている。

全部風が連れてゆく あるべき場所へ

吹き荒れて 流れ流れ

今はもうこんなところ

飛ばされて ゆらり揺られ

ふと思う ここはどこ

 

 

M11:『天国へようこそ』/東京事変

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 カーテンコールを飾るのはまさかのM1と同じ曲。だがこの曲はM1と異なり英語で綴られており、曲調もかなり違う。や戯画性・皮肉が込められたブルース的なメロディは何を風刺し、言祝いでいるのか?

 それはおそらく、次のような皮肉と愛である。我々は死を劇化するためにこの葬儀を執り行い、わざわざ『天国へようこそ』という曲まで流した。だが結局このプレイリストは生前に考えられたものであり、生者のメタファーを使ってしか死後の世界を想像することができない。この曲はそのような有限性、すなわち「生きていること」への批判的祝福である。

 この曲を最後に流すことによって、死者になった私は「生前にこしらえた仕組み」を用いて生者を突き放す。結局自分が死ぬからには、多少後味が悪くなったとしても、生者と「縁が切れている」ことを明確化させて、きちんと二つの世界を区別しなければならない。生きている人々は、自分と縁を切ることで、それまでの11曲で表されたような人生を続けることができるのであるし、生きる者にはその責務がある。この曲を選んだのはそのような「拒絶」と「餞」の二面性を表現し、葬儀を締め括るためである。

 Youtube版はかなりライブの脚色がついているので、アルバムに収録されたSpotify版と同じものを使う予定である。

Don't talk to me
I'm gonna suck and drink your life right from you
No life in me
I've got no time for changeless things and useless things

 

 

終わりに

 以上で葬式のプレイリストの紹介を終わります。自分が死ぬときのプレイリストを作るだけで、「いざ死んだときには誰かがこれを流してくれるだろう」という安心感を得ることができました。しばらくはまだ生きているつもりですが。

 最後に、以下に今回作ったプレイリストのSpotifyリンクを貼ろうと思ったのですが、どうも実名がバレてしまうようなのでやめておきます。申し訳ありませんが、これまで貼り付けたリンクから楽しんでいただけますと幸いです。

 

ひょんたの「葬式プレイリスト」(前半)

 とあるブログ記事に触発され、私も「葬式プレイリスト」なるものを作ってみようと思いました。実際やってみて思ったのですが、「葬式」の概念を演出的に一貫させるのは非常に難しく、ともすれば「生前好きだった曲の寄せ集め」になってしまいがちという危険性を感じました。というか、実際私が作ったものも、その域を出ていないと思います。まだまだ修行が足りませんね…。

 私は自分の結婚式披露宴などに際しても自分で選曲をしたりしたのですが、それと比べて「葬式」を取り扱う時は、「相手方」や「客」の存在設定が曖昧なままプランをしなければならないという点に気づきました。葬式のBGMプランというものは、ある種思弁的に空間を作らねばならず、総じて難易度が高い企画だと思いました。そもそも死がどういうものかも自分はよくわかっていないのだから…。

 さて、御託をグダグダ並べるのもアレですし、こういうのは「実践あるのみ」なので、さっさと1曲ずつ紹介していきたいと思います。プレイリストは現段階の案の一つであり、今後新しいものを作っていくかもしれません。

 

【備考】

  • M0〜M11というように、「M+番号」で曲順と内容を識別する
  • 前半ではM0〜5、後半ではM6〜11を紹介する
  • 各セクションの冒頭にYoutubeまたはSpotify音源リンクを貼る
  • 各セクションの文章欄で曲を選んだ演出上の理由と意図を端的に説明する

 

M0:『天国へようこそ』/東京事変

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 開演時は、いきなり「そんな曲流していいの!?」というような曲から流したい。これみよがしなタイトルに加え、蠱惑的な「怪しさ/妖しさ」を伴う曲調。これらの要素によって、葬儀における「死の唐突さ」と「エンタメ性」という二面性を表現したい。それをもって参列者の葬儀自体への「白けた」メタ視点をぶち壊していくことを狙いとしている。

 葬列者が味わうのは「死体処理の事務」兼「悲しい別れ」ではない(自分が悲しんでもらえるような人間かは知らぬ)。そうであるべきではない、と少なくとも私は考える。葬儀は冠婚葬祭の3つ目の段階にすぎず、詰まるところ一つの共有されたエンタメである。それは一方で文化...もっと言えば言語の構造と不可分であり、他方でかつ生の一つの「リミット」に当たるものである。そんなイベントは、そう多く経験できるようなものではないはずだ。

 仏教またはキリスト教のフレーバーによって彩られた(ともすれば宗教的な共感覚に転落しまいそうな)、端的にワクワクするような、期待されるべき舞台としてこの葬儀を受容してほしい...参列者=観客に向けたメッセージがあるとすれば、せいぜいそのくらいのものだろう。

 私はあまり音楽の歌詞に執着を持たないのだが、筋を通すためにも一箇所引用しておこう。他人事のままこちらの死体を見つめる「生きている人」の余裕を皮肉ってしまうことにする。そうすることで、彼らの予想とは別の形でこちらの「死」に「生きる者たち」を巻き込んでいきたい。だからこそ「天国へようこそ」というわけなのだ。

言葉を手にした我等は 果たして青き賢者か

それなら浮世は定めし とるに足らぬ事だろう

 

 

M1:『RIO』/坂本龍一

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 二曲目は坂本龍一のインストである。歌詞はないので文脈を形成しやすい。「徐々に厚みを増していく重厚な構造」を想像させる曲調は、「突然訪れる無慈悲な運命」を象徴していると言えるかもしれない。さらに最初に聞こえる水の音は、三途の川の音かもしれない。あるいはさらに、「死の神秘」みたいなものへ昇華させることもできるかもしれない。だが、私はもう少し禁欲的な選曲方法をとっている。

 この曲はどちらかというと「象徴体系の象徴」と呼ばれるべきかもしれない、と私は考える。どういうことか。

 我々は生まれてから言語という理不尽な体系に組みこまれる。身体の外にある体系は、その外部性により我々の身体をいじめ、切り抜くことで、我々のイメージの中に一つの鏡像を作り上げる。身体の放棄とイメージの獲得、後者へのあくなき同一化は、理不尽な言語体系による「去勢」なしには成立し得ない。この曲はラカン精神分析の言語=無意識=システム=構造性を示唆するような唐突さ・冷たさ・巨大さを連想させるのだ。

 同様に、死体になった私は、これから死後の世界という未知の象徴体系に足を突っ込むことになる。それはプレイリストのプランナーである自分が、死後の世界を具体的にデザインしているということを指し示すわけではない。むしろ逆に、我々が「生きている世界」しか知らないからこそ、「死」は圧倒的な理不尽を誇るプロトコルとして我々の前に立ちはだかるのである。死は思弁的にしか理解することができない。それに従って我々の主観的な精神性や意味がどのように変化していくか、誰も予測できない(それを人々は消失と呼ぶのだが、消失がなんなのか結局何もわかっていないのだ)。死の前では我々は絶対的に「赤子」であり、死はなんらかの形で、我々が生きている限り未知のものを教えてくれる可能性がある。

 ここから先は、そのように「生者」「死者」両面のメタファーによって葬儀の曲を選んでいくことになる。

 

M2:『Diamond Dust』/Jeff Beck

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 世界三代ギタリストの一人、Jeff Beckの曲。8分にもおよぶ長さで、構造はややM1と似ているかもしれない。しかしそこにはM1にはない、どことなくナイーブなニュアンスが聴き取れるだろう。

 M1で言及したように、生者または死者は、プロトコルの理不尽さにその身体を切り取られながら、一つの主体になっていく。だが切り取られる直前、我々はいろいろなものに癒着しており、自と他の区別がつかない「寸断された身体」として存在する。そこから「自分の像」を求めて彷徨い始める時の「孤独」を想像して、私はこの曲を選んだ。

 例えば(何かを例える場合、それはすでに生者の論理を用いて例え話をするしかないことに留意しよう)赤子は、親が発する「謎の音」を辿り、意味もわからず意味なるものを獲得していく。でもその謎の音が自分に全く根ざしておらず、自分の根拠のはずだった母親やミルクとの区別をひたすら刻み込んでいく。、そういう「刻み込み」のプロセスがあるからこそ、徐々に「自分」をイメージできるようになっていくのである。そこまでの果てしない不安は、大人の我々が今や想像できなくなったものであるに違いない。そして死という理不尽に直面した場合、きっとそのような「砂漠のなかを探索するような」プロセスが死後の我々の時間に組み込まれるかもしれない。この曲は、そのような「荒廃した道」としての時間のイメージに合っていると思い、選曲の対象となった。

 この曲は私にとって、生きて人間になっていく時と、死んで死体になっていく時の不安・孤独を同時に表現してくれるものなのだ。

 

M3:『祈りの季節』/岡村靖幸

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 ここから徐々に「生者」を象徴する曲の志向へと選曲ポリシーがすり替わっていく(これは単純に自分の頭のスペックが足りず、「死について考えようとするうちに生者側の理論を使わざるを得ないこと」より先に進めなかったからです。ここはまさに自分の修行不足を露呈する箇所であるとは思う)。歌詞がついているというのも重要で、直前2曲とは異なり、すでに「言語を使用可能な主体」のことを想定している。

 中学生ぐらいの頃を思い出してほしい。言語をそれなりに獲得し、なんとか「意思疎通の真似事」みたいなことをできるようになっても、結局我々は「孤独」でしかなかったことを思い出してほしい。主観の檻に閉じ込められ、自分の見たまま・感じたままのことは言葉でどうしても言い尽くすことができな。誰にも伝わらないし、誰にも理解されない。周りに他人がたくさんいても、誰にも頼れない孤独。それはM2の段階で捨てたはずの「身体」の名残だと私は考えている。失われたはずの安心を取り戻そうとしても、絶対に満たされない…そのようなものこそ、「欲望」なるものの構造である。

 必ずしも良い意味ではない「アドレセンス」の内部で、狭い視野でナイーブに悩む自我構造を象徴するために、あえて卑近で子供っぽい疑問を切実に歌った曲を選んでみた。

眠れない夜はきっと 神様が君にメッセージしてる

眠れないんだ僕はずっと だって君はもう僕のもんじゃない

 

幾千の童話の業の深い輩と僕らは似ている

負けん気のスピリットが僕らの取り柄のはずだったんじゃないの?

もうこのまんまじゃマズイぜ もう、もう、もう

 

M4:『World Citizen』/坂本龍一David Sylvian

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 坂本龍一が関わる曲目が再び出てきたのだが、この曲はDavid Sylvianの歌唱がついているという点でM2とも大きく異なるだろう。冷静で客観的なイメージが流れてゆくこの曲を選んだ理由は、「精神の発達」や「理性」のメタファーとして、である(なおこれはメタファーにすぎず、私は「精神は発達する」などと思っていない)。

 生きているうちに人は、自分のナイーブさに引きこもっていられないような衝撃的な危機に出会う。それは言葉や意味をやりくりするだけではどうしようもないような出来事であり、例えばたくさんの人が亡くなったり怪我をしたり病気になったりといったような、具体的な帰結を伴う。そこから、言語は単なる不条理な構造のみであることをやめ、徐々に危機に立ち向かうツールとしての意味をも帯びてくるようになる。ある種の啓蒙のプロセスとでも形容されるべきだろうか。

 この曲は2003年、坂本龍一らが9.11テロに衝撃を受けて作った曲らしいが、当時その恐ろしさを理解するには私はあまりに幼かった。だが現在の私は、昨今のポピュリズムネオリベラリズムの急速な蔓延などといった社会的情勢にも、すでにこの曲が示唆するようなカタストロフィを予感している。利害による殺戮、集団の力学による悲劇は遠からず繰り返され、歴史に記されていく。そのような「現実」に対して我々が頼ることのできるものは、結局「言葉」しかないのである。

It’s not safe
All the yellow birds are sleeping
Cos the air’s not fit for breathing
It’s not safe

 

M5:『Virtual Insanity』/Jamiroquai

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 言わずと知れたJamiroquaiの名曲。私は中学時代から10年以上ずっとこの曲を聴いており、だからこそこの曲は間違いなく「私の一番好きな曲」のリストに入るだろう。「思い入れ」的なものからは距離をある程度取りたいと思いつつも、この曲は葬式プレイリストにも入れざるを得ない。

 この曲はM4のような途方もない状況を知った後、立ち直り、もう一度「魂」を込めて言葉を使い、何かを考え始める…そのような「主体の円熟期」を示唆している。この曲の切迫した歌詞に対してはこれまで、「近未来SF」「遺伝子操作」などの方向から様々な考察がなされてきた。だが、そのような具体性に回収されないような「疎外」への根源的な不安と、それへのストレートな回答こそを、この曲は試みようとしていると私は考えている。

 曲調は、ピアノを主軸としつつも拍の強いパーカッションやオーケストラによる盛り上げに彩られ、何らかの「ジャンル」に容易に嵌め込めないような複雑さを呈するように思われる。かなり有名な曲のため、曲調に関してはもはやこれ以上言及するまでもないと思うので、以下では、このプレイリストで筋を通すための歌詞の考察を試みる。

 この曲の和訳を何パターンか見てきたが、納得のいくものはひとつも見つからなかった。ひとえにはそれは、抽象的なものを抽象的なまま扱おうとせず、なんらかの具体的なイメージに落とし込もうとする訳者の傾向によると思われる。

 Virtualという言葉は多義的である。この語の一つの側面は「仮想の」というニュアンスであり、現実から離れた想像上のものであるという意味合いをはらむ。だがもう一方でこの語は「実質的な」という意味を持つ。それは本質や事実性を掴み取る語でもあるのだ。なので、この語は存在自体が矛盾していると言われる。だが、現実と仮想の区別など、いったい誰にできようか?...これは言語を扱う我々の根源的な問いであり、Jamiroquaiはこの問い自体を糾弾しているわけではない、と私は考える。

 重要なのは以下のことである。すなわち、現実と仮想の間に横たわる「曖昧さ・両義性・不条理」それ自体ではなく、「既存の世の中の構造に従って不条理をそのまま暴れさせてしまう」ことこそがInsanityと呼ばれるべきなのである。有り体に言えば、搾取する側は、搾取される側よりもずっと、世の中がどのような構造でできているか思考しないままに、昔から続いている搾取の構造を言語的・身体的に確定させていくということである。

 では私が正確に歌詞を訳せるかと言われれば、きっとそうではないだろう。それくらい難しい曲なのだ。だが批判のリスクを背負いながらも、上記の考察をベースに、僭越ながら自分が訳したものを置いておく。

And I'm giving all my love to this world only to be told

I can't see I can't breathe

No more will we be

And nothing's going to change the way we live

Cos' we can always take but never give

And now that things are changing for the worse, See

Whoa, It's a crazy world we're living in

And I just can't see that half of us immersed in sin is all we have to give these

(ひょんた訳) 

そうして僕はこの世に、ただ言われた通り「愛」を捧げているわけだ

何も見えないし息も出来ないし、

かといって我々の状況が改善するわけでもなかろう

そして我々の「生」のあり方を変えるものも何もない

というのも、人というものはTakeするばかりでGive出来ないものだから

物事は全部、悪い方向に向かっているわけだから...見てみろよ、

ああこの世の中は狂っている!

何より納得できないのは、我々がGiveしなければならない相手が、人類の半数を占める(Takeばかりしている)罪深い連中だということだ

 

------------------------------------------

 

Futures made of virtual insanity now

Always seem to, be govern'd by this love we have

For useless, twisting, our new technology

Oh, now there is no sound

for we all live underground

(ひょんた訳)

「虚像的事実性」という狂気で形作られた未来はいつも、

我々のこの「愛」で制御されているかのように見える

その「愛」というのは結局のところ、我々のくだらない小手先の「技術」に捧げられているのだ

ああ、何も聞こえない

我々は地下に住んでいるようなものなのだから

 「作者はきっとフーコーの権力論とかを読んでこの曲を書いたのだろうな」と妄想をしていたら、実は「旅行先の札幌の地下街を歩いていたら偶然思いつき、作者がホテルの部屋で一時間で書き上げた曲」だったということが判明したときには、私は流石にがっかりしたものだ。

 

 ああこの世の中は狂っている!

 

M5.5:『天国へようこそ Tokyo Bay Ver.』/東京事変

 (2020/11/15追記) 中座曲が欲しくなったので、プレイリストのど真ん中に一曲足してみました。トイレ休憩とかに使えそうですね。実際の葬式には中座という制度はないらしいですが。

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…後半へ続く!!!

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「観察以前のモノ」はどこにあるか(1)

言い訳と前提

 約1ヶ月ほど筆を休めていたが、その間も私はある種の予防線を維持していた。それは「まあ書けなくても仕方ないし、無理に書くべきではないよな」というものである。というのも、8月に自分が執筆した記事を見て、その質の低下の著しさに困惑していたからである。したがって私は、「何を書くか」を真剣に考える期間を作り、「すぐに何かを書いてしまうこと」への禁欲を実施していた。とはいえ労働の日常で忙しかったので、本来の目的であるところの「熟考」すら満足にできなかったのであるが...。

 では、それはどのような「質の低下」か。私が見出したのは、「記事を書くことがただの個人的な憂さ晴らしになってしまった」、という品質低下現象である。読者にかろうじて読んでもらうためにも、私は盛んに「卑近な例」を用いて問題意識を説明しようとしていた。だがいつの間にか手段と目的が逆転し、卑近な現実を任意にピックアップして、「偉い哲学者」の枠組みに紐付けて昇華し、自分に対する納得を誘うような、「記事として卑近」な記事が量産されてしまったように思えたのである。そのような記事は、飲み会の雑談程度のものであり、そういうことを喋りたいのであれば、オンラインでのお喋りのハードルが下がっている昨今であれば、誰かを誘って通話でもすれば良いのである。

 そもそも自分は普段、生活の諸タスクに還元されないようなレベル感において何を考えているのか。というより現在、そもそも自分は何かを「考える」ことができているのか。そのような危機意識から始まった禁欲期間で、実際になんらかの思考を取り戻せたかどうかはわからない。もっといえば、生まれてこの方四半世紀以上、自分は一度たりとも何かを考えたことがあるのかということすらわからない。記事の質だって、元々この程度のものだったのかもしれない。過去の自分を神聖化することは、現在の自分に自信を持つよりも危うい行為であることが多い。

 とはいえ、しばらく時間を置いてみることで、自分の関心を少しだけパターン化することができたので、本記事では私が今後それを追うための、私向きのガイドラインを「手短に」作ろうと思う。コンセプト上、本記事は原則として一次文献を取り扱わず、二次文献の整理のみを作業対象とする。

 

論点の整理

 論点と言いつつも、これは私の「気になる点」を言語化したものに過ぎず、多少エビデンスを揃えつつも、その論証は不足している。触れる論点が多岐に渡るため、量もやや膨大となってしまった。その点でこの記事は「わがままで、独りよがりな出発点」である、ということを了承した上で読んでいただきたい。

 8月に入るまで、私は比較的(きちんと理解できたかは置いておいて、)色々な本を読んでいたというのは事実である。とりわけ私が関心を持ったのはジュリア・クリステヴァグレアム・ハーマンである。私が書いた記事のサンプルを以下においておく。

 

ジュリア・クリステヴァ関連記事

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グレアム・ハーマン関連記事

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 これらの思想家が依拠する立場はかなり異なっている。というより、ほぼ真逆と言っても過言ではないかもしれない。だが、彼らが依拠する「枠組み」はほぼ同じであるように私には感じられた。その枠組みを整理していく作業は概ね本記事外で取り扱うことにするが、その枠組みを「私が」要請するバックグラウンドをここで説明することはできるだろう。以下、再び「卑近」で一般的な例にお付き合いいただきたい。

 我々は自分や他人、自分以外のモノを理解したり、了解したり、把握したりすることができるのだろうか。論理的には、A「自らを知ること」とB「他(者)を知ること」の組み合わせ関係は、極めて大雑把に、4通りに分けられる。

  1. AもBもできる
  2. AもBもできない
  3. AはできるがBはできない
  4. AはできないがBはできる

 ちなみにBにおける「他」は人でも物(モノ)でも良い。人であるか物(モノ)であるかが重要な立場の分岐をもたらすにはもたらすのであるが、差し当たりその区別は控えておこう。であれば、現時点では「自分ではないものとされるもの」と定義できよう。自分とは何かという問題は、それはそれで宙吊りにされなければならないが。

 閑話休題。近代以降、厳密にはカントの「物自体」の発想の浸透以降、ほぼ全ての人間は、#3 の立場にいると考えられる。まれに#2 の立場を取る人を見かけても、その主張は#3 の延長であることが多い(「相対的に他人より自分の方が理解しやすい」という考えに依拠した発言によって、多くの懐疑的言説はできているだろう)。

 またヘーゲルなどは#1 の立場をとっているようにも見えることがあるが、仮にそれが#1 だとしても#3 に近い#1 であり、#4 からは程遠いと考えられる。詳しくはレヴィナスの記事でのヘーゲルの項目を参照されたい。そもそも私は#4 に属するような立場をほとんど見たことがない...(無勉強なだけかもしれないが)。ただ、「頑張れば」、ヘーゲル#4寄りの#1であると読めなくもないような気がするので、この点は一旦保留にしておこう。
 人間にとって一般的に、他を知ることは難しいのだ。「物自体」の議論やそれ以前の「普遍論争」は、Bの困難性を示しており、その主な原因はBのAへの不可避の依存という「観察者問題」にある。

 さて、③クリステヴァや、彼女が依拠するラカン精神分析なども、④ハーマンや彼が依拠する②現象学(フッサール)ハイデガーなども、さらにラカンフッサールの大元とも呼べる①カントも、全て#3 の立場であると私は考える(ここでは、次の話の流れをわかりやすくするために時系列で番号を振った)。厳密には、「少なくとも①~④の立場は互いをそのようなもの(#3 の立場を取るもの)だと思っている」と私は考えている。

 これは相当思い切った発言であるが、それぞれの立場への私の現時点での理解を順に述べていこう(これが間違っていたり破綻していると良くないので、この仮説が破壊されるのではないかというアンテナを張りながら諸文献を読むように心がけている)。尚、その論証には時間がかかるかもしれないので、必要に応じて別の記事で実施する(かもしれない)。

 まずは、少しずつエビデンスを揃えながら、#3の立場として読んだ場合の①〜④相互の関係を捉えていこう。以下がその組み合わせの列挙と要約である。

  • ①&②〜④共通: カントが提出した物自体という大前提は、上記全ての立場の土台となった
  • ①&②: カントの超越論は、フッサールの「還元」的態度を要請した
  • ①&③: 精神分析は超越論のもう一つの後継者である
  • ①&④: ハーマンはカントの「物自体」を評価し、実在論の再興を目指した
  • ②&③: 現象学精神分析は、超越論哲学の後継者として、異なるアプローチでアプリオリを解明せんとした
  • ②&④: ハーマンはフッサールの概念を独自に読み直すことで、相関主義的傾向に対抗した
  • ③&④(未着手、別の機会で取り扱う)

 

①&②〜④共通: カントが提出した物自体という大前提は、上記全ての立場の土台となった

 カントは認識の一切が、経験に由来するわけではないと想定した。そのため「経験に先立つ」「経験を可能にする」領域、すなわちアプリオリを探究する立場を取るとされており、その見方を「超越論」と呼ぶ。その立場と不可分なのが、物自体という想定である。「経験の条件と経験の対象の条件とが一致する以上、経験を超えている対象についてはどのような認識も成立しない。物自体は経験不可能であり、したがってまた、どのような認識もありえない。旧来の形而上学が理性の対象として考えてきた事柄の全てから、その根拠が奪い取られる」(熊野純彦西洋哲学史』P137)。

 カントの態度はまさに#3の立場そのものであると考えられるが、それは②〜④全ての土台となっている。後に詳しく述べるが、以下はその要約だ。

  • フッサールはカントの問題意識を引き継ぐ
  • クリステヴァフロイトラカン精神分析にその理論の基礎的な部分を依拠させている。ラカンの構図とカントの構図・問題意識の共通性はしばしば指摘される
  • ④ハーマンはカントの物自体という発想をもっぱら称賛し、カントを含むカント以降の関係主義を批判する

参考資料:

 

①&②: カントのアプリオリは、フッサールの「還元」的態度を要請した

 我々からは不可視な「物自体」の世界が実際に存在するかどうかという不毛な議論は、学の基礎づけという目標を遠ざける。諸学が学として成り立つには、確実なものに依拠するほかない。そこでフッサールは、エポケー(判断中止)という態度を提出する。それは人間の認識から独立して存在する世界に対する定立を「カッコに入れ」るような態度だ。人間の認識作用を「自分のこと」、独立して存在する世界を「他なるもの」であると仮定すれば、フッサールもまた#3の立場に、カントと同じような意味で依拠していると考えられる。

 客観性には「超越」が伴う。対象は意識を超越し、認識の客観性は、対象によって保証されるかに思われるからである。超越の意味を、したがってまた認識の客観性を問うためには、一旦この対象を、意識から超越するものの一切を「排除」しなければならない。現象学的還元という発想の、一つの原型である。...(中略)...

 人は普通、人間から独立した世界、意識を超越した対象の存在を自明なものと考えている。このような通常の態度をフッサールは「自然的態度」と呼び、そこに含まれる世界の自明視を「一般定立」と名付ける。世界が一箇の超越であり、その超越の意味が解明されるべきとするなら、つまり超越論的な態度が可能出なければならないとするならば、このような一般定立が宙吊りにされる必要がある。

(熊野純彦西洋哲学史』P233)

 フッサールの超越論はカントの超越論と問題意識を共にすると考えられる。

 「超越論的」と呼ばれるこの見方は、この述語そのものがカントからの借用であることからも推測されるように、カント哲学との出会いから開かれたものである。...(中略)...例えばフッサールがリアルな経験的意識に代わる<純粋意識>や<純粋自我>の概念に到達するについては、直接間接に<意識一般>についてのカントの思想に影響されたことは否定できまい。あるいはまた現象学の中心的テーマである構成の問題も、カントの構成概念についての批判的研究なしでは、少なくとも現在我々が知っているような形では、展開されなかったであろう。

(立松弘孝 編『フッサール・セレクション』)

参考資料:

 

①&③(vs②): 精神分析は超越論のもう一つの後継者である

 フロイトフッサールと異なり、語る主体・聞く主体たる超越論的エゴの確実性を揺さぶる。そこで探求のフィールドとなるのは無意識の領域であるのは周知の通りである。

 とはいえ、精神分析は以下のような観点からカントの超越論哲学の後継と考えられる。それは#3の立場を丸ごと擁護するものである。言い換えれば、#3のような立場こそ、超越論哲学と呼ばれるのだ。

 フロイトは治療を目的とした作業仮説から踏み込んで「メタ心理学」と呼ばれる理論的な体系を構築しようとしていた。...(中略)...このようなフロイトの議論は、精神分析的な臨床の経験に基づいて構成されるものではない。意識されない領域の事項をなんらかの経験として積み重ねるためには、それを把握するための概念枠が必要となる。フロイトが誠実な自己批判に従って語るように、「メタ心理学」という「基本概念」を持つことで初めて、無意識的な現象を把握できるのである。...(中略)...

 「メタ心理学」は一つの「思弁」であり、臨床的な観察だけから導き出されるものではない。それはむしろ、精神分析的な経験を記述するための条件として、超越論的に要請されるものと考えられる。カントがいうように、経験が経験として成立するための条件を語ることが超越論的な哲学の課題だとすれば、フロイトの「メタ心理学」はその哲学的課題を引き受けていると考えられる。

(荒谷大輔ラカンの哲学』P13)

 ラカンの想定する「現実界」もカントに非常によく似た構図であり、同じく超越論的に要請される概念である。

 ラカンは、人間の精神活動を次のように三つの次元で説明した - イメージの次元=想像界、言語の次元=象徴界、そしてその二つから到達できない外部=現実界という三つである。...(中略)...事物にイメージと言語の網をどうかけても、こぼれる何かが残り続ける。現実界とは、無限に意味を引き起こし続ける意味の彼岸=<意味がある無意味>である。

 ところで、以上の構図は、カントの超越論哲学によく似ている。カントの言葉で言えば、我々が認識しているのは「現象」であり、その外部に、不可知の物自体がある。ラカン現実界は、おおよそカントの物自体に相当する。カントは、真の実在について語ることを禁止し、哲学とは人間がいかなる方式で物事を記述しているのかの分析であるという再定義を行った。それが超越論哲学=近代哲学である。フロイト以降の精神分析は、そこに「性」の次元を導入し、無意識を持つ主体がいかに事物を性的に思考するのかを問題とする。

(千葉雅也『意味がない無意味』P14〜15)

 クリステヴァによる探求も、フロイトラカンの構図がベースとなっている。ラカンクリステヴァも、対象を定立する超越論的エゴそのものの作用ではなく、そのようなエゴの発生過程を問う。ラカンが依拠したのはフロイトのエディプスコンプレックスの言語論的な読み直しと、鏡像段階という想定である。それらを通じて人間が象徴秩序に参入していく過程をモデル化しようとする。

 クリステヴァはさらにそこから遡り、超越論的エゴが発生するにあるカオスな場を見つめようとする。統辞ルールを逸脱・撹乱するような詩的言語の領域に、秩序をなすものの綻びを見出し、諸秩序が本質的に依拠する反-秩序的なものを探していく。

 その過程で、彼女はアブジェクト・アブジェクシオンの概念に出会う。アブジェクトとは、いまだ「対象」として認識されることのない曖昧な存在で、主観的には「おぞましいもの、嫌なもの」として体験される。しかし同時にそれは自らから切り離せず、絶えず自らがそこに戻っていってしまうようなものでもある。つまりアブジェクトは主体の成立以前の状態を喚起するようなものであり、こうした混沌・混乱としてのアブジェクトを「アブジェクシオン」=棄却することで主体は主体として成立する。

 主体は「主体と客体の区別が曖昧であるもの」(アブジェクト)を排除することで、象徴秩序に参入していく。しかしアブジェクトは一回きりの排除で人間から分離されるものではなく、秩序が秩序たる限り/秩序が秩序たるためにつねに我々に付き纏うものであり、かつ我々がつねにそこへと回帰してしまうようなものである。これは言語=秩序=聖なるものvs身体=カオス=汚れたものという単純な二項対立ではない。詳細は冒頭にリンクした記事を参照されたい。

参考資料:

 

①&④: ハーマンはカントの「物自体」を評価し、実在論の再興を目指した

 ハーマンは「モノは我々から絶対的に無関係なものであり、我々の預かり知らぬ余剰を抱えている」という考え方を持っている。その点でカントの「物自体」と同じ発想であり、本セクションの冒頭で述べた#3の立場=「AはできるがBはできない」に立脚する。にもかかわらず、ハーマンはその前提から真逆の結論を導く。すなわちハーマンが主張するのは、哲学は人間の預かり知らぬさまざまなモノ=真の実在を「思弁的」「形而上学」に考えるべきであるということである。

 具体的に見ていこう:

 オブジェクト指向哲学の重要な特徴は、知的生活には欠かせない要素であるが評判芳しからぬ物自体へのこだわりである。...(中略)...カントの刷新をただ一語に要約するとすれば、何より候補としてふさわしいのは間違いなく「物自体」だろう。過去の哲学が理性を通して直接にモノの真理に到達できるとして独断的(ドグマティック)であったのに対し、人間の認識は有限であり、実際にある通りのモノに至ることはできないとカントは主張した。...(中略)...人間は「現象」のみに直接的に接近し、ゆえに哲学は世界についての瞑想ではなく、人間が世界を理解する際に経由する有限な条件、空間や時間、悟性的範疇についての思考である。

(グレアム・ハーマン『非唯物論』P41)

 他ならぬこの「こだわり」によって、カント哲学がはらむ相関性をハーマンは批判する。以下の記事からの引用が、その状況を端的にまとめている。

 オブジェクト指向実在論Object-Oriented Ontology」(OOO)という別称がよく表しているように、これは実在論存在論である。認識論的な側面がないわけではない。しかし、認識論的な問題系は、存在論的な問題系によって包摂されているようだ

 非唯物論はある程度までカント的な措定をなぞる。対象であるモノがある、認識者は対象=モノにある程度までアクセスできる、しかしながら、十全なアクセスは不可能である、というように。

 カントの言う、現象(五感で認知可能なもの)と物自体Ding an sich(五感では認識不可能なもの)の二層性を、ハーマンはとりあえず受け入れている。しかし、カントがここから、認識不可能な物自体の探求を禁じ、認識可能な現象の方へのアプローチを試みるという戦略的選択を捻りだしたのにたいして、ハーマンは、物自体の把握の最終的な不可能性を受け入れながら、それにもかかわらず、物自体のほうに向かっていく。

(存在がなければ生成はない:グレアム・ハーマン、上野俊哉訳『非唯物論』(河出書房新社、2019) - うろたどな)

 

参考資料:

 

②&③: 現象学精神分析は、超越論哲学の後継者として、異なるアプローチでアプリオリを解明せんとした

 共に#3の立場、すなわち超越論哲学の後継者とされる両者は、想定やアプローチが決定的に違う。両者の共通の土台を示唆する研究こそあれど、それは両者の距離感(象徴的には、意識を対象とする現象学無意識を対象とする精神分析という対比)があまりに大きいが故の逆説的な要請だろう。私にそう感じさせた研究をいかに列挙しておくが、いずれにせよ両者を差し当たり区別しておくことに今のところ不便はないだろう。両者をつなぎ合わせることは人文学における至難の技・宿命の宿題でありながら、のちに私が述べる私の問題意識の解決にあまり貢献しないと考えられるため、両者の関係性の考察はペンディングとしておく。

 

参考資料: 

 

②&④: ハーマンはフッサールの概念を独自に読み直すことで、相関主義的傾向に対抗した

 ハーマンは『四方対象』という著作にて、フッサールを擁護・評価する。

 一方でハーマンはカントに対する場合と同じく、フッサールの前提から逆の結論を導き、超越論的エゴに相関する世界の外へと考察の対象を広げてゆく。

 両者の関係は、以下の研究計画からの引用に端的にまとめられていので、その説明に全面的に依拠したく思う。フッサール側からのハーマンへの反応を含め、その他の参考資料として私が挙げた諸文献も、同様の見解を抱いているので、詳しくはそちらを確認されたい。

 ハーマンの『四方対象』を読むと、オブジェクト指向存 在論はフッサール現象学ハイデガー現象学を土台にしていることが分かる。ハーマンは、 オブジェクトの構造を「感覚的対象」、「感覚的性質」、「実在的対象」、「実在的性質」と規定するが、いずれの概念も現象学に対するユニークな読解を通じて取り出されている。「感覚的対象」と「感覚的性質」は観察者にとって現われる対象性と性質を、「実在的対象」と「実在的性質」は観察者から独立して存在する対象性と性質を意味する。 ところが、ハーマンは現象学を評価しつつ、根底から批判してもいる。その要諦は、現象学はオブジェクトの重要な側面を描き出すことには成功したが、結局のところ、現象学観念論的枠組みにとどまるがゆえに、オブジェクトをオブジェクトそのものとして尊重することができない。つまり、現象学者はオブジェクトそれ自体を探究できない。ハーマンにしたがえば、意識体験の学である現象学では、人間の世界に閉じ込められてしまうのである。
(岩内章太郎『オブジェクト指向存在論と現象学の影響関係の研究』研究概要)

 

参考資料:

 

仮説・目的の提示

 ここで、やはり私の関心の対象であるの関係を、今後の記事で深堀りしていきたいと考えている。

 上記に見られるように、ハーマン的に見ると、クリステヴァにおける「対象」は全てエゴ(正確には、エゴを形成する作用)に依存しており、その発生源をエゴと共有している。後天的に自分と分かたれたものが対象であり、分かたれた後も絶対的に自己と関係している。であれば、クリステヴァは相関主義者、それもかなり極端な部類として考えられるだろう。方法論的に、ハーマンは真っ先にクリステヴァを否定しにかかるかもしれないし、方針が違いすぎて話にもならないかもしれない。その程度の断絶は想定したほうがよかろう。

 そう、確かに、対象と主体の関係という点で両者は「真逆」だ。だが、とりわけクリステヴァに関しては、超越論的主観の成立に先立って存在する「モノ」の次元を捉えようとする点でハーマンと関心を共有しているのではないか?と私は考えるのである。

 冒頭でリンクした記事で言及したが、クリステヴァが研究対象としたものは「アブジェクト」であり、それは主体と客体が未分化な状態を指す。彼女の考えによれば、主体(超越論的エゴ)客体(ノエマ)の区別に先立って存在するアブジェクトという領域に対して、人=「既に成立した主体(超越論的エゴ)」は「吐き気」をもって応答するほかない。それはひたすらな拒絶作用であり、関係の切断である。これこそ、人間の「モノ」性であり、人間の自身に対する「無関係」の契機である(ただし、彼女の考えでは「無関係」こそが「関係」を支えるのだ。その意味では無関係性は絶対的ではない)。

 一方で、ハーマンは、人間主体の取り扱いについて以下のように指南する。

 問題は、所与の状況から人間を差し引くsubstractこと/ ではなく、人間とはただ外部から注視する特権的な観察者というより、人間自身、ある共生における構成要素であるということなのだ。人間自身が対象であるということ、また人間は、自分がいる時間と場所の単なる産物であるのではなく、自分が直面するどんな境遇に対しても抗えば抗うほど、対象と同じように人間はより豊かに、また意義ある存在になるということ、我々はこうした点を忘れてはならない。

(グレアム・ハーマン『非唯物論』P41)

 その後ハーマンは東インド会社を例に取り、それを取り巻く「共生」を、「なるべく人間主観を特権化しないような形」で記述しようと試みる。

 だが相関主義を乗り換えるには、やや「難儀な」課題があると私は考えるのである。『非唯物論』内の東インド会社に関する考察において、ハーマンはいまだ「人の、自身に対する無関係」を問題にしていないと考えられるのだ。

 人自身や、自らを特権化する人の視点をも等しくオブジェクトへと変換するためには、以下のことが必要なのではないか。すなわち、

  • モノによって汲み尽されない「人自体」への我々の「引きこもり」を記述すること
  • 「人」の観点よって汲み尽くされない我々自身の「モノ」性を記述すること
  • さらに、両者の関係と無関係を把握すること

である。そして、この課題を解決するために行うべきは、クリステヴァの理論のような「相関主義的言説」の極を、オブジェクト指向哲学として読み直すことであると私は考える。

 次回以降の記事では、この問題意識へアプローチする何らかの調査を行いたい。まずはオブジェクト指向哲学と精神分析の関係を考察した先行研究を撫でることから始まるだろうか。いずれにせよ、そのような「未来の自分への無責任な期待」をもって、この記事を終えてしまうことにする。

 

飲み会から始める連続性・因果批判

はじめに

 初対面の人と話したり、数年ぶりに会う昔の友人と話しはじめたりする時の息苦しさって何なんでしょうね。飲み会とかでよくあるアレです。厳密には「息苦しさ」といよりは、申し訳なさ、肩身の狭さのようなもので、まるで自分が責められているかのような感覚のことを指します。

 それは、「居場所がない苦しみ」というより、むしろ「無根拠に存在している自分に居場所を提供してくれている人に対する罪悪感」のようなものでしょう。おそらく、多くの人がそのような感覚を抱いたことはあるのではないでしょうか。もちろん、論点が分裂し、分散し、様々な否定を媒介し、話題の解像度を向上させることを経て、徐々にそれが解消してくれることもあるにはあるのですが。それでも、何ごとも初めはつらいものです。

 

 例えば、「趣味は何ですか」「大学では何を勉強していたのですか」「どういう仕事をしているのですか」という質問が投げかけられた時を思い出しましょう。よくよく考えると、自分の中に趣味というカテゴリはないし、勉強の対象の領域などというものも存在しない。もっといえば、仕事なんてものも生活の便宜上行っているだけで、ただそのような名前が与えられているだけなのです。これらの虚無のカテゴリの中の諸要素には、たった今セットアップしたばかりのかりそめの連続性しか存在しない。しかし、それをプラカードのように掲げて、虚無の回答をしなければ、会話が成立しない。

 いや、もっとつらいのは、そのような居心地の悪さを覚える私自身が、他人に対しても、そのような虚無の回答を他人に強いるような時でしょう。結局は、そうでもしないと、話が続かない。掘り下げられない。だがよくよく考えてみると、他人にとって無益な私が、どの面下げて他人から何かを聞き出すことができるのか。私は人の話をまともに聞く能力すら備わっていないのに。

 

 「不透明な塊によって誰の力を借りずとも自分の喉が押しつぶされてしまう」感覚、に加えて「自らが不透明な塊で他人を追い詰めてしまう」感覚。この二つを合わせて、私は「コミュニケーションの地獄性」と呼んでいます。

 ここで誤解を避けるため一つ弁解をさせていただくのですが、必然的に地獄性を伴うコミュニケーションというものにおいても、それを通じて昔の友人や気の合う人と交流すること自体は私にとって非常にうれしいものです(初対面の人と喋るのは感情的にもかなり苦手ですが)。ただし、うれしいからと言ってそれが地獄でないとも限らないということです。地獄性にもかかわらずそのように交流が一定時間継続することへの感謝の念を考慮に入れれば、地獄性は友愛へのスパイスであり、逆もまた然りなのです。

 

フーコーの「連続性」批判

 これを多少本格的に考えてみるため、今回はフーコーの『知の考古学』の記述を読んでみましょう。といっても、ディスクール、言表、エピステーメーといった概念の使用の前段階の、「認識批判」的な基礎部分のみですが。かなり読みやすく、個人的には気に入っています(何様)。なお、ここからは面倒ですので、「ですます調」はやめることにする。

 まず、ネガティヴな作業から始めなければならない。すなわち、連続性のテーマを各々の仕方で多様化させている諸概念の一式から解放されなければならないということだ。それらの観念は、確かに、厳密な概念的構造を持ってはいない。しかし、それらの機能は明確である。例えば、伝統という概念。この観念は、相次いで生じる同一の(あるいは少なくとも類似の)諸集合に対し、特異な時間的地位を与えることを目指す。この観念は、歴史の分散を、同じものの形態において思考しなおすことを可能にする。*1

 これに加えて、フーコーは「影響」「精神」といった概念までさらりと否定してしまう。

 次に、影響という観念。この観念は、伝達およびコミュニケーションの事実に対し、一つの支えを ― あまりに魔術的であるために詳しく分析することが不可能であるような支えを ― 提供する。この観念は、類似ないし反復の現象を、因果性の外観を示すプロセスに関連付ける…(中略)…

 最後に、「心性」や「精神」といった観念。これらが可能にするのは、ある一つの同時的ないし継起的な諸現象の間に、意味の共通性、象徴的な結びつき、類似と反映の作用を打ち立てる打ち立てることである。

*2

 今や、職業趣味勉強の分野といったカテゴリが同じような機能を担っていることに言及するまでもないだろう。これらの言葉も、本来何のかかわりもない諸々の現象・印象・観念に不透明な連続性を与え、組織化する。ではフーコーはこれらの不透明な連続性を退けて、何をしようとしたのか。

 あらかじめ定められた連続性の諸形態、問題化されず当然のこととして価値づけられたままになっている以上のような総合の全てを、宙吊りにしておかなければならない。確かに、それらを決定的に拒絶するには及ばない。しかし、それらが受け入れられている際の平穏を揺さぶり、それらが自明なものではないということ、それらが常に、その諸規則を知って正当化を点検する必要のある一つの構築によってもたらされた効果であるということを、示す必要がある。

*3

 これらの方針を通してなされる、分散化された「言われたこと」の集合が構成する歴史の記述を、フーコーは「考古学」と名付ける。当然ながら、飲み会の場において、そのような考古学を初めから実践することはできない。だが、語りが「考古学的」になるにつれ、あるいは後日語りを「考古学的」に考え直すことで、私の精神は安寧を取り戻してゆくのである。

 

ヒュームの「因果」批判

 さて、上記のようなフーコーの思考回路は優れてヒューム的であるといえる。18世紀スコットランドの哲学者であるディヴィッド・ヒュームは、ドゥルーズによる再評価や昨今の「思弁実在論」ブームに伴い、21世紀に急速に人気を集め始めている。

 ヒュームといえば以下の記述が有名だろう。

 私の意図は、ただ偏えに私の主張する仮説の真理性を、即ち因果に関する全推理の由って来るところは習慣のみである、また、信念は人性の認識的部分の働きというより感情的部分の働きであるというべきである、という仮説の真理性を、読者に気づかせることにあるのである。

*4

 ただしこの部分を正確に読むには少し補足が必要である。ヒュームにおいて、「知覚」は「印象」と「観念」からなる(印象と観念を区別するのは、驚くべきことに、その「強さ」、「活力」だけである。印象は観念より強く、活力がある)。そしてヒュームは知覚されない「潜在的な力」のようなものをことごとく否定する(否定というよりは、探求の対象から除外すると言った方が適切かもしれない)。

 例えば、雷の光を見てから数秒後に音が鳴るといった現象について。これは自然の斉一性をつかさどる神々のパワーがそれを引き起こしているわけではない。ヒュームの考えでは、「ピカッ」という光と「ドン」という音が、過去に何度も何度も同時に隣接して起こっているだけで、次の「ピカッ」の後に「ドン」が来るとは限らないのだ。にもかかわらず、人は「ピカッ」(印象)を見るだけで「ドン」(観念)を予測してしまう。これを帰納の問題という。

 彼によれば、すべての因果関係は論証することができず、反復される過去の類似経験に基づいて形成された想像上の結合を、ただ私たちが因果と読んでるに過ぎない、ということなのだ。言い換えれば、因果の意味論を私たちの心の中に求めるべきであって、自然の方に求めるべきではないということだ(因果が存在しないと言っているわけではない)。

 ではこれら現象のセットに共通しているものは何か。それは「接近」(contiguity)「先行」(Priority)「恒常的随伴」(Constunt Conjunction)という三つの関係である。二つ以上の出来事が前後に連続して起こることが何度も繰り返されてしまうと、先に起きる出来事が次に起きる出来事を引き起こすと人は思い込む(信念を抱く)ようになる。それが人の「本性」(nature)なのだという。言い換えれば、因果推論とは論理的な判断ではなく、「信念」であるということだ。

 ただし繰り返すが、ヒュームは因果関係を否定する懐疑主義とは呼び難い。より細かい説明は以下の記事を参考とされたい。

www.l.u-tokyo.ac.jp

 

 ちなみにこの因果関係は人の「」という現象にも根本的な役割を果たす。すなわち人の心も、想像上の観念結合による「知覚の束」であると措定する。これはポストモダンの思想家にとっては、近代人間主体批判の大いなる先行者としての役割をヒュームが果たしたことを意味する。

 しかしここで注意すべきは以下の点である。

 心がひとたび現在印象によって生気づけられる時は、印象からそれと関係のある観念へ移る心的性向の自然的推移によって、心は、関係のある対象のさらに生気ある観念を造るようになるのである。そして、対象のこうした変化は甚だ容易であって、そのため、心はほとんど変化に気づかず、現在印象から得た勢いと活気の全部を以て関係のある観念を専心に思うのである。

*5

  因果関係は確かに想像的なものであるが、であるがゆえにその過程を反省することは難しい。私たちは理性を使って「判断」を下すのではなく、想像上の瞬間的な蓋然的観念結合によって、原因と結果なるものを心の中にたくわえる=「信念を抱く」のである。それも非常に避け難い形で。そのメカニズムを担っているのは、ヒュームによれば、現在印象から供給される「活力」(vivacity)である。活力(勢い)のある知覚であればあるほど、我々は信じることができるということだ。先ほども述べたように、知覚には印象と観念の二種類しかなく、両者を分け隔てるのは活力だけであった。そして再度強調すべきなのは、現在印象(=原因)から関係のある観念(=結果)への移行を仲介するのは心の中に現れた活力だけであり、それぞれの対象の中にある性質や力能ではないということである。

 「「知覚の束」や「習慣」にすぎない」という時の「すぎない」の部分には、注意を払う必要がある。「すぎない」からといって、それらは認識するだけで逃れられるような安易な罠ではない。我々の認識のベースとなる、根本的な非論理性なのである。

 なお、因果論と活力の関係に関する詳細は以下のPDFを参照されたい。

 

 さて、ここで一気に飲み会の話に戻ろう。ヒュームによれば観念同士の想像上の連合可能性は非常に多様である。であれば、(やや飛躍するが)「精神」「影響」と言ったヒュームの直接の批判対象だけでなく「仕事」や「分野」や「趣味」など、私たちが差し当たり利用しているあらゆる不透明なカテゴリに「習慣」的因果が判断の余地なく刷り込まれている可能性が高いのである。「労働者」であれば「仕事」があり、「仕事」の中には「タスク」があってしかるべき、というように…。働いている中で、そのような物事の階層関係と連続性があると、我々はいつの間にか思い込むようになるのだ。

 そして飲み会の中でとりあえずその言葉を使用するときの、その「とりあえず感」は、実際に仕事などをしている時よりもその「必然性」の感覚を薄める。なぜなら、ヒュームの枠組みに基づくならば、それは直接の経験から離れており、印象から供給される活力が不足しているため、「それっぽさ」を十分に伴わないものだからだ。であれば、飲み会のアイスブレイクにおける不透明な言語とそれがもたらす違和感は、必然性から距離を取るためのきっかけになるという点で、非常にラディカルな政治性を持つ。「今、どんな仕事をしているのか」と他人に聞くとき、我々は、「仕事とは何か」ということのコンセンサスを一切取らないし、仕事がなんであるかよくわからないまま質問しているのだ。その違和感は、会話の瞬間においては気持ちの悪いものであるが、後になって考えてみると飲み込めるようなものである。

 そして予想通り論点の詳細化・懐疑・分散によってその言語連合の必然性のなさが立証されることによって、我々は「連合が偶然的である」という新たな必然性を感じ取り、安心するようになるのである。それが「コミュニケーションの地獄性」を必然化する心の働きである。これが、私が感じた飲み会の「雰囲気」の分析に関するひとまずの仮説である。

 

終わりに(別に終わりませんが…)

 すっかり話がそれてしまいましたが、もともと話を一つのテーマにまとめるつもりは私にはありませんでした。なんなら、口調すら一貫していません。ブログが一貫した主張を構造的に述べるという先入観もまた習慣によるものなのでしょう。人はそのような都合の悪い理由づけを、習慣的に言い訳と呼びます。

 不透明な概念の息苦しさを哲学的な難題に接続しても、その息苦しさが消去できるわけでもありません。また、息苦しさが「コミュニケーションにおける必然性の欠如」にとって「必然」的であったとしても、それを安易に言祝いでいいわけでもありません。不透明な息苦しさは、ほかの何物でもなく、ただ不透明で息苦しい状態そのものであるからです。何かの利益に還元することもできません。

 

 でもこうしてとりあえずは物事の話がつながっていくのも、「~でもなければ、~でもない」といった判断の話法(それこそ非常に「フーコー的」な)を無限に連続させるこでようやく可能なのかもしれません。ここに来て初めて、私は何らかの肯定的な仮説を立てることができました。それがどれほど、恒常的隣接による想像上の因果関係に「すぎない」としても。

 

最後まで読んでくれてありがとうございました。そんな私をもっと根底からぶった斬るための記事は以下を読んでみてください。よろしければぜひ!

pyonta-hyonta.hatenablog.com

*1:知の考古学』P43-44

*2:知の考古学』P44-45

*3:知の考古学』P52

*4:人性論(二)』P11

*5:人性論(一)』P154-155

箸休め(あるいは明日も綺麗にならない部屋について)

1 - Room.toBeCleaned();

 屋を掃除する時、その部屋は少なくとも一回、余計に汚くなる。苔のむすごとく沈着した薄い埃も、無造作に積まれた本も書類も、褶曲され押し固められたモル状の組織から、分子状の暴徒へと化す。やはりこの混乱がなければ、新しい秩序は生まれないのだが、果たして我々はそもそも「秩序」を求めていたのだろうか。少なくとも、古い秩序に倦んでいたという言い訳はできるのだが、新しい秩序のためにこうも物事が台無しに散らばっていくのを目の当たりにすると、なんだかそのまま散らばったままでいてもいいのではないかという気がしてくる。そこで、何かを言祝ぐわけでもない、乾いた笑いがこみ上げてくるのだ。

 

2 - Class HelloWorld {String self = new Terrestrial();}

 歩をしたければ外に出なければならないという固定観念は、このコロナの時代には捨てねばなるまい。私のようなプロのCitizenになれば、家の中にいれば、どんな大冒険だってすることができる。なぜなら部屋のものを移動し、並べ、あるいは無視するだけで、分子が新たに関係し直すことができるからだ。

 さらに、家には窓という素晴らしいスクリーンがある。窓から見える様々なマンションに住んでいる人々の生活に思いを馳せると良い。あの黒い■の一つ一つに、人がそれぞれびっしりと住んでいる。そのことを考えすぎると、鳥肌が立ちすぎて気分が悪くなってしまうのでやめておく。だが少なくとも、全宇宙とまではいかなくても、私の家のリビングは、地球の全てとつながっている。それは地層と平原のどちらにも「向けられて」いるのだ。

 地層は神の裁きであり、地層化全般は、まさに神の審判の体制そのものなのである(だが大地あるいは、この器官なき身体は、どこまでもさばきを逃れて逃走し、地層化を脱して、脱コード化し、脱領土化し続ける)。*1

 前者、すなわち地層化というありがたくもあるが嘆かわしい出来事についてドゥルーズは以下のように述べる。

 神は巨大なロブスター、二重挟み、ダブル・バインドである。これは、地層が少なくとも二つ組になって形成されるだけでなく、それとは別に一つ一つの地層もまた二重になっている(各地層自体が複数の層から成る)からだ。事実、どんな地層にも二重分節を構成する現象が認められる。*2

 二重分節を本文に即して、簡単に整理しよう。

  1. 第一分節:「不安定な流れー粒子群から、分子状もしくは準分子状の準安定的単位(実質)を選び取り、または取り出し、これに結合と継起の一定の統計的秩序(形式)を課すもの」
  2. 第二分節:「緻密で機能的な安定した構造(形式)を配置して、モル状の複合物(実質)を構成するもの」

 その背景としての存在論に思いを馳せる。目に見えない「最小」の粒も、コースターでなんとなく作ってみたオブジェのようなものも、全て等しくイマージュである。イマージュは無限に広がらず、有限の切断を無数にその身に浴びて、繋がったり繋がらなかったりする中途半端さによって、映画のようなメディアとしてのぎこちなさを発揮する(ただしあらゆる関係は外在的であることにも留意すべきだ)。世界はグラフィックではなく、モンタージュであり続けるのだ。

 だがここでドゥルーズは、誤解を招かないよう注釈を加える。「明らかにこの二つの分節は、その一方が実質をにない、他方が形式をになうといった形で区別されるのではない」*3。分子状・モル状という区別も便宜的なものであり、常に「●●状」=「どちらかといえば」という傾向の問題に帰着される以上、その極が分離されて作用しているとみなすのは誤謬であろう。

 そしてふと我に返り、部屋の中には、埃と物と、自分の身体だけがあるのを発見するし、自分は地球とも、地球の誰とも、いや目の前の埃や物とも繋がっていないことを発見する。これほどにまで異邦人なのであれば、「いっそ、やっぱり外に出てみたい」と掌を返すのであった。

f:id:pyonta-hyonta:20200806153610j:plain

 

3 - helloworld.self.purge();

 人的なものに出会ってしまえば殺される。「会わな」ければ、どこへだって行ける。オンラインで人と会う場合は、相手の目を見なくてもいいし、カンペだって作れる。だから、居酒屋に行けるような時よりもよっぽど「どこへだって行ける」。

 今週もやはり何かを書かなければならない。そのためにブログを書いているのだから。だが、「その」の中身が分からなくなってきたのと、「ために」という機能も可知的でなくなってきたという問題がある。

 しかし、これはそもそも問題なのだろうか。やはりこの混乱がなければ、新しい秩序は生まれないのだが、果たして我々はそもそも「秩序」を求めていたのだろうか。少なくとも、古い秩序に倦んでいたという言い訳はできるのだが、新しい秩序のためにこうも物事が台無しに散らばっていくのを目の当たりにすると、なんだかそのまま散らばったままでいてもいいのではないかという気がしてくる。

 本来書くべき記事などない。強いていうとすれば、一番最初に書いた「あの記事」なのだが、あれはだからこそほとんど誰にも読まれることがなかった。私が言いたいことなど何もない。そんなものはないし、かつてあったためしもなかったのだ。

 物事が手許(てもと)でバラバラになっていく苦しみを、医者は「不安」と名付けた。だが不安というものはないし、かつてあったためしもないのだ。それは意味の宙吊りを利用した意味付与であり、クッションの綴じ目である。到来する「はずの」不在としての未来的な意味。とはいえ、そのように政治的なものであるからと言って、それは別に忌避すべきものでもない。政治は自分の中途半端さを真摯に引き受けることであり、超人と「接続されないという点において接続」されている。超人でないことに絶望せよ、名前は不安であろうが憂鬱であろうがなんでも良い。

 「素直」にものを書けば、人々のウケが良いことを知っている。人間態度の素朴主義化もまた一つの規範である。なぜならそれは、特権的な認識主体たる読み手に対し、「私が近代主観の檻に囚われており、あなたこそが客観である」と頭を垂れる行為であるからだ。幸せなら態度で示せということか。しかし、その権威と権威への服従がなければ、何も書くことができない。書くことだけによって、両者の中途半端な存在の形態を記述することができるはずなのだから。忌み嫌うべきものであるというよりは、初めからそうなっているし、地層化の裁きがあるからこそ、平野に逃げることが成立するのだ。

 

 部屋を掃除する時、その部屋は少なくとも一回、余計に汚くなる。苔のむすごとく沈着した薄い埃も、積まれた本も書類も、褶曲され押し固められたモル状の組織から、分子状の暴徒へと化す。

道具と隔たりの現象学 〜運転できない奴は何をやってもダメなのか〜

ボードゲームの呪い

 

「イケイケな人たち」はボードゲームをよくやるということを、私は知っている。皆さんも心当たりがあるのではないだろうか。

 彼らは人を騙すのがうまく、駆け引きがうまい。ゲームのプロトコルと目標を瞬時に理解し、それに向けて必要な手を打つ。

 私はそうした狡猾さとは無縁の人間だった。私はボードゲームが苦手なのだ。無論、ボードゲームをやるような集まりに友人から誘われたことは、人生で一度もない。下手すぎるからだ。

 かなり昔に家族と一緒にやった「人生ゲーム」でも、私は大抵最下位であった。私が帯びたのは、「お金」以外の切り口においても、誰がみても「最下位」と判断できるようなパラメータの低さであった。

 ふと、コマとして使われる「オブジェクト」に目をやってみる。色分けされた小さな人型のプラスチックの人形が乗っているのは「車」である。そう、そもそも私は「車」にうまく乗ることができないのだった…。

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「運転できない奴は、何をやってもダメだよね」

 

 インターネットなどで、表題のようなコメントを何回か目にしたことがある。非常に悲しいが、この言説に私は全面的に同意せざるを得ない。なぜなら、自分の不器用さ、人生のうまくいかなさが、自分の「運転できなさ」と根底から繋がっているように思えるからである。簡単に私の教習所ライフをご紹介しよう。

 教習所で私は、「見極め」に何度も落ちた。常識的な文体が全然理解できず、筆記の模擬試験にも何度も落ちた。本当に「卒業ギリギリ」だったのだ。

 私は努力した。5回の自主練習で「見極め」を突破し、3,000問×10回の問題演習で試験もなんとか乗り切った。これは、受験生の頃の1科目あたりの対策の労力を遥かに凌駕している。その後も実家に戻った時など、親の監督で運転したことはあったが、危なっかしすぎて頻繁に事故を起こしかけた。

 

 そういえば小学校1年生の頃に、買ったばかりの自転車を飛ばしていたら、自宅から200メートルほどの場所でトラックとぶつかってしまったことがあったのを思い出した。

 

 思えば生まれてから、全てが「そう」だった。手元の道具を、私は何もうまく使えることができなかった。自分が手にする道具は全てボロボロになって何処かへ行ってしまう。先生にもらったプリントはほとんど紛失するか破損させてしまうし、持っている筆記用具は全て一瞬で壊れれたりどこかへ消えたりしてしまい、カバンはすぐに穴だらけ、革靴の紐は1ヶ月でズタズタに切れるし、歩いているだけですぐにほどけてしまう。家庭科の授業で作ったベストは、見るもおぞましい怪物の様相を呈していた。ミシンであんなに手に穴を開けたのに。文字通り「血の滲むような努力」だったのに。

 そうやって何もうまく乗りこなせない自分の不器用さが、私の世界の全てを作っていた。私はそのような世界においてのみこそ、存在することができるのである。

 

 

検討①:世界の世界性 〜ハイデガーの道具分析〜

(忙しい人は飛ばしてください!)

 

 この問題を、ある程度古典的な議論に載せて考えてみよう。世界の世界性と、人間存在(現存在)の存在のあり方と、人間にとっての世界のあり方を「道具」という切り口で語り始めたのはハイデガーであった。ハイデガーの「道具分析」と呼ばれる有名な議論を見てみよう。

※参考文献は以下の二つ:

  1. 存在と時間〈上〉 (ちくま学芸文庫) マルティン ハイデッガー 
  2. ハイデガー入門 (ちくま新書) Kindle版

 まず、ハイデガーの「世界」に関する問題意識を簡単に整理しよう。彼は、デカルト的な「延長するもの」の集合的空間としての世界像を拒否し、「それをして、適所性という存在のあり方において存在者をで合わせるところのもの」として新たに世界を捉え直そうとする。適所性とは「手元にある道具が、手頃な大きさを持ち、適切な形態を持ち、しかるべき場所に置かれていること」という配置性のことである。人間にとって世界とはそのようなものである。

 彼によれば、そのようなものの見方こそが現象としての世界の理解を取り逃さないことに繋がるという。少し長いが、以下の引用で彼の目論見を確認されたい。

 従来の存在論を振り返ると、そこでは世界=内=存在という現存在の構成が取り逃されてきただけでなく、それに伴って世界性の現象も飛び越されてきたことがわかる。そして人々はその代わりに、世界の内部に客体的に存在していて、その上さしあたっては決して発見されていないような存在者、すなわち自然を基にして、この存在者の存在から世界を解釈しようと努めているのである。…(中略)…

 

 逆に、現存在の世界性と現存在の世界化の様態や様式を解釈する我々は、現存在が世界認識という存在様式をとる時に、世界性の現象をなぜ存在的にも存在論的にも飛び越すことになるかを、示さなくてはならないだろう。それと同時に、このような飛び越しの既成事実を見るにつけても、世界の現象に接近するためには、このような飛び越しを防ぐような適切な現象学的手がかりを得るように、特別の予防策が必要である、ということが知られるのである。

 我々はそれに従って、世界=内=存在を、ひいては世界をも、現存在の最も身近なあり方としての平均的日常性の地平において、分析の主題にする。すなわち我々は、日常的な世界=内存在を追跡し、そこに現象的手がかりを求めながら、世界というようなものを目撃しようとするわけである。

(『存在と時間』P156)

 ハイデガー現象学的に捉えられた「世界」を、人間が実存するところの環境の持つ独特の存在論的形態であるとし、客観的に理解されたような「自然認識」的世界像と鋭く区別する。

 その「世界の世界性」を最も身近な形で顕著に示すのが、「適所性」の担い手たる「道具」であるとハイデガーは主張する。人間にとっての道具のあり方は、諸々の存在者が集合的にパッケージされている時間・空間的領域の諸項目ではなく、そこにおいて人間が存在者に出会うような、特別な「身の廻り」性(環境性)なのである。

 ハイデガーは諸々の道具の「手許(てもと)性」と「手前性」を区別する。前者が「道具が意識されていない状態」であり、後者が認識の対象としての定立されたものとなった道具の状態である。我々は普段道具を「使う」が、その時には特に道具自体を意識することなく、道具を使って成し遂げたいことのことを考えている。そのときの道具は人間にとって、「目立たない」、透明のような存在である。これが「手許性」である。

 道具がその存在においてありのままに現れて来るのは、例えば槌を揮って槌打つように、それぞれの道具に呼吸を合わせた交渉においてのみであるが、そのような交渉は、その存在者を出現する事物として主題的に把握するのではなく、ましてそのような仕様が、道具そのものの構造をそれとして知っているわけではない。…(中略)…

 槌が単なる事物として眺められるのではなく、それが手っ取り早く使用されればされるほど、槌に対する関わり合いはそれだけ根源的になり、槌はそれだけ赤裸々にありのままの姿で、すなわち道具として出会ってくる。…(中略)…

 道具がこのようにそれ自身の側から現われてくるような道具の存在様相を、我々は用具性(Zuhandenheit)と名付ける。

(『存在と時間』P163)

 道具のような「内世界的」存在者を目の前にした際、槌で何かを打つというような「実践的知識」の場面が、存在者を諸々の集合にカテゴライズして捉える「客観的知識」の場面に先立つのである。道具は「…のため」という構造(「配慮」)に基づいて、その手許性においてすでに人間によって了解されているものなのだ。

 さて、そのような道具が壊れた時には、どうなるか。道具が壊れて使用不可能になると、それは「目立つもの」へと変貌する。その時には道具はようやく客観的に捉えられるような対象となるが、その場合でも、「目立つこと」によって道具の手許性をありありと(迂回的とはいえ)開示する。ゆえにここでも、「手許性の手前性への優先」という原則は守られており、手許的な存在=「透明なままうまくいくもの」こそが道具の根源的なあり方であると解することができる。

 

 駆け足であるが、以上がハイデガーの「道具分析」の要約である。さて、これをさらに「私にとっての」現象として解釈してみる。

 

 私自身の「所感」レベルのことを言えば、私の「道具」の経験だけに則して考えるならば、これはやや人間中心主義的というか、少なくとも能力主義にすぎるのではないか、と私には思われる。確かにハイデガーによる道具分析は、「道具が壊れた場合に、そのインターフェースがうまく機能しなくなる」ことも視野に入れた描写である。しかし、私にとっては、そもそも全ての道具が初めから壊れているように思えるのだ。そして壊れたものと壊れたまま付き合い続けることによって、ようやく道具に対する違和感が消失し、「手許的存在」=「透明なままうまくいくもの」としての道具と慣れ親しむことができる。だが少なくとも、そうなるには、私にとってはかなり長い時間がかかる。ハイデガーの道具分析が描写する世界の世界性は、私にとっての世界の世界性と食い違っているように思えるのである。

 このように「うまくいかない」こと自体が自分と世界の根本を構成するような説明に立ち会うことは、ハイデガーの道具分析の中だけでは難しいように感じられる。

 

※ただ、注意していただきたいのは、もちろんハイデガー存在論に則って存在のあり方を議論する際には、ハイデガーの諸概念をきちんと受け入れて論じなければならないということである。例えば、「うまくいかない」ものはすでに道具として壊れているのだから、ハイデガーの枠組みに抵触しない、と考えるべきである。

※とは言え、こうした私の主観的な反論・反感が全く無意味であるとは思わない。後に紹介するように、そのような「主観的違和感」が道具分析の「変奏」とも呼べるような応用を可能にしているケースがあるからだ。

 

 

検討②:道具のアクセス不可能性 〜ハーマンの道具分析〜

(忙しい人は飛ばしてください!)

 

 直接私の感覚に近しい言説に飛びつくより、まずはハイデガーの道具分析がどのようにアレンジされているかというところで、私ともハイデガーとも別種の考え方を一つ紹介する。

 ハイデガーの道具分析をアレンジして、モノの独立性・不可視性がより強い世界観を形成したのはグレアム・ハーマンだった。彼のオブジェクト指向存在論キノコの記事に詳しいので、そちらを参照されたい。

 

※参考文献は以下の二つ:

  1. 非唯物論: オブジェクトと社会理論 (日本語) 単行本
  2. 退隠と四方界 ―ハーマンはハイデガーから何を引き継いだのか―

 ハーマンは「退隠」というハイデガーの概念に着目する。「退隠」とは、先ほどの議論において、手許的道具が「目立たない」状態を指すものである。

 彼はこの「退隠」を基に、ハイデガーの道具分析を存在論的に読み替える(ただしこれはハーマンによる明らかな「誤読」であるというのが通説である。「ハーマンはハイデガーの概念を自分流にアレンジした」という理解で問題ないだろう。誤読の詳細は上記PDFを参照されたい。)。

 手許にあるものは、退隠するという性格をもつ限り人間から独立に存在し、決して汲み尽くされることがない。他方で、手前にあるもの(Vorhandenes; 眼前存在者)は人間との関係のうちにあり、私たちの知識に依存した存在者である。以上から、ハーマンは一般的なハイデガー解釈と逆の帰結を導く。「手許性はつねに〔人間から〕独立していなくてはならず、手前性は〔人間に〕依存していなければならないのである。」(52(84))どのような関係にも還元不可能な退隠する道具存在というハイデガー解釈から得られた概念をもとに、ハーマンは実在的対象というハーマン自身の概念を描き出す。実在的対象は、私たちのあらゆる経験から退隠
するものであるがゆえに決してアクセスできないものとして存在するのである。

『退隠と四方界 ―ハーマンはハイデガーから何を引き継いだのか―』P50

 人間がなんの困難もなく道具を使用している場合には、道具は「インターフェースとして、つまり人間(主観)とモノ(対象)をなめらかに(障害なく)つなぎ合わせ、対象の変化や移動という目的に合わせて道具は『透明化』する」。この点まではハイデガーと全く同じである。

 しかし、ここでハーマンは対象のアクセス不可能な実在性という自らの概念に接続する。ゆえにハーマンは「壊れた道具」こそが、「使える状態の『手許存在』の背後にある文脈や地平としての『道具関連』の地平を示唆する」(『非唯物論』、P175)とする。これはハイデガーの「目立つこと」とは異なり(これはあくまで「…のために」という、人間存在に依存した全体性に接続される「目立ち」である)、道具それ自体の存在を思弁的に考える契機である。その点で、この「壊れた道具」の契機はハイデガーのものと全く異なる方向に向かっているのである。

 さて、こちらは私にとってややしっくりくるものである。これは、私の世界観をある程度説明してくれるだろう。道具が蠱惑的に存在し、私にとっては理解も及ばないようなイニシアチブを握っているのだ。私とは関係なしに、私のあずかり知らぬところで、道具は自立している。

 しかし依然として「道具が人間によってナチュラルに使われる」ことを想定している。つまりそれは引きこもりでありながら、依然として、円滑なインターフェースの存在を想定した引きこもりなのである。不器用な人間にとって、あらゆる道具が最初から、円滑なものではなくむしろ障害になり得ることを、存在論的にどう説明すれば良いのだろうか。探究はまだまだ続く。

 

  

検討③:そもそも道具を使えない 〜道具分析から身体分析へ〜

(忙しい人も、できれば読んでください!)

 

 先ほどの「円滑でない道具の世界観」にマッチする言説を「道具分析」縛りで探してみて、私がたどり着いたのはD.リーダーという障害学(ディスアビリティ・スタディーズ)者である。彼の見解は以下の田中(2014)論文が手際よくまとめている。

 

※参考文献は以下の一つ:

  1. 障害の身体におけるコミュニカビリティの研究 : 芸術と日常の実践を中心に

 彼のキー概念は「ディス・アピアランス(dis-appearance)」である。田中の説明によると、これは「身体に痛みや機能不全があるときに、普段は無意識のなかに沈む身体が、意図せずして意識に立ち現れる身体の現象」、つまり「身体が自己、さらにはそれまでの身体そのものから離れたものとして、『異なるかたちで現れる』その相貌を意味するもの」である。

 リーダーは、ハイデガーの道具についての議論を用いながら、道具が身体に組み込まれ、身体の拡張した一部として身体のなかに入り込んでいる状態とは異なり、自分の身体を道具のようには「使えない」と経験するようなものとして、ディス゠アピアランスの様相を論じている。ここで示されるディス゠アピアランスの特徴は、我々が日常の熟練や健康から離れて、隔たっているときに生じる傾向があるということであり、加えて、身体がしばしば自己から離れた、隔たったものとして経験されるということである(ibid. p.87。それゆえ、正常あるいは健康であるときには意識のなかに現れることのない(消失したdisappearance)身体に対し、ディス゠アピアランスは、機能不全や問題のある状態に引き起こされる身体の主題化を指すことになる。

(『障害の身体におけるコミュニカビリティの研究 : 芸術と日常の実践を中心に』P25)

 「(身体または道具の欠損により)道具を使えなくて、道具が目の前に立ち現れる」場合だけでなく、「道具を使おうとして使えない、自らの身体」こそが異質なものとして立ち現れる場合を主眼とする。これは非常に自分の感覚に近い説明であると考えられる。私の場合は手足こそ自由に使うことはできるが、道具の透明な道具性とは決定的に切り離されたものとして自分の身体をいつも知覚しているというのは事実だ。

 とはいえ、やはり「身体自体を道具のように使えない」ことに対する当事者性はやはり「健常者」の私には十全に担えないものである。これらの観点の差異を存在論化することは、障害学の観点からも、私の個人的な探究の観点からも、非常に重要である。

 

 さて、ここでリーダーの、障害学(ディスアビリティ・スタディーズ)における位置づけを説明しておこう。リーダーたちは「障害の社会モデル」(ざっくり言えば、障害を社会の構築物・無力化の過程とみなすこと)による「インペアメント」(身体の機能不全)の非政治化に対抗する。障害の社会モデルは身体を障害から引き剥がしてしまう。だがそうではなく現実には、インペアメントは身体と結びつくことで、経験の根深いところで政治的に作用しており、決して軽視することができない、と彼らは主張する。これは、世界や自分の立ち現れ方にインターフェースの円滑さが根本的に寄与しているとするハイデガーの枠組みにも一致する。

 これをさらに、ハーマンの議論にぶつけてみよう。ハーマンは、人間中心主義を徹底的に嫌い、「対象(オブジェクト)」の次元でフラットに物事を説明しようとする。その中で、人間もまた特権的な認識主体ではなく、対象=オブジェクトであると説いた(キノコの記事参照)。しかし、リーダーの考えを踏まえると、身体も様々なパーツに満ちており、それぞれが自分からアクセスできないオブジェクトたり得るのではないか、と私は考える。リーダーなどによる「ディスアピアランス」の観点は、自分の身体をオブジェクトとして分割しつつ、それぞれに対して安易な所与を想定せず、そのアクセス不可能性に思弁的にアプローチしていく一つのきっかけになるのではないか。その意味で、障害学はOOO(オブジェクト指向存在論)の今後の展開に寄与しうる要素を持っていると考えられる。

 壊れた道具と身体の世界めぐるひょんたの探究は、まだまだ始まったばかりである。ひょんた先生の次回作にご期待ください。

 

 

ここで懺悔します!

 ここまでで、自分の経験をある程度「道具分析」によって可知的にすることはできたかと思う。しかし、Macでこうして文章を作っている私はいよいよあらゆる違和感を抑え難くなり、徐々にブラインドタッチによるタイピングをすることもできなくなってきた。押すべきキーを一つ一つ確認しながら、この文章を打っている。

 まず指摘できるのは、論証不足と、論証の不可視化である。これを書くために行った膨大な調べ物とその整理は、結局ほとんどアウトプットとして形を見せることがなく、見せても最終的には消されてしまった。だがそもそも道具分析は「存在論」という巨大な「知脈」の一つの枝であり、それ自体で成立する「系譜」として擁護するのも難しい。限られたスペースで説得力を増すための、「参照」という基本的なスキルが自分には身についていなかったのだ。

 かといってそれでも中盤はややこしいので、おそらく「検討」の①〜③はほとんど読んでもらえないだろう。「忙しい人は飛ばしてください」と、自分で予防線を張ってすらいる。ならば論証も、適当でもいいのではないか?いや、そういう場合ほど、「補足資料」としてしっかりした論証をするべきではないか?

 そもそもオレンジの太字は、それだけを拾うことでだいたい言いたいことが伝わるようなメディアを作るためのものである。私はこれを典型的なブログやビジネス書の形式をまねることで「習得」した。だがそれは先人の知恵を雑に、都合よく引用してしまっているだけなのではないか。

 この都合良さは、特に当事者性の問題に顕著に現れているだろう。先ほど私は、「自分は五体満足であり、障害を抱えた人との断絶をしっかり認識しないといけない」と予防線を貼ることで、自分が直面する問題のレベルを調整し心地よい説明を求めた。もちろんそれを一般化することはできない。だが、私は少なくとも、その実感をわかってもらえるようにすることで私の売り出しを行おうとしている。いわば、障害者を「ダシ」にして、注目を集めようとするような売名行為・間接的搾取である。これが倫理的に赦されてたまるものだろうか。

 そもそもそうやって「ブログのPVを稼ぐこと」=「自分を売りに出すこと」にすら、今や違和感を感じてしまうし、どうすればそれがうまくいくかも、自分にはよくわからない。売りに出すような価値も意味もない自分を無理に売り出したところで、一体何になるのか。キノコになりたいなんて生ぬるいこと言ってんじゃねーぞ。

 

 ブログという営みに慣れても、いや慣れてしまったが故に、そのプロトコルとゴールが上滑りして、自分が何をやっているのかわからなくなってしまう。

 「道具分析」の枠組みに戻るならば、ブログという媒体が自分において壊れてしまったようにも思えるし、ブログという道具を扱う身体が酷く破損してしまっているようにも思える。だがそれは、「スランプ」の一言で片付けられるようなものではない。そもそもこれが、本来の状態なのだ。うまくいっていたと思うのが、ただの幻想だったのだ。

 

そもそも私は、ブログをうまく書けない。何をやってもダメなのだ

 

 

そろそろお開きにしましょう…

 

私「…という悩み?があるんです」

 

先輩「あー…それはね、コミュ障特有の『反省会』をしちゃってるからダメなんだよ」

 

私「…というと?」

 

先輩「コミュ障ってさ、誰かと話したあと家に帰って、自分がした会話のことを反省し出すじゃん。PDCAのCの部分で止まってるってこと。君は、Aをしなければならない。どんどん次にいけばいいんだよ、次」

 

私「…はぁ」

 

先輩「まあ正直君の言ってることはよくわからないし、理解できていないからこちらが何かを言えるのかはわからない。でも、そんな時でも、とりあえずやってみればいいんだって」

 

私「そうですね…」

 

先輩「呼吸の仕方を考えちゃうから呼吸できなくなるんだよ。そういう奴は、何をやってもダメだよね」

 

私「そう…ですよね、深く考えすぎないようにやってみます」

 

 

 この人は、わからないなりに、こちらに寄り添ってくれる。私はこの人の言っていることに一ミリも賛同できない。しかし彼が持ち合わせているのは、優しく、素晴らしい人間性ではないか。私みたいな無能下等生物にも、対等接してくれるの

 そのまま私たちは会計を終え、JRの駅のホームに着いていた。無論、私が使うのは銀座線なので、先輩に合わせてルートを調整したというわけだ。

 

 

先輩「それじゃ、俺はここだから、お疲れ様でした」

 

私「はい!本日もありがとうございました。また明日も頑張りましょう!」

 

 

 

 

 

 その後私は感謝の念とともに先輩を後ろからつけ、店から持ち出したビール瓶で思い切り殴り殺してしまった。自分でも訳のわからないことを叫びながら、何度も何度も、執拗に側頭部を打ち付けた。瓶の破片が頭皮に突き刺さっており、私の手も血まみれになってしまった。

 でも私は不器用だから、先輩の頭の重心に、瓶をうまくクリティカルヒットさせることができない。だから何度も何度も殴るしかないのだ。先輩は、徐々に意識を失っていくようだった。

 

 周りの人々は皆、異様なものを見る目でこちらを見ている。刮目するが良い。これが不器用な人間の末路だ。

 

 

 

 

 飲み会が終わり、人殺しが終わり、私の世界から誰もいなくなってしまった頃には、私は鮮血とアルコールの海に溺れて、呼吸をするのも面倒に感じ始めていた。

 徐々に凄まじい頭痛と眠気に襲われ、私はその場で横になり、先輩の骸の横で眠りについた。

 

 

 それでも寝ている間に呼吸をすることができてしまって、どうやら朝を迎えることができてしまったらしい。これが、「とりあえずやってみる」ということなのだろうか?

 

 駅の近くにあったシンボル的な時計の針は、朝5時を迎えていた。警察に通報されることもなかったようだ。そもそも駅には誰もいなかったのだ。警察すらも、今は「自粛」している。一緒に飲んでいた先輩の亡骸も、そこにはなかった。だから大丈夫。そこに事件性はないのだ。

 

 

 

 私の頭皮は、かさぶただらけになっていた。ひどい頭痛を蓄えながら、そして血まみれの服のまま、私は銀座線のホームで始発を待つことにした。