ポエムではありません(ヤクザへの羨望)

この世の全てが欺瞞であることを嘆くことに疲れ、それがさも当然かのように振る舞い始めて数年が経った。自分の言葉はもとより全てが嘘であり(ちなみに全てが嘘であるというのはパラドックスである)、ついに自分はそれを受け入れた。「誠実さ」についてもあまり考えることがなくなったのだ。誠実さについて考えない方が誠実とすら思っている節が今の自分にはある。

 

あれほど嫌いだった「バランス」という概念に、今や自分は「生活」を恵んでもらっている。うまくやるには、嘘に適度に本音を混ぜ、不満を言い、他人のせいにすることが必要だ。そんな「FAKE野郎」の悪臭を、いつまでも続く不毛な争いの中で自分の脇の下あたりからプンと漂わせることが、大人になるということである。と、少なくとも今の自分は思い込んでいる。

 

エンジニアリングにせよコンサルティングにせよ、趣味の資料読み(※読書という言葉は使わぬ)にせよ、家事にせよ、自分は「効率よく進めるための作法」みたいなものをやっと習得しつつある。ここまでたどり着くのにはとても長い時間がかかった。

抽象化せよ、内容に拘るな、「相手が何を生理的に嫌悪しているか」を読解の起点にせよ、読解したものをイシューにせよ、イシューから始めてストーリーにせよ、それが競争戦略だ…などなど。

考えなくてもそのように身体が動くようになってきたし、「自動的に動く自分の身体」にもあまり違和感や葛藤を感じなくなってきた。それは自分が元々の「自己実現像的憧れ」を達成しつつあり、同時に繊細な思考ができなくなっているということの証左である。「繊細さを失うことへの後ろめたさ」という繊細さすらも手放しつつ。

 

仕事や家事の他に特にやることもないので、月に2〜3万円ぐらいは本を買うようにしている。しかし、山のように積まれた本からも、何も学ぶことができなくなってから、一体どれ程の時間が経っただろう。否、自分がこれだけ本を買ってしまうのは、むしろ「何かを読んでも何も学べない」自分の無力が理由である。自分は、何も理解できないし新しくなれないから、読んでも意味のない本を買って、目を通し、あたかもそれを有効活用したかのようなクソみたいなアウトプットにまとめて、それらをすぐに閉じてしまう。自分は本を読めないから本を買い、本を買うから満足するということだ。非常に資本主義に馴染んでいるではないか。

 

手取りが一定額を超えたあたりから(といっても、今でも別に満足できるような額ではないが)、自分がかつて何に悩んでいたのかを感覚的に理解できなくなった。代わりに何か得たわけでも頭が良くなったわけでもない。でも「凄み」みたいなオーラは少しついたのかもしれないと、自分には期待している。きっと自分は将来、愚かさと単純さを極め、豚の糞みたいなにおいを漂わせ、「純粋な暴力行為」になったヤクザの頭みたいになりたいのだと思う。

 

それほどまでに思考が単純かつ低レベルになった自分は、上記のような表面的な憧れからそのまま「連想」をして、最近新たな趣味としてヤクザ映画を観るようになった。しかし、ヤクザたちのあまりの「何も考えていなさ」に、毎度毎度ゲラゲラ笑ってしまう。とはいえ、これが自分の憧れの形式なのだと思う。だって自分がこういうふうについ論理的に見下してしまうという限りにおいて、彼らはまだ自分からは遠い存在なのだから。

 

大抵のヤクザの物語は悲劇で終わる。それは愚かさを純粋なものにした当然の帰結である。大抵のヤクザは地獄に落ちる。地獄に落ちることは救いであり、地獄は名誉天国なのである。

実は開会式の文脈を創造してしまった例の音楽

 

 

 先日のオリンピック開会式で、ドラゴンクエスト』などのゲーム音楽が使われたことが話題になっていた。ネット空間には、それらのゲームで青春を過ごした人々による絶賛と、少しばかりの憤怒が噴出したようだった。

 

 

youtu.be

 

 だが、そもそも、「人の行為の裏に音楽が流れる」というのは、一般的にいかなるものなのか。そしてとりわけ今回の「人間の行為と音楽との関係」は、どのようなものだったのか。

 

 筆者は大学時代、また大学を卒業してから少しだけ、舞台音響をやっていた。その観点から、開会式のあの場面はどういうものだったか、ということの考察をしたく思い、記事を書いてみることにした。プロとして舞台音響をやっているわけでもないし、アマチュアとしても現場からは2年以上離れているため、的外れなことが多いかもしれないが、とりあえず論旨の限定と読みやすさを心がけた。また文献を詳しく調べて裏取りをしたわけでもないので、論理的な不整合もありうることをあらかじめご了承いただきたい。

 

[ 目次 ]

 

 

本記事で扱わないこと

 

 前提として、私は開会式、特に選手入場の演出についてかなり否定的な印象を抱いている(嫌悪感が強すぎて、実は最後まで通して見ることができていない)。

 

しかし開会式それ自体や、そこでゲーム音楽が使われたこと自体に関してはすでにある程度まとまった不満がネットに噴出している。「不満」として自分が言いたかったこともほぼ全て言い尽くされた感がある。代表的なものが以下の記事である。

 

www.gamespark.jp

 

 ここでは一歩話題をステップバックさせて、そもそも音楽が流れるとはどういうことかという話から、今回のシーンを考え直してみること試みたい。そのため以下の論点はあえて直接的に扱わないこととした。これらの論点についても言いたいことは山ほどあるが、組み込もうとしてしまうと論点がブレてしまいそうだからだ。

① 作曲者のレイシズム的バックグラウンド

ゲーム音楽の政治利用の是非

ディレクションや制作のガバナンス、起用と除名の一貫性

etc...

 

 また話を簡素にするため、扱う開会式の場面も「ギリシャ選手団の入場」の場面に限定する。

 

 

舞台で音楽が流れるとはどういうことか

 

 まずはこのことについて考えてみよう。だが一言で音楽が流れるといっても、実は色々なパターンがある。

 

 演劇の歴史に比べれば、今風の舞台音響の歴史は短い。スピーカーというのは、言うまでもなく近代のテクノロジーである。効果音を自由につけられるようになったのも、音楽を自由に流せるようになったのも、つい最近のことである。とはいえ、例えば軍隊の行進曲やオペラ、ギリシア演劇のコーラスなど、音で人の振る舞いを裏付ける仕組みは昔からあったとも言える。

 

www.jafra.or.jp

 ただいずれにせよ、音楽が流れるというのは、一つの「異常性」であることには変わらない。自然界、あるいは社会において人間が日常的な生活をする場合に、突然その人の心情や人生や人間関係に沿った音楽が流れるようなことはない。

 

 その異常性は、舞台上でしか折り合いをつけられないものだ。舞台が虚構であることは、それが舞台であるという規約によってのみ担保される。そこで音楽という異常性はどのように働くか?ー舞台は音の異常性を虚構の空間に逃がし、また逆に音の異常性をもって「それが虚構である」というルールをつくるのである。

 

 さて、舞台で流れる音楽は、具体的かつ抽象的である。どういうことだろうか。いささか単純すぎるかもしれないが、一つの例を挙げる。まずは以下のセリフを読んでみる。一人の役者が、堂々とプレゼンをする風に話す。

えー、私は憲法改正、賛成です理由はまあ、いろいろありますが、憲法を変えるということは、日本が新しくなるということです。新しいことはいいことです。   

 

 ここで、先程のセリフの直前に以下のTED Talkのジングルが流れたらどうなるか。例えば以下の効果がもたらされると考えられる。

  • 現実をモチーフとした、比較的日常性の強い空間から、虚構の空間に一時的に移動する
  • TEDという具体的なパロディをシュール用いることで、中身のないことを堂々とプレゼンするという身振り自体を異質に見せて、批判する
  • ごく短く流し、役者の声には被せないことで、あくまで場面転換のためだけに音が流れる(逆に言えば、日常空間では音が流れない)と言う演出上の規約をつくり、またそれを守る
  • etc…

 ちなみにこの音響は極めてベタ(高校演劇などでありがち)な例だが、当然ながら大抵の場合はより複雑で抽象的な「音の使い方」を音響のデザイナーは管理していくことになる。

 

 このように、音楽にはいろいろな意味を階層化し、読み手の視点のレベル感を調整する役割がある。

 

 先ほど述べたシーンの出典は以下の動画だ。例えば最後のシーンのクラシック音楽も「高校演劇的」なBGMの使い方であるが、それはこの劇自体の設定(高校の文化祭でロミオとジュリエットを演じるという設定)とリンクさせるため、「あえてそういう流し方が選ばれている」のである。

 

www.youtube.com

 

 一般的に、演劇であれなんであれ、BGMというものはシーンの雰囲気や意味に合ったものが選ばれ、シーンを「補強」するものであると考えられることが多い。

 

 しかしそれは、些か穏便過ぎるイメージである。そのイメージには、先ほど述べた「抽象性」が欠けている。実際には、役者が立つ舞台に音楽が流れるだけで、シーンの意味が全く別のものに変質するだけでなく、作品の位置付けや作品と読み手の関係、音が鳴るということの定義、キャラクターの現実性の度合いや台詞回しとの距離感など、かなり多くの「見えざるパラメータ」を強引に規定してしまうのである。

 

 

 

ドラクエの音楽でギリシャ選手が入場したことについて

 

 ビデオゲームのBGMは、演劇のそれとは異なり、「異化」ではなく「自然化」や「臨場感」を志向している。テレビから音が鳴っていると言う事実は隠蔽され、初めからそうでなかったかのような錯覚をプレイヤーに被せることを目的としているのだ。

 

 生身の人間と限られた資材で作られる「舞台」と違って、ゲームはたくさんの、実質的に無限に近いイメージを供給することができる。たとえばあるファンタジーゲームの音楽がオープニングで流れる時、それはモンスターの息遣い、街の活気、秘境や魔境の不気味な魅力ともセットになっている。そして物語も多くの場合、一枚岩の勧善懲悪ではない。むしろ正義のあり方はストーリーの中で繰り返し問われ、プレイヤーは登場人物が葛藤を抱えながら進むことに共感・没入感を覚えていくのである。

 

 もちろん世の中にはいろいろなゲームがあるので、上記はただの一例だ。この記事において大事なのは、音楽の意味の一つ一つの内容ではない。そうではなく、ゲームと舞台の間に、「できること」や、「できることと音楽との関係」にどのような違いがあるか、という点が重要である。

 

 さて、ビデオゲームの場合とは対照的に、オリンピックの入場というイベントは、セットとしては極めて演劇に近いものである。舞台は、ゲームや映画などと比べて、圧倒的にイメージの手がかりが少なく進むものである。件の入場も舞台と同じように、コンクリート骨組みが露出したスタジアムや、最低限のセットや記号、国家とプラカードとユニフォームだけを身につけた集団の質素な動きだけで構成されている。

 

 ゲーム的な「自然化」の文脈で使われていた音楽は、今度はこうして、演劇的な「異化」の舞台に持ち込まれるのである。

 

すると、ビデオゲームの豊富なイメージの供給が途絶えたゲーム音楽に対して、我々は圧倒的な「物足りなさ」を感じるようになる。いわば、連想の参照点が限界まで削ぎ落とされているということだ。

 

 もう少し具体的に入場の様子を見てみよう。入場の場面には、使用されている音楽にまつわるキャラクターの形象や、ゲームルーチンのような構造もなく、なぜ「ギリシャ」が「ドラゴン」を「クエスト」するか、という説明すら一切省かれたまま、選手団は漫画の吹き出しのようなプラカードを捧げ、唐突に登場する。よりにもよってオリンピック発祥の地であるギリシャの選手団が、である。

 

 この「運動会的なそっけなさ」「連想の禁欲」を前にして、我々はただただ当惑することになる。聴覚的・視覚的な諸表象は、互いに「無関係さ」によって簡素に結ばれている。


 では、物足りなくなった我々が次に頼るのは何か?それは「記憶」である。実際、ミニマルさが純粋な骨組み、「尖った見通し」だけを観客に提供するかというと、そうでもないのである。事態はむしろ逆方向に進みうるのだ。

 

 ここで一部の「観客」の反応を見てみよう。

  • かつてゲームを楽しんでいた人たちが郷愁を伴う大きな感慨を表明する
  • ゲームの制作者や作曲家が、「オリンピックで自分たちの音楽が使われて嬉しい」と表明する

 

 これらの人々は、みなゲーム自体のイメージの供給ではなく(そもそも目の前にゲームは存在しない)、「かつてゲームのイメージが供給された時の心地よい感覚」「ゲームを作る仕事が認められたという達成感」「ゲームをやっていた・作っていた頃の自分の生活」を想起する。頭の中でゲームの虚構性と記憶が巧妙にすり替えられ、再統合されてゆくのだ。ちなみに、このあたりで、「ギリシャである」ということは既に完全に無視されてしまっている。

 

 加えて、ゲームという仮想空間を離脱し、開会式という生身のイベント性と結びつくことで、音楽は文脈のあり方を強引に限定し直す。件の開会式について、「この音楽の使い方はゲーム文脈から乖離している」という説明をすることは実は不十分で、実際には開会式の音楽は、「別種のゲーム文脈」を作り直しているのである。

 

 そこで働くのが、先ほど述べた音響の抽象的な力である。

 

 このような音楽の使い方がはらむメッセージは以下のようなものである。

  • 余分な文脈や連想を切断せよ
  • メタに考えるな
  • 今の(選手の)身振りを正常な「見立て」とみなし満足せよ
  • 自分の記憶で目の前の状況を補え
  • そうやって頭の中で整合性を担保せよ…

 

 イメージが不足するということのもたらす不安定な状況、どこに心のやり場を持っていけばいいかわからないようなとりとめもなさに対して、入場場面の舞台装置は何のセーフティーネットも張ってくれないため、観客は不安と苦痛に耐えるか、あるいは上述のメッセージに従って自分の記憶を動員するかの選択を迫られるのである。

 

 例えばよく教育やスポーツの場で発せられるような「目の前のことに集中しろ」という意図は、聞き手に対し、「メッセージ自体が強力な説得力を持つ」かのような錯覚を植え付ける。実際、いかにもハリボテ的なそっけなさ、地味な見た目にも拘らず、「ドラゴンクエストの音楽がオリンピックで流れた」という出来事のスケール感に誰もが飲み込まれてしまいそうな危うさが、あの無人の会場に蔓延していたのではないだろうか。本来関係していたイメージが目の前から隠されてしまい、それらとの直接的な文脈の連鎖を欠いているが故に、音楽がイメージから乖離した「共同性の記憶」に訴えかけるというのは、極めてナショナリズム的なやり方であるとも言えるだろう。

 

※ 誤解を招きそうなので補足するが、ここで注意すべきなのは、入場の演出がが「もともと意図されたものではない可能性が高い」ことである。開会式の演出を準備する時間がなく、周到な舞台装置というより「苦肉の策」と呼ぶ方が正しいだろう。上述の文脈形成は、演出家たち本人が望んだことではないかもしれないし、この記事ではそれを批判しているわけでもない。制作者の意図や構想はここでは問題ではなく、「結果として記憶が動員された」という事態が偶発的であれ発生したことを問題としているのである。

 

 

 

「罪なきBGM」はこの世に存在しない

 

 これまで見てきたように、音楽は文脈を創る(支える、ではない)機能を持った、非常に強力な、しばしば暴力的なツールである。何かが行われている裏で音楽が流れると、その役割はその行いの内容を「説明する」というレベルを大きく踏み越えてしまう。むしろ、その行いに関係するいろいろな意味要素を、どのレベル感で、どのように関連づけるのか、ということをほとんど規定してしまう。目の前の役者の振る舞いは、むしろそうした構造の下に組織化される。そういう意味で、BGMは原理的に政治的なものでしかあり得ない。

 

 「好きなゲームのBGMが使われたことを純粋に喜ぶことに、余計な政治性を持ち込むな」という意見もある。しかしそれは、先に述べた「目の前のことに集中せよ」という極めて政治的なメッセージに他ならないのである。イメージの圧倒的な不足を前に、集団的な記憶が補完的存在として喚起され、「ハイになる神経」が構造化されていく。これを(仮にそれが時間不足という偶然の産物であったとしても)政治やナショナリズムと呼ぶことが極めて自然な発想であるということは、今なら納得いただけるのではないかと思う。ただしその一方で、政治やナショナリズムが、単なる「イデオロギーによる私有化」という文句では語りきれないほどに、人を動かす質的な威力を持っていることにも注目する必要性があるとも思われるのである。

clubhouseに誘われなくて体調を崩した話

 最近、体調が悪い。胃腸の機能がおかしくなり、夜も眠れない。起きている間もずっと小刻みなめまいのようなものが発生し続けている。頭にはずっと靄がかかったような重さがまとわりつき、寝不足のせいで手指の関節はキリキリと痛み続ける。

 ずっと気分がふさぎ込んでおり、思考がまとまらず、仕事も勉強もまったく手につかない。休日も全く休めない。うつ病の薬をそろそろ増やさなければならなさそうだ。

 

 体調不良の原因は、clubhouseという招待制のSNSである「らしい」。「らしい」と書いたのは、私がそのSNSについての実態を何も知らないからである。とはいえ、ここにおいて、「実態を知ることができない」ということこそが、自分にとってのそのSNSの本質なのである。不可視性・秘匿性という本質の顕現によって、私の心身は明らかに良からぬ影響を受けている。

 それは「招待されなければ共有してもらえない」という残酷さそのものである。その在り方は、例えば、大学のクラスのコンパに一人だけ呼ばれなかったというような、そういう自分の人生の中での無数の事例を彷彿とさせる。その大学は、高校時代に夢見た自分の「第一志望」であった。生来自分は「選ばれる人間」になるために努力してきたのに、行く先々で、都度、私は「選ばれなかった」のである。新卒での就活に失敗した時も、「自分は選ばれない存在だ」という確信を強化するだけであった。

 その後転職して、多少まともな環境で労働するようになってから、長い時間をかけて、思い出したくもない劣等感を必死に抑え込み続けてきた。中学の頃から10年以上ずっと開きっぱなしだった自分の傷口は、ようやく塞がれつつあるかに思えた。しかし、clubhouseという不可視な、しかし確実に存在する「選ばれた者たちによる排他的集団性」のテクノロジーがどこぞのイノベーターによって発明されることによって、私の傷口を縫合する脆い糸は一瞬で切断され、抑圧された劣等感はいとも簡単に噴出した。今日も誰かが私の代わりに選ばれている。最後の最後まで自分には「順番」が回ってこないであろうことを思うと、気が狂ってしまいそうだ。今では毎日、ベッドの中で悪夢を見ている。そして起きている間も、まるで悪夢のようなのである。

 

 数年後には、「clubhouseをやっているかどうか」が、社会的信頼を裏付けるようになるのだろう。

 

面接官「あなたの履歴書のclubhouse欄、空欄ですが…もしかしてまだ誘われてないのですか?」

自分「…」

面接官「さすがにまだ誘われていないというのはちょっと、ね…それって、『運転免許証を持っていない』みたいなものなので、少なくともうちでやっていくのは難しいかもしれませんね」

自分「…」

面接官「うちの会社以前に、まずは社会から受け入れられる努力をしてみましょう。本日はお越しいただきありがとうございました」

 

 名前しか知らないその招待制SNSが登場してから、私は激しい吐き気を催しながらずっとそのような妄想を続けているのである。

人生に疲れた39歳未亡人がキャバクラに行ってみた(3)

(前回までの記事)

pyonta-hyonta.hatenablog.com

pyonta-hyonta.hatenablog.com

7

 さらに2週間ほどが経ったであろうか。既読の付いたメッセージは、やはり咲嬢宛に送られているということで間違いないようだった。ふとその画面を見返すと、今は多くの「送信が取り消されました」というマークが表示されている。咲嬢との邂逅の翌朝、陽子はメッセージの誤送信に気づいた。あまりにいたたまれなくなった陽子は、その場ですべての妄想を差し戻したのだった。このメッセージングアプリに「送信取り消し機能」が実装されたのはつい最近のことだったので、『該当機能を含むアップデートがなされる前にもし自分がこのような愚行をしてしまっていたら、より取り返しのつかないことになっていただろう』と思い、陽子は身震いした。

 咲嬢からは、特に何らのフォローもコメントもない。『あれだけ支離滅裂で一方的な発言を目にしてしまったならば、言葉の魔術師といえど返すための言葉を用意できなかろう』、陽子はそう思っていた。久々に発生した羞恥心などというものは1週間もあれば消え失せてしまい、今や陽子の心の中には一握りの申し訳なさと、ささやかな希望のみが残っているだけだった。

 嘔吐から数日で情緒が安定した陽子は、日々の暮らしに精を出していた。何かの罪を滅ぼすかのように、普段掃除していない窓のサッシを雑巾がけしたり、テーブルを消毒したりしていた。キッチンに溢れていた大量の酒瓶を洗ってビニールに入れ、所定の曜日に提出して回収してもらったりもしていた。まるで、年末の大掃除のようである。キッチンが使えるようになったので、自炊も始めた。昨日は大根と豚バラを醤油とみりん、だし汁で煮たものを食べた。ほろほろに煮崩れした、味のしみた大量の大根は大変に美味であり、食にがめつい陽子は何度も舌をやけどしてしまうほどであった。もちろん、料理の後にはキッチンに重曹をまき、ブラッシングをした。フローリングの雑巾がけをしたあとは、洗面台の上にぞうきんを置き、少し水をためてから、塩素をふりかけた。丁寧な生活。他人にとっての自分の価値はなくとも、こうして最低限達成しておくべき基準を満たしておけば、いつかはまた、陽子も「誰かに会ってもよい資格」を付与されるかもしれない。社会的な距離をたがいに取ることを否応なく強いられる昨今においては、他人に見向きされるのを目指して、何よりも「自分磨き」に有り余る時間を使うべきなのではなかろうか。陽子は意識を高く保っていた。もうすぐ年が明ける。

 今日は火曜日、可燃ごみの日なので、片手に一週間分の重みをもったごみ袋を持って玄関の鍵をあけ、廊下を通り、観葉植物と鏡が彩るエントランスを抜け、マンション最寄りのごみ捨て場へとむかった。空はカラッと晴れており、柔らかな日差しが陽子の顔面をあたためた。この日は例外的に暖かい一日で、最高気温は16℃程度であった。陽子はゴミ袋を所定の位置に放り投げた。その後ふとスマートフォンを取り出し、女性向けメディアの占いサイトを見た。今週のおひつじ座は1位であった。キーワードは「直観」「理解」「誠実さ」。陽子は特に占いを信じているわけではなかった。陽子にとって占いにおいて重要なのは、その内容でも、その的中率でもなく、テキストによって自分がどれくらい勇気づけられるかということであった。今日は天気も良く、洗濯物もよく乾く。占いの結果も良い。何より、自分はきちんと生活をしている。これほど幸先の良い一日など、今後あるのだろうか。

 陽子には、『咲嬢は必ずや自分を理解してくれ、真摯に応じてくれるようになるだろう』という確信があった。今日まで頑張ってこれたのは、陽子のこの確信のおかげである。占いの結果を真に受けているわけではないが、陽子はいよいよ咲嬢と真摯な付き合いを始めたいと思っていた。それは「友人関係」かもしれないし、「先輩・後輩関係」であるかもしれないし、単なる「恋愛関係」になるかもしれない。どのように名付けられようと、陽子は構わなかった。陽子が興味を持っていたのは人間関係の「本質」であり、関係にくっつけられた「ラベル」ではなかった。真摯な付き合いというものは、本音で語り合うものだ。思っていることを正直にぶつけ、ぶつけられ、互いが弁証法的に高めあっていく関係のことなのだ。その関係には啓蒙的な価値がある。仮に自分が相手にとって価値がない存在であるとしても、相手にはこれからの自分の成長を期待してもらい、価値を発揮できるまで気長に待ってもらい、良い関係になるまで耐えてもらうしかないのだ。それがいつか達成できるならば、陽子はいくらお金を使っても構わないとすら思っていた。ところで、やがてはぴかぴかになったこの部屋に、いつかあの人を呼ぶようなことがあるのだろうか。

 陽子は咲嬢に対して、どのような感情を自分が抱いているのかを正確に把握できないまま、今夜の予約を入れることに決めた。ついに今日、咲嬢に再び会うのである。陽子は既に、咲嬢にもう一度会うならば、それは後にも先にも今夜しかないと踏んでいた。この2週間、何度も何度も何度も推敲し、紆余曲折あった末に非常に簡素になった慇懃無礼なメッセージが、しゅぽっという効果音とともに画面に投下された。

「今夜、咲さん指名でお店に伺いたいと思います。よろしくお願いいたします」

 

8

 歌舞伎町は、2週間前に見た時よりもアットホームな雰囲気をまとっていた。初めて見たはずの、濃い緑色の看板を掲げた横浜系ラーメン屋の前で掃除をしているお兄さんも、ピンク色に輝く風俗店の前で寒そうなバニーガールの格好をしている女たちも、既に陽子がどこかで会ったことのある人々であるように感じられた。排気ガスの煤で黒く汚れたガードレールと歩道の淵の不潔さにも、どこか安心感を覚えていた。その安心感は、『仮に今日よくないことが起こったとしても、歌舞伎町に来れば、自分は一人ではなく、寂しくない』という陽子の心理的セーフティネットを形成していた。

 ガードレールの上にはたばこを吸いながらレザーのジャケットをまとった、金髪の男性が2~3人座っているようだった。首からジャラジャラと金属をぶら下げ、髪の毛はワックスで重力に抵抗している。これらの人影はコンビニエンスストアの青白い光に照らされて、劇画風の印影を呈していた。戦う男たち、労働者たちの姿である。彼らもこれから仕事場に出勤したり、自らの生活をかけて営業をかけたりするのだろうか。歌舞伎町には客として訪れたことがあるだけなのに、その舞台裏としての情緒すらもすべて把握してしまったかのように陽子は感じていた。『私は歌舞伎町の女になったのだ』という誇りと自信が陽子を貫いていた。その喧騒を抜け、陽子は少し落ち着いた路地裏に入る。あの丁寧なボーイに声をかけた。宇宙ステーションの入り口で、「いつものように」彼はその女性客を建物の穴の中へと誘導していった。時刻は19時半。咲嬢の出勤のタイミングに合わせて予約を取ったため、前回よりもやや遅い。今日は、決戦の日である。

 陽子は前と同じ席に通された。黒いつるつるの壁も、インテリアを彩る暖色の照明も、水色にライティングされた水槽とその熱帯魚も、前回と似て非なる拍の強い音楽も、もはや陽子にとってはすべて「馴染みのもの」だった。泣きそうになりながら無心でレーズンを食べていたあの時間を思い出しながら、陽子は自分の「成長」を実感していた。キャバクラなんて利用しそうにないアラフォーの女性が2度もこの店舗に訪れたのだから、嬢やスタッフの中で私のことは有名になっているに違いない。しかし私はもうこの景色を知っており、自分の位置づけも把握しているのだから、何も恐れるべきものはない。初めて見た時の咲嬢の目の輝きが、自分にもほんの少しだけ宿っていたならば、それほど嬉しいことはないだろうな、と陽子は考えていた。

 陽子の他に客は一組。しかもその人もたった一人でキャバクラに来ていた。座高が高く、白髪と黒髪が5:5の割合で混在しており、痩せこけた顔をしている陰気な男性。スーツをピシッと着ていてサラリーマンのようだった。暗い紺色のネクタイをしめており、それは買ったばかりのようにしわ一つなかった。年齢は50代ぐらいだろうか、顔にはほうれい線がくっきりと刻まれている。彼は主張の強い黒縁の眼鏡をかけており、細いが小さくはない彼の目の周りのほの暗さを、一層際立たせていた。『こんな系統の男性も、キャバクラに来るものなのだな』と陽子は感心していた。もっとも、陽子にそんなことを言われたくはないだろうが。

 席に現れた咲嬢は、前とは違う黄土色のドレスに身を包み、美しかった。銀色のネイルの装飾と、スカートのスパンコールがキラキラと輝き、陽子はあの夜のジンジャーエールの姿を思い出した。しかし、あの夜の新鮮さはなく、特別な感じはしなかった。咲嬢は「前と同じですが、」などと言いながら、新しい名刺を渡してくれた。

 「前と同じ」、「新鮮さがない」とはいえ、落ち着いた眼で見てみても、咲嬢が容姿に恵まれているというのは明白な事実であった。彼女はおまけに(、そしてそれにもまして)頭も良いのだ。『この人は、自分とは対極の存在だ』と陽子は思った。肉体面でも精神面でも、咲嬢は人理の発展に貢献するあらゆるポテンシャルを秘めており、逆に自分自身は全ての可能性が搾り取られた後の、出涸みたいな存在であるように陽子には思われた。

 閑話休題、まずは目の前の美しい咲嬢に集中しなければならない。しかし何か話を始めようにも、話題がないことに陽子は気づいた。口をパクパクさせながら、陽子が何かを言おうとしては引っ込めていると、丁寧なボーイがジンジャーエールを運んできた。何か言わねば、しかし何を?

 見かねた咲嬢が、一般的な話題を提供した。最近寒いこととか、感染者数の動向とか、最近流行している人狼ゲームについての話などをしていたが、陽子はそれらには一切興味がない。言葉の高級魔術師の繰り出す「世間話」という低級魔法が、陽子の左から右へとすり抜けていった。ジンジャーエールの結露は大粒になっていき、前回とは異なるタイプの緊張感を陽子に与えていた。陽子は、「本題に到達するために本題以外のものを使ってアイスブレイクする」という作業が非常に苦手だった。咲嬢の方が懸命にアイスブレイクを試みても、それらに応じるためのコミュニケーションスキルすら陽子は持っていなかった。陽子はいわば永久凍土であった。陽子の中に埋まっている好奇心の宝物を取り出すには、誰もが苦労しなければならない。それどころか陽子は、自分の求めていない話をずっと続けている咲嬢に対する苛立ちを隠しきれなかった。それを察知したらしい咲嬢は、ついに口数を減らし始めてしまった。

 すでに陽子のテンションは地に落ちていた。が、いまさら引き返すわけにもいかない。どんなに気が乗らなかろうと、誠意だけは見せるべきだと踏んだのだ。陽子は靴を脱ぎ、ドライマンゴーをほおばりながら、金色のソファの上で座禅を組み始めた。さすがにぎょっとした咲嬢は、目の前の女の奇行に耐えられなくなったのだろうか、ついに口を開いた。

「あのー私、そろそろ時間なので失礼します。あの、指名してもらえてとっても嬉しかったです。また来てくださ…」

「あの、いや、ごめんなさい、少し待ってください」陽子は相手のセリフに被せて、そう言い放った。

 咲嬢の表情には「何を?」という疑問符が貼りついていた。自らを限界まで追い込んでしまった陽子は、遂に咲嬢に対し、単刀直入に質問した。

「あの、この間、私送ったじゃないですか。変なメッセージ。ごめんなさい、びっくりしましたよね。わけ、わからなかったですよね。迷惑かけて本当に申し訳ないです。ところで、あれについて咲さんはどう思いました?あれ、実は咲さんに会った後、小説を書いてみようと思って、アイデアを書き留めてみたものなのです。えへへ…あの…その、作品とかにはなっていなくて、でもどうですかね、作品になりそうですかね、あの、どうでしたか?」

 咲嬢は20秒ほど石のように固まっていたが、やがてどう返すのが最も「誠実」な回答であるかを心得たらしく、懇切丁寧に語り始めた。

「あぁ…あのメッセージですね。わたし、正直びっくりしたんです。でも、読んでて楽しかったですよ。面白い発想をするなーと思いました。アフリカの文学とかだとそういう突拍子のない展開が多くみられるんですが、授業でそういうのを取り扱ったのを思い出しました。なんか、久々にああいう小説、読んでみたくなってきました笑」

 この期におよんで授業の話をしてくる咲嬢に好感を覚えつつ、一方で、議論の核心となる「咲嬢自身という対象」を意図的に話題からズラす咲嬢の狡猾さに、陽子は憤りを感じ始めた。引っ込みがつかなくなった陽子は、腹に力を入れて、「最初の一言」を口に出した。手がプルプルと震え、頭皮からは脂汗が猛烈に噴出して、額を通って瞼に差し掛かり、目の周りの化粧を溶かし始めているのを感じた。

「あの!良ければ今度、図書館に一緒に行ってもらえますか。教えてほしいことがあるのです。そのあともちろん、このお店にはいきますし、ご飯とかも全部こちらが負担します。だから…」

「ごめんなさい、私は正規じゃなくてバイトで、しかもキャバ嬢としてのランクもすごく低い立場なので、時間外に会うことが禁止されているのです。でも気持ちはうれしいので、また来てくださいね」

 その言葉を聞き終わるころには、陽子はこの女のことが心底どうでもよくなっていた。この女は自分に興味がない。自分に興味がないことが明白な人には、興味を向けても仕方ない。

 

 その後ローテーションでみえ嬢が回ってきた。

「ねーねー陽子さん、咲ちゃんとすごく仲良しなんだね。あの子ここの店に入ったばかりで緊張してたけど、陽子さんに気に入られてとっても嬉しそうだったよ。これからも絡んであげてね」そう言いながら、またみえ嬢は10本の触手を陽子の腕や太ももに「絡ませ」てきた。これは宇宙人なりのスキンシップなのだろう、と思うと、みえ嬢のことがどこか可愛く思えてきた。

 のちにお手洗いでスマートフォンを使って調べたところ、キャバクラではいきなりボディタッチをしまくる嬢というのはさほど多くないらしい。相手に警戒心を持たせないよう慎重にふるまった後、ここぞというときに相手に触れるのがコツ、とのことだった。だとすればこの女は、私のことを少なからずよく思っているのではないか。顔はいささかタイプからははずれていたものの、相対的に自分(の身体)への好感度が高そうに見えることを鑑み、しばらくの間の妄想のターゲットにすることにした

10

 時刻は24時頃。最寄り駅についた陽子は、このまま家に帰るのも癪だったので、近所を深夜徘徊することにした。駅の南口からシャッターの全て閉まった商店街を抜け、隣接している団地の敷地に勝手に入った。道中には自販機があったので、陽子は何かを供養するように280mlのミルクティーを2本買っていた。

 団地は複数の巨大な棟に分かれており、そのうち2棟ほどが、高台の上に乗っていた。低所得者層が集まる団地の中にも、棟や地上からの階数による序列が存在しているだろうか。団地の入り口付近にある駐車場には多くの安っぽい車が停まっていた。それを抜けると、高台に上るための石造りの白い階段があった。階段にさしかかると無心で足を動かし自分の体を高く運んで行った。階段の両端を挟む雑草が、風に揺られてさらさらと音をたてていた。蛍光灯に照らされて、それらの草は昼間には見せないようなしっとりとした緑色を陽子の視覚情報に提供していた。

 高台の上は小さな公園のようになっていた。テニスコート程度の広さの、楕円形の砂場を、駐輪場と低木の茂みが囲んでいた。高台の四辺のうち、二辺は巨大な「A棟」「B棟」に挟まれており、もう一辺は別の高級分譲マンションに接していた。残った一辺は空中に開かれ、そこから杉並区の住宅地の夜景を見下ろすことができる。陽子は背の低いマンションや一軒家の明かりの一粒一粒に焦点を当てた。それらの小さな光は、風に吹かれてゆらゆらと揺らいでいるようだった。これらの光一つ一つの中で、人間が生活している。なんだか文明社会が途方もないフィクションであるような気がしてきて、その壮大さに背中がぞわぞわと毛羽立つのを陽子は感じ取った。そういえば、もうすぐクリスマスがやってくる。あの光の中で多くの人が彼氏や彼女、妻や夫、そして子供たちと共に、西洋から輸入された誕生祭を心待ちにして、カレンダーに予定を入れたり、インターネット通販ででこっそりプレゼントを買ってあげたりしているに違いない。今年もそんな「特別な日」に、家で誰に待ってもらうこともなく、また誰を待つこともなく、いつもと変わらないやり方でただただ時間を使い捨てるであろう自身のことを想像し、陽子は心臓がきゅっと締まるような感覚を味わった。

 陽子は高台の近くの茂みに歩み寄り、ミルクティーのキャップを空け、低木の根元に内容物を注ぎ込んだ。陽子の他に誰もいない広い空間の片隅に、じょぼじょぼという音と、茶葉の香りを含んだ湯気が立ち上る。お香を焚いているような気持ちになった。すると地面の中からもぞもぞと、一匹のミミズが顔を出した。もっとも、正確に言えば、それが顔なのか尻なのかは、陽子の知るところではなかった(両親から教えてもらったところによれば、「おーい」、と呼び掛けて振り返ったほうの先端が、ミミズの「頭」であるとのことだった)。ミミズはきれいなピンク色をしており、滑らかな曲線のところどころに、虹色のつやのようなものがかかっていた。近くで見ると、こんなに洗練されたボディを持った生き物だったのかと陽子は感心した。

 陽子はミルクティーのかかっていないところの土を右手一杯に持ったかと思えば、そのままミミズに土を振りかけた。ミミズは徐々に身動きがとれなくなっていくようだった。すると陽子は鞄の中から日本酒を瓶ごと取り出し、ミミズに少しずつ垂らしていった。ミミズは感じたことのない強い刺激に苦しみ、断末魔を上げるかのように激しくのたうち回っていた。

 見上げると、都会の夜の明かりによってふるいにかけられた、少数の星がキラキラと揺れている。

 陽子は目線を目の前の盛土に戻すと、つつじの葉をちぎり、パセリのように小さくちぎりながら、その盛土の上にパラパラと載せていった。さらに、鞄の中から今度は家庭用食塩を取り出し、中身を全て振りかけた。そうしてから、「すみませんでした」と小さくつぶやいた。浸透圧に耐えられなくなったミミズは徐々に活力を失い、息絶えた。

 家に帰った陽子は、布団の上で再び座禅を組み、妄想を始めた。妄想の対象となる人物は、みえ嬢のようであった。暗闇の中から目の前にぼうっと現れたみえ嬢は、手だけではなく目や耳や鼻、口からありとあらゆる触手を伸ばし、陽子の身体を隅々までいじり尽くし始めた。それぞれのピンク色の触手はうねうねと動き、ベタベタとした粘液に包まれており、動きに合わせて透明なゼリー状の糸がつーっと垂らされていた。みえ嬢は何かをしゃべっているようだったが、聞き取れないし、理解できない。だが陽子は不思議とその状況に対して、明らかに興奮していた。およそ10年ぶりに感じた性欲のようなものだった。

 それは別に自分が求めているものではなかったが、他方で陽子は『自分の求めていないものを求めていると勘違いすることで、本当に欲しいものをごまかすというのが、欲望というものの本質なのかもしれない』という悟りを手に入れ始めていた。

 とはいえ、みえ嬢の湿った触手にまさぐられながらも陽子は冷静に思考を続けた。

『妄想にふけり、みずからの行動にいかなる「何か」をも反映せず、40年近くの間ただ外界との距離を保ち続けていた自分には、欲しいものがあるかないかの如何にかかわらず、幸せになる資格などないのだ』

 そのような考えを、自らのシナプスに刻み込んでいった。陽子はこれ以上自分が落ちぶれるのを防ぐため、「自分より部屋が汚かったり自炊ができなかったり、仕事の能力が低い人ですら、他人と結婚して幸せになったりしている」という事実からは、意図的に目をそらすようにしていた。

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 大友光太郎とは、22歳に陽子が大学を卒業してから3年後、文芸サークルの同窓会で再会した。出会った時から、彼はやせ細っており、今にも消えてしまいそうな儚さを持っていた。身長は180センチ程度だろうか。顔は小さく、すっと高い鼻筋を持っていた。目の下には深い隈があり、あごには無精ひげを蓄えていた。やや癖の付いたショートヘアーは特にもみあげが強固であり、太めで濃い眉毛には彼の人格の安定感が宿っていた。専攻は倫理学で、西田幾多郎を研究しているとのことだった。あの人は間違いなく、咲嬢のような「頭の良い人」だった。

 大学生活は陽子の片思いに終わった。陽子は彼に話しかけてもらうための口実として、頑張って小説を執筆していた。『この作品ができたら、あの人と一緒に作品について話し、ゆくゆくは付き合ったりもするのだろう』、と妄想していた。だが、小説の執筆は遅々として進まず、ついに完成しなかった。そうこうしているうちに別のサークルで忙しくなった光太郎は、文芸サークルに顔を出さなくなってしまった。しかし、1年間で会誌に何の作品も提供できなかった陽子も、幽霊部員としてひっそりと籍を残し続けた。そして3年生のころ、全く別のテーマで、短編を1つだけ書いてからサークルを引退した。引退後も、光太郎からのアプローチを受ける妄想を続けていたが、大学生活が終わるころには、その妄想ネタも尽きてしまっていた。

 大学卒業後、地方都市で働き、再び東京に戻ってきた光太郎は、同窓会に参加し、陽子に会った。その後、何度か陽子を遊びに誘ったのち、彼は自分の思うところを告白した。曰く「ずっと好きだった」とのことだった。それから一年、そのあと二人は「健全なお付き合い」を続けた。平凡なデートを重ね、いつの間にか一緒に暮らすようになった。人から好意を寄せられるという初めての経験に驚きつつも、陽子は謹んでその幸せをお受けした。

 大学卒業から4年後の12月24日、2人はフランス料理店でデートをしている。この日は何かが違うようだった。奮発して予約したであろう高級なフランス料理店の、白いテーブルクロスや赤と黒のカーペット、金属のバケツの氷水に漬かった赤ワイン、頭上に君臨する立派なシャンデリア。それらのアイテム全てが、あの人の決意を表象しているかのようだった。

「陽子、僕と結婚してくれないか」

 

-98

 こんな奇跡、自分には二度と起こらないだろう。自分なんかに興味を持ってくれる人は、後にも先にもあの人だけなのだから。

 それから4年後、あの人は病に倒れた。泡のようにぶくぶくと、儚く時が流れていった。陽子は仕事の合間を縫って病院に見舞いに行き、差し入れや元気付けるような言葉をかけたり、かけなかったりした。病気が発覚する直前、2人は子供を設けようと努力を始めていたが、今やとてもそんな状況ではなくなってしまった。もっとも、陽子自身は子供を持つことにあまり興味を持っているわけでもなかった。男性に対してもともと性欲を感じる体質でもなかったため、子供を授かるための「行為」に励むのも苦痛であった。でもあの人の優秀な遺伝子を残すことに貢献できるならば、陽子はこの程度の苦痛は耐えねばならなかった。『これほど報われることが目に見えている苦痛もなかろう』、と当時の陽子には思えていた。来たるべき幸せのために陽子は耐えた。とはいえ、既に陽子は幸せであった。だから、病気程度で自分が不幸になったとは思わなかった。この世に自分を大切に思ってくれる人が今まで存在し、これから数か月は存在するであろうことが、既に奇跡に近いことであったからだ。

 病室であの人は陽子に対して、しきりに「ごめんね、ごめんね」とつぶやいていた。時折申し訳なさに耐えかねて、あの人は泣き出してしまった。陽子はあの人にそのような気持ちを抱いてほしくなかった。自分なんかのために、「未来の可能性をつぶしてしまった嘆き」など感じないでほしかった。陽子に未来はいらなかった。陽子はただ、「今・この瞬間」、あの人に一緒にいてもらいたかったし、あの人と一緒にいたかった。それをうまく伝えるための自らの言語能力の欠如を、陽子は深く憎悪した。

 だが、あの夏は来てしまった。バスを降りると、ミンミンゼミが似たような音程で何重にも合唱し、それにせかされるように陽子の鼓動は高まっていた。ベタつく額をティッシュで拭いながら、陽子は小走りで大病院に向かっていく。病院の屋内に入ると、もう音らしい音は聞こえず、一層速まった自分の鼓動だけが聞こえていた。節電のためか蛍光灯の大半は切られており、陽子は暗い廊下をずんずんと進んでいった。非常口の緑色のライトが廊下に反射し、痛々しい雰囲気を醸し出していた。

 病室に着くと、1人の医者と1人の看護師が横に座っていた。クーラーが効いており、手についた陽子の汗が、病室の手すりをひんやりと伝っていった。彼は二度と意思疎通できない状態になっていた。そこから「死」という判定が確定するまで、いくばくも時間はかからなかった。意外にも、そんな時に陽子の心に走ったのは、「こんなことなら、先に仕事をやめておくべきだった」という後悔だった。

 最後に伝えるべき言葉はいくつもあったはずだ。最後が近くに迫っているということを知った時点で、それを自分は伝えるべきだった。なのに、どうしても手も口も動かなかった。なんでこんなふうになる前に、あの人に何も言うことができなかったのだろう。

 陽子は夢で何度もその夏の光景を見ては、ただ夢の中でだけ、わんわん泣いた。

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 ミミズを葬り去ってからさらに3週間ほどが経ち、新年が明けた。部屋は相変わらずきれいなままで、家具、食器、洗濯物、ベッドシーツなどは全て整って配置されていた。新年だからといって特段抱負などを立てることはしなかったが、陽子の心は晴れやかであった。あの日、あの場所で咲嬢に振られることができて、良かったと今では思っている。感染症の蔓延による影響を受け、「Sweety Gorgeous」は昨年末に閉店してしまったらしい。もし、あのタイミングを逃してしまっていたら、咲嬢は業務用アカウントを消してしまい、二度と連絡が取れなくなってしまったに違いない。

 携帯の画面にはレズビアン風俗の予約表が表示されている。「お金が尽きる」というタイムリミットは確実に近づいてはいたが、「その時」に向けての準備が進んだ気配は一切ない。予約フォームの要望欄にはただ一言、触手プレイ、と書いてあった。16時。そろそろ出発の時間だ。化粧も念入りに済ませた陽子は、鞄に財布とポケットティッシュ、食塩、日本酒を放り込み、玄関に立った。

 マンションの部屋の扉を開けると、正面からびゅうと風が吹きつけた。空を見上げると、黒く厚ぼったい雲の塊の隙間から、黄金に染まった空が見える。『自分には物語も、ロマンスも、プラトニックラブも味わう資格がない』という確固たる自覚を胸に、陽子は今年も敢えて同じ過ちをくりかえすのである。

人生に疲れた39歳未亡人がキャバクラに行ってみた(2)

(前回記事)

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 それから3時間ほどが経ったであろうか。陽子は生き生きとした足取りで、しかし少しよろめきながらホームを歩いていた。転落防止の白くて分厚い2つの柵に挟まれたJR新宿駅の中央には、タッチパネルで商品を選ぶことのできる、デジタルなタイプの自販機がある。陽子はタッチパネルのあちこちを頻繁に触りながら、その機械の律儀な「商品切り替え」の挙動を確認した。途中でなんだかおもしろくなってしまい、ふふっと笑い出していた。陽子はすでに水分でおなかがタプタプになっていたにもかかわらず、自分を楽しませてくれたその機械にお礼をするため、1本のミルクティーを買うことにした。がこん、と音が鳴ると、およそ10℃を下回っているであろう冷たい風が頬に吹き付けた。280mlのペットボトルを躯体の下部から引きずり出し、飲む準備をするためにマスクを取ると、ほわっと白い息が、100mlほどの分量、陽子の口から舞い上がった。その息は、明らかに多量の酒気を帯びていた。先ほどまでマスクの中でくすぶっていた酒臭さから解放された陽子は、新鮮な空気をめいっぱい吸い込んだ。

 『なんだ、自分もできるではないか』と、陽子は感慨にふけっていた。咲(さき)嬢との会話を皮切りに、陽子は堰を切ったように饒舌になった。陽子はアルコールも自発的に頼み、挙句の果てにはローテーションで再度回ってきたあの「みえ嬢」とすら、最小的には一定程度に打ち解けることができていたのである。もちろん、陽子はお酒に合わせて大量のレーズン・チーズ・おかきなどを食している。

 

 何より、関係性がただ金によって成り立っているというのが、新鮮で心地よかった。相手の生殺与奪の権も、こちらが握っている。今まで陽子は誰かと関係を保つために、自分の価値を提供しなければならなかったが、その重荷から解放されるというのは初めての体験だった。だって、金さえ出せば相手をしてくれるのだから。かつて自分が労働をしていた時は立場が逆であり、自分は心底どうでもいい「おじさん」達に媚を売らねばならなかった。お金を持っている一握りの老人たちに金魚の糞のようについていき、尻尾を振って群がり、餌を恵んでもらえるよう各々の戦闘員が精一杯芸に励む…というのが、この資本主義社会のルールであった。だが今回は、陽子は嬢たちが味わった苦痛のことを何ら考慮しなくても良いのだ。なぜなら金を出しているのはこちらなのだから。その金をサービスの対価として受け取る気概のある人だけが、こちらを相手してくれたというだけのことなのだ。ああ、使用者とはなんと快適な立場であろうか!お会計も5万円程度で済んだ(陽子の予算は7.5万円だった)ので、今月だけであと2〜3回は行ける計算になる。

 しかしそのような思考へと陽子の精神を切り替えてくれたのは、やはり咲(さき)嬢の話しぶりが、特異的に陽子の波長に合っていたためである。実際、「話が合う」という成功体験がなければ、本日のキャバクラはひたすらに陰鬱なトラウマになり下がっていただろう。その意味で咲嬢は「恩人」たる存在である。陽子は途切れ途切れに名前も知らない鼻歌を歌いながら(たしか、スコットランドか何かの民謡だと聞いている)、その女との会話を思い出していた。

 結論から言って、陽子の直観は当たっていた。彼女はそこそこの高学歴であった。人を見た目で判断する能力にかけて陽子は絶対の自信を持っており、今回のケースはその自信に拍車をかけた。

 彼女は都内の外国語大学の大学院生であり、ラオス語を専門にしているらしかった。陽子は学校や試験の話が好きなので、彼女が第一志望の名門中高一貫校に落ちてしまったこと、高校時代に数学や物理が一番得意であったこと、しかし言葉の魔力への興味を捨てきれず、文系の進路を選び、気付けば言語学を専攻していたこと。外国の言語にのめり込み、大学院にまで進んで「しまった」(それは咲嬢のささやかな自虐だった)ということも知っている。咲嬢は就活もしており、すでにインターンを通して複数企業の内定を獲得しているが、進路に関する決断を先延ばしにしており、興味を深めるためにラオスの大学に通うことも検討しているとのことだった。咲嬢の理路整然とした話し振りはまさに「見た目通り」であり、「お時間」が来るその瞬間まで、彼女は陽子の偶像であり続けた。

 普段は人に興味のない陽子が、ここまで多くの情報を聞き出すことができたのは、ひとえに頭の良い人への素直な尊敬ゆえであった。もっとも、咲嬢の方も、今までにないタイプの客と話題に新鮮さを感じ、相当に会話を楽しんでいるようだった。咲嬢のあどけない笑顔を思い出しながら、陽子は『今日私がキャバクラに行ったことは世界の誰にとっても間違っていなかった』という確信を手にしていた。メッセージングアプリの履歴の一番上には、あろうことか陽子が連絡先を交換してしまった咲嬢からの、お礼のメッセージが届いていた。

 「今日は来てくれてありがとうございました♪懐かしい話ができて、とーーっても楽しかったです:) 」

 陽子はそれをニヤニヤしながら眺めていた。一般的に「:)」というのは外国で使われる顔文字であり、彼女はきっとそれらを用いて留学生などとも盛んに国際的な交流をしているのだろう。自分もそのようなエリートの知性を、一かけらでもいいので恵んでもらいたい。願わくば、あの子が社会やラオスに出ててしまう前に、もう一度彼女に合えますように - 陽子はそう願うと、いつの間にかホームにたどり着いていた緑の列車を見つけ、それに乗り込んでいった。

 帰宅した陽子は、流れ作業で手洗い・うがいをした。ただでさえ酒の飲みすぎで頭が痛いのに、わざわざコップ一杯に日本酒を入れて喉に流し込み、そのままふらふらと布団の中に入ってしまった。

 

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 その後の咲嬢と陽子の関係は劇的に変化していくことになる。陽子は幾度となくお店に通い、そのたびに咲嬢を指名していった。お金を持っている「おじさん」たちからそこまで人気がなかった咲嬢も、ついに店内の上位にランクインすることになる。陽子が店に通い始めてからたった1か月の間での出来事であった。

 咲嬢は陽子に連絡し、お礼デート(という名の「同伴」制度の適用)をすることになった。二人でどこかで会って遊んでから、一緒にキャバクラに行くのである。普通は料亭などで待ち合わせするところを、なんと彼女と一緒にデート場所として選んだのは「図書館」であった。二人は思い思いに興味のある本を取り寄せ、机の上にどっさりと積み、合計5時間ほど無言で読み漁っていた(途中休憩あり)。咲嬢が机の上に置いたものには、ラオス語の本だけでなく、ソシュールバフチンバンヴェニストといった、言語を扱う哲学者による著作が含まれていた。認知言語学や音声学などの文献もあった。陽子にはこの人が、言語の魔法を根本から研究する魔術師であるように見えた。彼女は、魔法の単なる応用ではなく、その最も基礎的・根源的な部分を追求する、魔術師のなかの魔術師だ。基礎より応用の方が、一般的には美しい。ところでその魔法は、自分のような素人にも扱えるようなものなのだろうか、という興味を陽子は抱いていた。

 休憩時間には、図書館併設の食堂に2人で行った。キャバ嬢とその客のデートスポットには思えないような、極めて庶民的・役所的な雰囲気の食堂だ。装飾や照明などなく、図書館内の他の部屋と同じような雰囲気の大広間に、茶色い机が並べられている。メニューはカレーライスやかけうどん、牛丼、ナポリタンなど、子供が好きそうなものが多かった。壁は真っ白で、所々にひびが入っている。利用者たちは食券を入り口で買い、注文のカテゴリごとの窓口に行って、白衣を纏ったおばちゃんたち(なぜかここで働いているのは40~50代の女性が多いようだった)から料理を受け取る。2人は同じカレーライスを頼み、窓際の席に座った。開け放たれた窓から見える、官庁近くの整然としたアスファルト道路と、その両端に植えられている葉のない茶色の並木が、真上に上がった白い日光に照らされてきらきらしているようだった。ふわふわとした昼の風が頬を撫でる。もうすぐ春でも来るのだろうか。

 図書館の閉館時間が近くなると、荷物をまとめて図書館を後にし、二人は近くのコーヒーショップへ吸い込まれていった。咲嬢が頼んだのはソイラテ、陽子が頼んだのはブラックコーヒーであったが、互いに相手の頼んだものの味が気になるようで、一口交換したりした。奥の席にどっしりと陣取った二人は、「言葉」について話し合った。コートを壁のハンガーにかけると、咲嬢はノートパソコンをその場で開き、図書館で書き溜めた研究ノートを見せてくれた。ワープロソフトのファイルにはびっしりと文字か書かれており、それらがきちんと矢印型のインデントによって整理されていた。あの短時間で、なんと1万字もメモを取っていたらしい。それだけの集中力と作業スピードに陽子は驚嘆した。一方陽子といえば、あの時間、何冊か哲学書を読もうとして挫折し、『杉並区 湧き水さんぽ』という至極「じじくさい」写真集を読みふけりながら、今後の徘徊計画を考えていただけであった。同じ時間を与えられても、それをどれだけ有効に使えるかということに関しては、人と人との間にはどうしようもなく埋められない差が生まれてしまうものである。陽子は、なんとしても目の前のこの天才の「知的おこぼれ」にあずかり、自分を高めたいと思っていた。なので、「言葉とは何か」ということについて、自分の思いつく限りの一般的・抽象的・根源的な質問を咲嬢に投げかけた。こんなに楽しい、わくわくする時間は、陽子にとって実に5年以上ぶりであったと思われる。

 咲嬢は言語学の基礎について、たとえ話たっぷりで懇切丁寧に陽子に教えてやった。とはいえ、高度な理論と論理によって裏付けられた、咲嬢のテンポの良い発言に対して的確に質問や回答を返すことができた陽子は、ついに咲嬢に才能を見込まれる。咲嬢は陽子を「仲間」と認め、話題はいつしか言語そのものから咲嬢その人へと移り、自発的に生い立ちにまつわる様々な情報を陽子に共有し始めた。

 そこで陽子は、咲嬢の意外な事実を知ることになる…

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 今のはすべて陽子の妄想である。興奮で眠れない彼女は、帰宅後、布団の上で座禅を組みながら、ずっとそのような諸場面を頭に描き続けていた。いまや彼女の脳内では、「女性」というただの一側面だけのせいで彼氏にひどい目に遭わされた咲嬢を陽子が道端で拾ったり、咲嬢が親との絶縁により陥っていた金欠状態を陽子の金が解消したり、それから半年後くらいに駆け落ちして新幹線に乗ったり、おなかに新しい生命を抱えたままの咲嬢を連れて軽井沢の教会で疑似結婚式を挙げたりしていた。陽子はそこで二度目の花嫁衣装を纏う予定であった。ところが現実では、「2回目のキャバクラ」すら行っていないのだ。

 陽子は自分の妄想癖を自覚しており、うまく使いこなしてきた。実際、高校時代などには、よく好きな人とのデートを頭の中に思い浮かべるだけ思い浮かべて、自分からは絶対に声をかけたりはしなかった。それが紳士淑女のたしなみ、教養の証、人間としての強度とすら思っている節が陽子にはあった。結婚してからは、夫の死後も含め、こうした妄想の類には一切興じていなかった。だからこのような「片思い」状態には、どこかノスタルジックなものを感じていた。何より、片思いはこちらのコストが最小限で済むから便利である。脳内にありったけの妄想をぶちまけても、それが脳内の妄想であるという制約にさえ自覚的であれば許されるのだから。

 妄想の中の陽子は、決まって他人から興味を持たれていた。現実では、思いを打ち明けられたり、能力を認められたり、執着されたり、その他の重い感情を向けられたり、そういったことは発生しないというのが「原則」であった。いや、正確に言えば、一度だけ他人から興味を向けられ、それがきっかけで人生のうちのそこそこの期間を他人と過ごしたことがあるにはあった。それは例外中の例外という事態であるが、それを除けば、陽子の人生は概ね原則通り進んでいた、という具合である。

 陽子はこうした妄想をせっかくだから形にしておきたいと思い、メッセージングアプリで、一人だけのグループを作り、上述の妄想を次々と言語化していった。「国会図書館」「渋谷の路地裏で雨に打たれながらスマホをいじっている咲さん」「カフェで注文したコーヒーの交換(私はブラックを頼む)+ソイラテ」「お台場デート」「はじめての喧嘩」「キャバクラでも何度か会う」「軽井沢の教会」「ドライヤーをかけてもらうこと」「相手のアパートに上がり込み、布団の中でひたすらに頭を撫でてもらう」「そのうち、陽子の方の深淵も次第に咲さんに開示され始めており、」といった断片的で奇怪なフレーズが次々と投下されていった。

 しかし途中で自分のことを気持ち悪く思い始め、『さすがにやりすぎだろう』と思った陽子は、作業を止めて台所に向かった。先ほど日本酒をついだコップを軽く洗い、そのまま水を汲んでがぶ飲みした。肺のあたりがひんやりとした。ついでに、まったく手を付けていない280mlのミルクティーをコートのポケットから出し、キャップを空けると、シンクの穴めがけて流し込んだ。ボトルを小刻みに回転させながら、効率よく内容物を落下させていった。乳臭い茶葉の香りがふわりと広がる。ボトルをそのまま流しの上に投げ捨て、ふらりと体の向きを変え、再びベッドに向かってよろよろと歩いていった。

 すると突然地面がぐにゃりとゆがみ、あたりに重低音が響きだした。陽子は体のバランスを崩し、布団の上にうつ伏せで寄りかかった。最初はただの「飲みすぎ」に由来するものであると思ったが、本棚にある本のほんの一部がガサガサと音を立てて落ちたりしたので、『これは客観的な事実である!』と陽子は踏んだ。とっさにスマートフォンで「地震情報」と打ちこんだ。スクリーンにはすぐに直前の出来事を説明するニュースが表示され、このあたりが震度3程度の揺れであったことを知った。

 先ほどの振動に三半規管を大いに刺激されていた陽子は、スマホをベッドの上に置くと「限界」に達してしまい、とっさに身体を回転させて口元をベッドから逸らし、フローリングの床目掛けて盛大に嘔吐した。酸っぱいにおいがつんと鼻を刺す。そこには先ほど食べたレーズンや、クラッカーや、追加で頼んだナッツ類などの断片と思われるような、2-3㎜四方の物体が多数浮かんでおり、見るに堪えない醜悪さを露呈していた。じわじわと床を伝って広がっていく吐しゃ物を眺めながら、陽子は徐々に、今日一日の間、自分が如何に愚かな行為をしていたかという実感を得はじめ、激しい自己嫌悪感に襲われた。

 陽子はそれまでの論理を反転させた。「金さえあればいくらでも他人に相手をしてもらえる」ということは、裏を返せば、「金を出さなければ相手にしてもらえないほど自分には価値がない」ということである。さらに、咲嬢たちもお金をもらって仕方なく自分に奉仕をしているだけなので、その本音のうちに自分に価値を認め、自分を求めるようなことは決してない。肝心の「金」もそのうち尽きる。いまや自分は金を稼ぐことすらできないので、今ある金に価値はあっても、自分には価値がない。このように、そしていつものように、人から愛されないのは自分に能力がないからである。自分はこのまま一生誰から見向きもされず、一人で死んでゆく。将来は自殺か孤独死だ。『自宅で白骨化したところを数か月後に近隣住民に発見されるというのが私にはお似合いだろう』、と陽子は思った。もっとも、一人で孤独に死んでいくこと自体にさして恐怖はなく、その覚悟はとうに決まっていた。陽子がそれにもかかわらず恐れていたのは、他人に能力や価値を一切認めてもらえていないという事実であった。

 本棚にふらふらと向かい、読めもしない分厚いヘーゲルの本を取り出して、適当に開いたページの読解を試みたが、さっぱり意味がわからなかった。ふと頭に、締め付けるような痛みが走る。陽子はこらえきれなくなり、歯ぎしりをしながら声にならない嗚咽を漏らし、分厚い本で自分の頭をひたすらに叩いた。7回くらい叩いたところで落ち着いてきたので、先ほど自分が配置した吐しゃ物の方をくるりと向き、ヘーゲルの本をそこに目掛けて投げた。ぴしゃりという音ともに汚物があちこちに散らばり、自分の右耳にまで到達した。自らへの怒りのような感情に支配された陽子のこめかみには大量の血液が流れており、リズミカルな血流の音がどくどくと鼓膜にまで伝わってきた。それから1分くらい経って、陽子はすがるように亡くなった夫のことを思った。汚い液体が、ヘーゲルの書物の端の方の紙に吸収されてゆく。

 夫のことを思い出す陽子の思考はすぐに、夏の、夫の臨終の日に直結してしまった。やっとの思いで取った有給休暇。摂氏38度程度の猛烈な暑さの中、手入れのされていないごろついたアスファルトを早歩きで進みながら、大病院までの坂道を登って行った。額から大粒の汗が鼻筋を伝って口元に入り、経口補水液程度のしょっぱさを組都の中にふわりと伝えた。陽子にはその坂道が無限の長さを持っているように思われた。そこから先の展開を思い浮かべた瞬間、陽子の頭はずしりと急激に重くなり、すべての思考機能を停止した。これは陽子の一つの特性であり、思考の負荷が一定を超えると強烈な頭痛と倦怠感が発生し、そこから先の考えを止めさせられるというものであった。陽子が哲学書を長い時間読むことができないのも、一つにはこの体質が原因であった。

 何も考えることができなくなった陽子は、ふと生存本能に突き動かされるような行動をとる、ということが知られている。陽子は自分の体がひどく冷えてしまったことに気づいたので、風邪をひかないように暖房をつけ、それまで身につけていた外行きの服を汚れた床の中央部から離れたところに脱ぎ捨て、布団の上に上った。毛布に全身をくるませてから、体の震えが収まったのを確認し、再び座禅を組んでみたが、そのまま意識を失ってしまった。

 先ほど自分の妄想をテキストにして、「一人用」グループにメッセージとして送ったはずなのに、それらに「既読」とついていることに、陽子はまだ気づいていなかった。

 

(次回へ続く)

 

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人生に疲れた39歳未亡人がキャバクラに行ってみた(1)

※「カクヨム」で連載中!よければ遊びに来てくださいませ。

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 大友陽子は顔の方向を正面に固定したまま、眼球だけであたりを見回して、冷静に状況を整理しようとした。

 

その1: 私はいま、一人でキャバクラに来ている。私の他に客は2組。真っ黒な壁と真っ赤なカーペット。照明に照らされて、複数の金ぴかのソファとテーブルがくっきりと強調されている。そのうちの一つの真ん中に、私と、一人の女とが密接して座っている。小柄なボーイが私たちを遠くから見つめている。

「おねーさん、緊張してる?」

 

その2: 目の前にはドライフルーツやチーズが乗った皿と、ジンジャーエールと、ウィスキーの水割りが等間隔に鎮座している。隣の女がくれた名刺は、飲み物の結露に巻き込まれしわくちゃになりはじめている。

「わー女の子だ!みえっていいまーす!よろしくね!何飲む?」

 

その3: 私は泣きそうになりながら、机の上の皿に乗ったレーズンを手づかみで取り、急いで口の中に運ぶことを繰り返している。食べるのに忙しいので、隣にいる女に、私が何らかの返答をする余裕はない。

「最近感染者増えててやばーい」

 

その4: 店内を流れるトランスの重低音が、隣のテーブルで繰り広げられているおじさんのカラオケ音声と混じって、私は聴覚情報を全く処理できない。

「女の子がくるなんて珍しいね。おねーさん、こういうとこはじめて?」

 

その5: 隣の女はやたらベタベタとこちらの腕や太ももを触りながら、相も変わらず私に話しかけてくる。香水のにおいが私の鼻の粘膜をくすぐる。

「じゃあ、いただきま〜す!」

 

その6: 私は挫けそうになりながら、それでも、一つの確固たる「抵抗」の意思に基づいてお菓子を食べている。

「おねーさん、めっちゃ食べるじゃん
かわいい〜」

 

結論: 混乱、混沌。何もかもがめちゃくちゃで、何も理解することができない。陽子の胸の中は『帰りたい』という気持ちでいっぱいだった。

どうしてこんなことになってしまったのか。

 

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 陽子がこの不可解な状況に巻き込まれる、およそ6時間半ほど前…

 

 働いていない陽子には、目覚まし時計なるものも必要ない。彼女は目をこすりながらティッシュを手探りで探し、徐に、しかし大胆な音を立てながら鼻をかんだ。ぶん!と勢いの良い射出音が頭蓋骨に響く。夜中に溜まった重量感のある鼻水の塊が、2枚のティッシュによって受け止められた。
 スマートフォン指紋認証を解除すると、画面上部のデジタル時計欄には12:45と書いてあった。流石に午後に起きるのは少し罪悪感がある。必要のない小さな胸の痛みがちくりとその存在を開示し、たちまちに消えていった。

 ここから少しの間、1人のアラフォー女性の身の上話が続く。それは記述として退屈かもしれないが、今後の彼女の行為を理解するために、少しだけお付き合いいただきたい。
 陽子は今年39歳になった。女とは言え、今のご時世でこの年齢の女性が働いていないというのはあまり多い事例ではないだろう。かといって家にお金を入れるパートナーがいるわけでもない。彼はもう2年前に死んだのだ。
 1人になってからも数ヶ月は働いていたものの、陽子は突然むなしくなってしまい、結局は会社を辞めてしまった。何度か転職を繰り返した陽子にとって、今までで一番自分に合う環境で働くことができてはいたのだが、働くこと自体に全く意味がないようにしか考えられなくなったので、辞める以外の選択肢も考えられなかった。
 32歳で結婚し、それなりに幸せな5年を過ごした後、なんらかの病によって陽子の夫はこの世を去った。それは「これまでの人生で唯一愛した相手」と二度と会えないということを意味したので、しばらくは涙に暮れる日々を過ごしたが、葬式が終わり、会社も辞めてしまったあたりからは、何だか落ち着いてしまった。1人の人間の人生の面倒を見るという重荷から解放されたという実感を拭えなかったのだ。それから陽子は、「それはそれで享受しがいのある自由を手にした」という満足感を得るようになってしまったのである。自らのこの薄情さを、彼女は人並み程度に嫌悪し、人並み程度に楽しんだ

 39歳という年齢は、この時代の社会によって、「取り返しのつかない」ものとして認識されていることが多い。世の中には40代でも現役として働き、前線で戦いながら新たなキャリアを積み始める人々はかなり多いのだが、少なくとも陽子は、前述のような世間の認識を受け継いでいた。特に女性に関して言えば、肉体のピークはとうに過ぎており、これからの出産には大きなリスクが伴い、新たに仕事を始めるための気力と体力もなく、うだうだしているうちに、およそ10年後には更年期と閉経が忍び寄ってくる。試しに仕事をを探してみても、この年齢の女性を正社員として採用する企業はほとんどなく、契約社員・アルバイト求人ですら、かなり待遇の悪いものしか残っていない(尤も、陽子にはそもそも働く気もないのだが)。レールを外れた女性の可能性というものは、物凄い勢いで閉じられていく。自分がもし男ならば、努力とコネクションによって正社員の仕事だけでも再開することができるのだろうが、女性にはそういうチャンスを一切開いてくれないというのが、この国の社会というものだった。労働社会は無限の階層構造でできている。お金を持つ少数の男性権力者にまず男性が群がる、その男性のおこぼれに、ようやく女性があずかることができる…といった仕組みになっているのだ。法の制定から40年近くが経過した「男女雇用機会均等」なる理念など、結局は建前に過ぎず、現実にはその1%も達成されていないように陽子には思われた。この絶望感を味わうことなく人生を終えられる男性たちに対して、陽子は憤りすら覚えている。

 収入源のない陽子が今住んでいるのは、家賃7.2万円、駅から徒歩12分程度、杉並区の外れ、閑静な住宅街にあるマンションの一室である。間取り1K、洋室8畳程度、築5年以内の白っぽい小綺麗な洋室であり、バス・トイレ別、ガスコンロも二口ある。夫が亡くなった後、彼との生活との思い出として多くの荷物をこの一室に詰め込んだものであったが、やがて精神的にもそれを重荷に感じるようになり、また単に生活上不便ということもあり、その大半を陽子は夫の実家に送り返してしまった。今ではこの部屋を占めるのはベッドと、冷蔵庫・洗濯機・電子レンジ、一つの小さなテーブル、オフィスにあるようなローラー付きの椅子、薄型のノートパソコン、それと巨大な本棚だけである。生活上必要な最低限の物質だけを家におき、書籍による概念の増加によって残りの人生を充実させんとしていたのである。そのため、決して広いとは言えないこの部屋ですら大きく思えてしまうような、殺伐とした空間が展開されていた。整然と並べられた最低限の家具たちと対照的に、ただ本棚だけが自らの内容物を床にまで溢れさせ始めていた。

 そのあふれ出した内容物のおよそ半分ほどを、『純粋理性批判』『論理哲学論考』といった哲学的古典が占める。もっとも、これらの書籍は彼女が最近買ったばかりのものであり、また彼女は人文学の専門的な教育を受けたわけでもないので、大してその内容を理解できるわけでもなかった。ただ、難解なテクストが自分の目の前においてあり、それを読む機会を得ている自分自身に酔っているだけなのだ。自分が陥っているそうした自己陶酔状態にも、陽子は自覚的であった。

 陽子は頭の良い人が好きであった。亡くなった彼女の夫もそうであった。陽子は『彼ほど自分の知的好奇心を満たしてくれる人はこの先現れないだろう』と予想して、部屋に引きこもりながら「読めない古典」を収集することにのめりこんでいたのである。

 布団の中でもぞもぞと寝返りを打ち、彼女はスマートフォンを見た。メッセージングアプリには、居酒屋のクーポンの類を除けば、もう2ヶ月以上も誰からもメッセージが届いていない。『私には友達と呼べるような存在はいないのだった』ということを彼女は思い出した。ただでさえ自分から声をかけて人間関係を広げるようなタイプではなかった割に、仕事もしていないとなると、当然話し相手はいなくなるし、陽子自身そのことに納得している。
 もう年単位で、他人と会話していないように思う。とある凶悪なウィルスが全世界に蔓延してからというものの、陽子の引きこもりには拍車がかかった。特に今は11月であり、気温も低いので、なおさら外出する気にならない。

 しかし、陽子がスマートフォンで徐にWebブラウザを開くと、そこにはなぜか、歌舞伎町の安めのキャバクラ「Sweety Gorgeous」のWebサイトが映っていた。形容詞+形容詞という、文法を冒涜するような反知性主義的な店名にすら、陽子は興味を抱いている。

 実は陽子は、昨夜の3時ごろ浅い眠りから覚めてしまい、何を思ったのかネット上で、「これなら私でも行けそうなキャバクラ」を探していたのだ。彼女が寝付いたのは早朝の5時ごろであった。
 未知のウィルスの蔓延を受け、政府から激しく迫害された「夜の街」では、営業時間の短縮や自粛に追い込まれたキャバクラや風俗店が「感染割」などという些か不謹慎な割引制度を作成して客引きを継続していた。そこには確かに60年代さながらの演劇的カウンターカルチャーが展開されているかのように思えた。華やかな世界に一切縁のなかった陽子は、金色に彩られた不躾な広告と、反政府的でアナーキーな団結との不思議な親和性に魅了され、気づけば「一度でいいから1人で夜の街に突入してしまいたい」という欲望を抱いていた。

 陽子がホストではなくキャバクラを選んだことには、さして深い理由もなかった。単に、自分の夫だった人に対するなんとなくの罪悪感と、あとは自分より著しく身体の大きい人に無防備な姿を晒すことへの恐怖であった。陽子には知的好奇心はあったが、性欲がなかった。ワンナイトなどというものにも興味はない。ただ、金色に弾け飛ぶ無駄遣いのようなものに身を任せて、死ぬために不要な雑念を頭から追い出すことができそうという期待があるだけであった。

 ここで金銭の話をしておくべきだろう。キャバクラに行くのには金がかかる。陽子は働いていないのに、そんな余裕があるのだろうか?という疑問が生まれるのは当然である。それについては陽子自身、昨夜のうちに何百回も考えたのだ。
端的に言えば、陽子には金がある。銀行口座には、自分で稼いだ1,200万に、遺産やらなんやらで他人の手から譲り受けた3,600万を加えたものが入っていた。家賃で8万円弱、生活費を多めに見積もって12万円、合わせて月20万円で済ませれば、よっぽど大きな物価変動さえなければ4,800÷20÷12=20年ほどは生活できる計算であった。

 もっとも、陽子はこの先20年も生きるつもりもなかった。20年なんて、長すぎるのである。ゆえに「1か月あたりに使っても良い金額」の枠を20万円分広げることによって、『10年後には死んでしまおう』という決意のもと、贅沢をすることを自分に許したのである。そして月20万円というのは、現在の陽子の趣味である「読書」だけでは到底使い切ることのできない金額だった。そのうち何割かを、今度は夜の街に使おうという魂胆である。

 陽子は頭が切れるので、複数のWebサイトを見ることでキャバクラのシステムは概ね理解できていた。そして翌日の朝(昼)になってもキャバクラに行く気が失せていなければ、その日のうちに当日予約をしてしまおうと思っていたのだ。

 陽子は、キャバクラに行くとすればこの「Sweety Gorgeous」に行くと決めていた。女の子の顔が比較的素朴で、初心者にも優しそうという先入観からであった。新宿駅から徒歩12分、営業開始は18時とのことである。陽子は予約フォームから予約を確定し、アラームを16:30にセットし、寒かったので再び布団の中に身を埋めて、そのまま眠りについてしまった。

 

2

 

 未亡人という概念には、世間から独特の眼差しが向けられる。それはもっぱら性的な眼差しである。刑事ドラマであれ同人誌であれ、未亡人は欲求不満の象徴として描かれる。仮に見た目が貞淑であっても、脚本・キャラクターにおけるその貞淑さが抑圧の結果であることは目に見えて明らかであった。陽子は未亡人という単語にこのような「男の欲望」を投影するような世間の眼差しに対して、心の底から気持ち悪さを感じていた。
 などと陽子が布団の中で考えていたら、16:30にセットしたアラームが鳴ってから30分も経ってしまっていた。これでは出かける前に化粧する時間がない。しかし『それもまた乙なものだ』と思い、陽子はとりあえず布団から身を出し、クローゼットから貧相な外行きの服を取り出した。外出時にはかれこれ7年以上この服を着ている気がする。一旦台所に行き、気付け薬(※日本酒)をコップ一杯に注ぎ、一気に飲んだかと思えば、陽子はベッドの方に戻り、着替えをすることにした。

 陽子は最低限の身支度(着替えて、マスクをつけること)を済ませ、小走りでJRの駅に向かった。マスクの中はそれはもう大変に酒臭く、歯磨きをしなかったことを激しく後悔した。交通系ICカードには奇跡的に1,000が入っており、陽子は改札に引っかかることなく、大して混んでない中央線に乗り込むことができた。時刻は17:23であった。電車を降りた陽子は、携帯のマップを見ながら新宿東口から歌舞伎町へと大股で歩き、目当てのお店を探した。時折激しく自らの位置をずらしてしまう地図アプリの「現在位置」に憤りながら、陽子は人込みをかき分けて目的地を目指した。鞄の中身がコロコロと音を立てている。

 陽子の鞄の中には、ポケットティッシュ、財布、それから小さめの日本酒の瓶と家庭用食塩が入っていた。嫌なことがあった時や、気合いを入れたい時、酒や塩を舐めるという習慣が陽子にはあった。特段宗教上の理由でもなく、単に「酒や塩を舐めると、心が洗われるような気持ちになる」という理由でそれらを常備しているのである。とはいえ、「清め塩」といった日本の宗教的習慣の成り立ちは、なんとなく理解できるような気もしていた。

 何とか時間通りに到着した陽子は、さっそく看板の前に立つ小柄なボーイに声をかけることにした。身長およそ162センチほどのボーイの髪形はツーブロックであった。ジェルで前髪を片方に流しており、先端を縮れさせている。細くて温和な一重瞼に、整えられた眉毛。まっすぐ立つことになれており、指先をそろえて重ねて道行くおじさんに至極丁寧に「キャバクラいかがっすか」と声をかける。台詞の内容のわりに、育ちがよさそうに見える男だった。
 日が暮れていたので、看板と入り口はLEDの電飾に彩られていた。エントランスは白ベースで七色に輝き、SFに出てくる宇宙ステーションのようだった。スピーカーが、トランスのような音楽を歌舞伎町の路地に響かせていた。

「ぁの、予約した大友!、ですが…」

 声のボリュームの調整具合が異様であっただけでなく、予想される顧客の対象外であるところの「女性」に話しかけられたということもあり、ボーイは「理解不能」と言ったような表情を浮かべた。陽子も声のボリュームの調整に失敗したことを自覚していたが、もはやその程度のことを気にしないほどには、羞恥心というものを捨ててしまっていた。
 ボーイはすぐに携帯を取り出し、予約表を確認し、こう言った。

「大友様ですね。お待ちしておりました。ぜひ、中にどうぞ」

 その瞬間、ギュルギュル!という異様な音があたりに響いた。陽子の腹の音である。朝から何も食べてないことを、陽子はようやく思い出した。

 

3

 

 エントランスの扉が開くと、そこには想像以上に広い空間が広がっていた。学校の体育館の4分の1程度だろうか、テーブルは6つほどあり、そのうち2つが使用されている。なるほど、人気店だけあって、このご時世でも客が入るものなのか、と陽子は考察した。
 入り口付近で小さく流れていたトランス風の音楽は、店内では大音量で流されていた。重低音が陽子の踵から鼻の先にかけて響く。
 この箱を取り囲む壁はすべて真っ黒で、ツルツルしていた。カウンターに乗せられた、水色のネオンに照らされた30cm四方の水槽には、凡庸な熱帯魚が数匹泳いでいる。照明はテーブルと客席を目立たせている。この空間には端的に言って刺激が多く、陽子は興奮していた。

 赤色のカーペットの上にガラス張りのテーブルが鎮座していた。その上におつまみ、灰皿、丁寧に巻かれた真っ白なおしぼりがあった。
 別のテーブルでは、数人のおじさんと嬢が交互に座りながら、大音量でカラオケをしていた。歌い手は申し訳程度のフェイスシールドをすることで感染対策に励んでいるらしい。あれをつけてもほとんど感染を防げないことを知らないのだろうか。みたいなことを考え、陽子はここ数ヶ月で自分がひどく神経質になっていることに気づいた。まるで何度も手を洗わないと気が済まない強迫神経症のように。

 陽子はおじさんの下手な歌声に不快感を感じていた。店内に流れていたトランス風の音楽が存外陽子の趣味に合っていたので、別の音楽を混ぜないで欲しいと思ったのだ。
店内には至る所にアルコール(消毒剤のほう)が置かれ、客同士は距離を取られているが、肝心の嬢と客の間には物理的な距離が一切なかった。あちこちからいい歳した男が大声で叫んでいるようなこの環境では、ウィルスの蔓延など防ぎようもないだろう。陽子にはこの光景が、かえって健全に思えた。

 ふと、視界に人影が入ってきた。

 陽子に最初にあてがわれた「女の子」は、やや大柄で、鼻筋が整った「お姉さん」っぽい人であった。大きな瞳に、大きな口。栗色の髪の毛をしている。酒を飲みすぎたのか、やや声が低い。全体的に「大味である」という失礼な考えが陽子の中に浮かんだ。香水の匂いがぷんとして、鼻炎待ちの陽子はいきなり鼻をかみたくなった。
 ワインレッドのドレスに身を包み、大きな胸の半分をあらわにしていた。寒くないのだろうか。とりあえず、『顔は悪くはない』、と陽子は思った。こうした判定を実施した後、結局は自らにもルッキズムの思想が浸透していることに気づき、陽子はひどく恥じた。

「わー女の子だ!みえっていいまーす!よろしくね!何飲む?」
 そう言うと「みえ」なる女性は猛スピードで陽子のパーソナルスペースに侵入し、陽子の太ももに接しながら腰をかけた。陽子はそのあまりにも素早いセキュリティの突破に対し、反射的に身構えた。緊張で喉がカラカラに乾く。それだけでなく、外出前に揮発性のある日本酒を飲んだことが影響し、その乾燥速度は大きく上乗せされていた。陽子はとにかく水分が欲しかった。

ジンジャーエール…」
 陽子はボソリとつぶやいた。ボーイがいそいそと、陽子の頼んだ場違いなジンジャーエールを用意するために移動した。

 陽子はあたりを見回した。しかし空間の異様さにも慣れ、パーソナルスペースに知らない人の侵入を許してしまった陽子は、冷静な判断を取り戻さんとしていた。すると必要以上にキビキビした動きでボーイがやってきて、ジンジャーエールと、嬢の頼んだウィスキーが運ばれてきた。どちらも似たような黄ばんだ液体なのに、そんなに仰々しく持ってこれるとこちらも緊張してしまう、と陽子は思った。

「じゃあ、いただきま〜す!」
 みえ嬢はグラスを陽子のジンジャエールより下の位置に傾けて乾杯をした。こうするのがキャバクラの作法らしい。かちん、という音をきっかけにみえ嬢は真っ白な歯を見せて屈託のない笑顔を披露した。

「女の子がくるなんて珍しいね。おねーさん、こういうとこはじめて?」
 みえ嬢は、陽子の太ももや腕にベタベタと触りながら、くるくると表情を変えて陽子に話しかけてくる。
 みえ嬢は手汗持ちなのか、彼女が触った陽子の体の部位は、決まってナメクジが通った後のようにぬらぬらと濡れていた。先ほど見たエントランスのSF的な光景も相まって、陽子は宇宙人に身体をまさぐられ解剖されんとする時のような不快感を感じていた。陽子の首筋には大量の鳥肌が立っている。
「最近感染者増えててやばーい」

 陽子は尋問を受けているような気持ちになった。身体を触られていようといまいと、彼女はこのような薄っぺらいやりとりが本当に苦手なのだ。なぜキャバクラなんぞにきてしまったのか、と後悔し始めていた。みえ嬢は、媚を売り、相手を煽てるような声色でひたすらにキャッチボールを強制してくる。陽子は相手が何を言ったのかを一切記憶できなかっただけでなく、自分が何と返答しているのかもよくわからないようだった。

「全然人来なくて寂しかったー」
『売上が減ったのならば、さぞ財布が寂しくなるこったろう』
 皮肉を心の中で呟く余裕が陽子にできたとたん、陽子の神経はいよいよ絶対零度にまで落ち着いてしまった。トランスの音楽は、自分を置いてひとりでに鳴り響いているようだった。自分だけがこの空間において孤立している。ベタベタ触ってくるこの女と陽子との間には、無限の距離があるように感じられた。
そもそも自分はこのようなつまらぬやりとりから逃げるために、俗世のいろいろな関係を断ち切ってきたのではないか。それなのにうっかり人恋しくなって、わざわざこんな地獄に出向いて恥を晒すなんて、自分は究極の馬鹿だ。

 歯軋りをしながら陽子が黙りこくっていると、みえ嬢は慌てた様子で尋ねた。
「おねーさん、緊張してる?」

 『私は緊張しているのではない』と陽子は心の中で強がった。彼女はただ腹立たしく、惨めな気持ちになっているだけだ。早く終わってくれ。何もかも。営業時間も、この世界も。

「おねーさん、慣れるためにまず自己紹介しよっか」みえ嬢は眼前の狂人に対する適切な対応方法を知らず、あろうことが陽子に自己紹介を依頼してしまった!

『こんな時にやめてくれ』
 陽子には紹介したいと思うような自己などない。少なくとも、今夜消えてしまう関係の相手に、亡くなった夫やあふれる本棚など、しょうもない身の上話をしてしまうことが、陽子にとって決定的な敗北に思えたのだった。
 薄っぺらい関係を、陽子は求めていない。では、何を求めているのか。

 机の上には、沢山の供物(おつまみ)が積まれていた。ビニールに入ったチーズ、おかき、ナッツ、レーズンやマンゴーなどのドライフルーツ、それから小さなチョコケーキ、スナック菓子。再び陽子の腹から鳴ったギュルギュルとした音がトランス音楽にかき消された瞬間、陽子は勢いよく皿に乗ったレーズンに手を伸ばした!それらが口に投げ入れられると、陽子の歯は、待っていましたと言わんばかりの速度で乾いた果実を噛み砕いた。

 レーズンの酸味を伴った果糖は口腔内全体に広がり、唾液の分泌を促進した。しかし「ドライ」フルーツだけあって、日本酒と緊張が引き起こした喉の干ばつを解消するほどの即効性を、レーズンは持っていなかった。そのため、陽子は左手でジンジャーエールを手に取り、一気に飲み干した。数分の会話のうちにグラスの表面に大量に発生した結露が、手の指の隙間からぽたぽたとこぼれ落ちる。

 嬢は、がつがつと食物を貪る眼前の狂人が、果たして自分と同じ人間なのかを疑った。
「おねーさん、めっちゃ食べるじゃん
かわいい〜」

 心にもない誉め言葉の直後、陽子の横隔膜はゲエエェッと大きなゲップを発した。『こんな怪物のどこがかわいらしいというのか』と、陽子は少し自虐的な気持ちになった。
 それでも陽子はとにかく食べた。食べまくった。かつて高校のクラスのコンパで一人ぼっちになり、他人の何倍も食べ放題を楽しんでしまった時の自己嫌悪を思い出す。

 ふと、困惑した表情を隠せぬまま、みえ嬢が口を開いた。
「ごめーん、時間になっちゃった。おねーさんと話せて楽しかったよ〜、またね!」
 そういうとみえ嬢はそそくさと席を立ち、行ってしまった。

 『何が「楽しかったよ」だ。心にもないこと言いやがって。1人にさせてくれ。このまま意味不明にハイテンションな音楽を聴きながら、透明なテーブルの上で私はずっと、お菓子を食べるつもりだから。』
 陽子はお菓子を食べるペースをやや落として、チーズに手を付けた。装飾のない透明なビニールに包まれた親指サイズの白い本体は、お徳用パッケージのうちの一粒なのだろう。やや速度が落ちたとはいえ、「甘いもの→辛いもの→甘いもの」というサイクルでテンポよく一人で次々と物を口に運ぶ陽子の周りには、明らかに近寄りがたい雰囲気が漂っていた。

 しかし店は孤独を許さなかった。ふとやや小柄な影がまた、陽子の視界に入ってきた。陽子はうんざりしながら顔を上げた。

 澄んだ声が陽子の耳に届けられた。
「はじめまして、咲(さき)って言います」
 名刺を差し出してきた女の身長は陽子より少し低いくらいであろうか。背筋をすっと伸ばし、猫背が習慣になっている陽子と対照的な立ち振る舞いを見せた。その顔はどこかあどけなく、しかし目つきには独特の鋭さがあった。表情は凛々しく、何か将来の計画を見据えているかのような雰囲気を纏っていた。陽子は再び彼女の眼球に注意を向けた。店内の照明をハイライトとしてとらえたその瞳に、陽子は宇宙的な深さを予感した。
 陽子は何年ぶりかに、目の前の現実的な人間に自分のフェティシズムが強烈に刺激されるのを感じた。人影への嫌悪感は消え失せ、底なしの興味へと変わった。瞳孔がみるみる開いてゆく。

 陽子はぽつりと呟いた。

「あ、この子絶対、高学歴だ」

 

(次回に続く)

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(俗世マニュアル)「俗世ないし社会の要求事項」

 今回ご紹介するのは、勤労の義務に苦しむ私が私が2年半ほど前に書いた「論考」です。論考、と銘打っていますが、論考というほど根拠に富むものであるわけではなく、逆に「世界の解釈をこの論考に一致させると比較的世界観が安定しやすい」という点で、私にとってはむしろ「マニュアル」のようなものとして機能するものです。

 では何のマニュアルかというと、「外界との摩擦を和らげて自分のセキュリティを高める、適切な抽象的インタフェースを設置するための」マニュアルです。この文章の使い方ですが、とりあえず社会や他人やコミュニケィションに直面して、嫌な気持ちになった時にお使いください。もともとそれらが好きで、それらとともにあることに苦しみを感じない人であれば、不要なものかもしれません。

 つい先日、精神に深刻なダメージを受けた際も、この論稿を読んですぐに体勢を立て直すことができたという実績もあります。まぁ、一番良いのは回復用に使うのではなく、事が起こる前に読んで予防するというスタイルですが…。

 この文章は2年半も前のものなので、非常に傲慢で高慢で鼻につく表現に満ち満ちていますが、そこは「若気の至り」ということで大目に見てください。事実、この時の私と比べても、結局私は何も成長していないし、進歩していないのですから…それどころかその後の私は、この論考=マニュアルの内容を忘れ、インタフェースの構築に何度も失敗しているという点で、これを書いた時の自分よりも後退してしまっているとも言えるでしょう。

 

 

0. はじめに

 俗世ないし社会は、人を人扱いすることができない。ヒエラルキーの上位に立つ人間は、相手の存在を理解して寄り添う素振りを見せながら、実際にやっているのは必要な言葉と物質を使い、「相手を思い通りに動かすこと」である。そこには存在や普遍性、経験の形式について議論する余地はなく、「被使用者」は「使用者」の固定化された「カスタム設定」に完全に従属する必要がある。俗世ないし社会は、そのような無限に、複雑に広がるヒエラルキーの体系によって成り立っている。

 人扱いが不可能な使用者のカスタム設定に従属するということは、当然被使用者である我々も使用者を人扱いすることができなくなるということを意味する。彼らは我々を使って思い通りの物事の供給を実現しようとしているので、我々の彼らに対する物事の供給もまた「代理業務」に過ぎないものとなる。そこにおいて相互理解を志向する地平は発生し得ないのである。

 確かに人は、他人を理解することができない。他者の経験は、推論によってしか近づくことができない。しかし、俗世ないし社会に住む人間は、その「理解できなさ」に対してあまりにも諦めが良すぎるので、理解の試みが推論であることを忘却し、挙句の果てに理解しようとすることすらも忘却してしまうのである。

 その場合、他なるものを知ろうとする一切の試みは、完全に挫折を迎えることになる。いやむしろ、そうした知的存在としての側面を捨象して同一平面上で動物的に競い合う「一次的人間」だけが、真に人間的とみなされるのだろうか。

 例えば私は「別の次元」が見える「疎外」された人間(いささかの選民意識を伴う表現だが)であるとともに、同一平面上における競争に敗北する「負け組」である。もはや自分にはこの社会で「まともに」勝ち進むチャンスはほとんど開かれていない。そのため、自分に開かれた選択肢は「隠居」のみである。

 「隠居」とは、「職をやめるなど世間から身を引いて気ままに暮らすこと」を指す名詞である。しかし生命維持において「職をやめる」という典型的な「隠居」することには多大なリスクが伴う。現実的に可能なのは、社会体系の要求する事項を最小限の労力で満たし、俗世ないし社会からできるだけ距離を置いた上で、余剰のエネルギーを「他なるものを知ろうとすること」に費やすことである。

 本論考は自らの「隠居」の一助となるべく、人に対する俗世の物象化作用を定式(パターン)化し、最小限の労力で応答するためのものである。あくまで知的存在であろうとするために「隠居」するという大義名分を忘れ、ただ物質的・心理的に楽な方へ流れ、堕落していくようなことは自分ないし「隠居」という行為に対する裏切りであり、あってはならないことである。

 

1. 使用者にとっての被使用者

 被使用者は使用者によってキャラクターとしての属性を付与され、使用者の想定通りに動くこと(「代理業務」)が期待される。属性付与前の関係性や、属性付与自体の成り立ちについて考察が及ぶことはなく、想定から外れた出来事はノイズとして完全に捨象される。

 一方、被使用者は使用者の要求事項を満たすよう動く代理業務に勤しむことを余儀なくされるが、その過程で、被使用者もまた使用者からの属性付与の受け入れおよび使用者に対する逆方向の属性付与を行う。

 この双方向のメタ情報交換を通して、「理解」の形式が固定化され、両者は人間関係を結ぶ。「理解」の形式が再度問題となる場面は、特別なテコ入れがない限り発生し得ない。

 こうした使用者-被使用者の関係は無限に連鎖する一方で、単純な上下の構造を持っているわけでもない。例えば上司‐部下などの一見上下が明白な関係でも、わずかではあるが上司の部下への従属といった事態を伴うのである。

 使用者と被使用者で共有される相互およびその他の人間に対する属性付与の各変数の設定は、衝突や歪曲を繰り返しながら社会全体に広がっていく。個別の変数設定を「カスタム設定」と呼び、俗世における代理業務ではこの「カスタム設定」への適応度合いのみが問題となるのである。

 

2. 被使用者の代理業務に対する使用者の一般要求事項

 それでは、その代理業務を成立させる使用者の要求事項とはどのようなものだろうか。個別のカスタム設定は具体的な人間関係に依存するため、それを取り扱うことはできないが、その共通事項としてありがちな「ジェネラル設定」を一覧として紹介する。

 個別のカスタム設定の内容が明らかでない場合でも、以下のジェネラル設定からあるそれを推測し、対応することができるだろう。

 尚、より下位のカスタム設定については日々の業務や生活での指摘事項をFBリストに書きこみ、ジェネラル設定により裏付けすることで早期かつ安定した俗世対応が可能となるとされる。

 

≪被使用者の代理業務に対する使用者の要求事項≫

要求事項

対応するリスク

上司・顧客

家族・友人

 Quality

  • 安全でおいしい物事が提供されること
  • 事故・損害および信用低下リスク
  • 根回しや諸事項確認による事故・損害リスクの撲滅
  • 成果物が趣味・嗜好に合うことによる感覚的満足
  • 成果物が信頼向上に寄与すること
  • 根回しや諸事項確認による事故・損害リスクの撲滅
  • 成果物が生理的に受け入れられるものであること

 Cost

  • 手間がなく楽に物事が進むこと
  • 思考・作業・会話コスト増加リスク
  • 意図の汲み取りや作業のリスト化による思考コスト低減
  • 自発的な着手・進行による作業コスト低減
  • 自発的な話しかけ、相談による会話コストの低減
  • 場所・時間・行動・話す内容等に関する思考コスト低減
  • 上記のリスト化よる作業コスト低減
  • 自発的な話しかけ、問いかけによる会話コストの低減

 Delivery

  • 調達期日が十分に早く、調達スピードが十分に速いこと
  • 遅延・作業依存度上昇リスク
  • 早めの納期設定による作業依存度低減
  • 依頼したものがすぐに出てくることによる不安コスト低減
  • 早めの応答設定による作業依存度低減
  • 質問への素早い解答による不安コストの低減

 

 

3. 代理業務運用の4側面

 それでは、2.で述べたような要求を満たす代理業務はどのように運用されるのだろうか。運用には①要求事項スコープ②成果物スコープ③Operational Process④メタ・モチベーションの4つの側面があると考えられる。

 ①は満たすべき要求のリストであり、その一般化されたものは2.で既に述べた。②は業務を通して依頼者に提出する成果物のリストであり、WBSやタスクメモ、相談事項リストなどがこれに当てはまる。

 ③は①②を提出するための手の動かし方である。最もハイレベルな定式化は「すぐやる」「全部やる」「思い出す」という3つの「俗事の掟」として行うことができよう。これらは全て①要求事項スコープを個人の行動のレベルまで落とし込んだものと言える。

 これらの①~③を遵守する起点となる④メタ・モチベーションの維持だけは標準成果物による定式化を免れてしまい、俗世対応において最も難易度の高いタスクである。メタ・モチベーションとは「やる気を出すためのやる気」であり、何かしらの手法によって感情や関心を発生させることへの感情・関心である。感情や関心を発生させる方法については巷に様々な理論・論理があふれているが、メタ・モチベーションに関する研究は今のところほぼ存在しないのが現状である。*1

 

≪代理業務運用の4側面≫

側面

成果物の例

 ① 要求事項スコープ

  • 代理業務に対する使用者の要求事項(表), FBリスト

 ② 成果物スコープ

  • Core WBS, Team WBS, 日報, 手帳, タスクメモ

 ③ Operational Process

 俗事の掟

  • すぐやる
    • やるべきことは無限にある
    • タスク化の前に終わらせる
    • 手が届かなければタスク化する
  • 全部やる
    • その都度要素を列挙する
    • ナンバリングして数え上げる
    • 自然な流れに並び替える
  • 思い出す
    • やるべきことを思い出す
    • 行動規範を思い出す
    • 他人の目線を思い出す

 ④ メタ・モチベーション

  • (定式化不可能)

4. 不定形なメタ・モチベーションの強要における暴力性

 メタ・モチベーションに関する考察の困難性は、それが孕む無限後退という性質に由来する。モチベーションに対するモチベーションを設定してしまうと、それに対する更なるモチベーションへの考察が必要となる。下図のようなモデル化は、そのような意味で、メタ・モチベーション自体に内在する特性に踏み込んでおらず、ブラックボックス化しているに過ぎない。*2

 

≪ メタ動機付けを含む動機付けの調整過程 ≫

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 一方で、無限後退を発生させ得るとしても、メタ・モチベーションに対する考察は必要である。何故なら、モチベーションそのものを平板化・絶対化・ブラックボックス化することは、それを信仰の対象に仕立て上げてしまうことを意味するからだ。それこそが「なんだかよく分からないけれど頑張る」という発想を人に植え付け、俗世ないし社会の人間の物象化サイクルに根本的に寄与するクリティカルな装置なのである。我々はなぜこのようなサイクルに手を貸さなければならないのかを絶えず問わなければならないのである。

 哲学・人文科学的には、メタ・モチベーションは行為の中断性・究極性・暴力性という伝統的テーマから説明可能であると考えられる。古来より、特にドゥルーズサルトル等によって言われているように、人間の行為には絶対的な理由が伴い得なく、むしろそうした背景を中断することこそが行為なのである。それは分析・分解の極に至った後の人間の「ユーモアへの折り返し」であり、神経症から分裂病への切り返しであり、生存の確保においてどうしても避けては通れないことである。*3

 「何かをする」ということには何の根拠も伴わない一方で、正しさや理解を知的に志向する限りは無いはずの根拠を問い続けなければならないが、それにもかかわらず考察をいったんやめ、無根拠に出来事を進めなければならない。こうした絶望的な決意こそが、メタ・モチベーションを操作することを意味すると考えられる。

 従って俗世の暴力性の根幹は、中断・決断・行為という一つの暫定的結論を、本人の思考以外の場所から強要することにある。結局のところ、俗世が我々に対して要求しているのは「あなたが色々考えている時間は、そうやって考えることではなく、私たちに提供されるべきQCDの達成のために用いられるべきである。故に、『考えるな、行動しろ』!」という趣旨に他ならないのである。先ほど引用した赤間(2012)の図は、メタ・モチベーションの内容自体に迫ってはいないものの、「自らの思考以外の領域が無根拠な決断を要求している」という趣旨には合致しており、非常に示唆的な図であると考えられる。

 こうした強要に対抗するには、これまでに述べてきた強要のプロセスを自覚し、部分的に従いながらも、常にそれから逃れる方法を考え続け、何かしらのインプットまたはアウトプットに反映することである。我々「弱者」にとっては、そのように「逃げる」ことへの志向が、一つの安全なメタ・モチベーションの形式になり得るのである。

 

5. 使用者=加害者としての「自分」

 ここまでは「被害者」として俗世ないし社会から受ける被害を定式化することに務めてきた。しかし、「被害者面をして自分以外のものを非難する」ことほど簡単なものは無いといわれる。事実、誰もが多かれ少なかれ俗世ないし社会の暴力性に苦しめられているが、それにもかかわらず俗世の目に余る暴力のサイクルが維持されているのは、俗世ないし社会の構成員である我々一人一人が、自分が加担している暴力に無自覚であるからなのではないだろうか。そこで、いったん自分の行動を振り返り自分を「加害者」という観点から分析してみると、何が見えてくるのだろうか。

 例えば私(筆者という人間)の、使用者としての被使用者に対する要求事項をQCDの観点からまとめてみると、以下のようになる。*4

 

≪筆者における被使用者へのQCD要求事項≫

  • Q成果物が生理的に受け入れられるものであること(文法・ロジック・体系性)
    ※事故・損害リスクの抑制は要求せず
  • C自分から具体的な話題の材料を提供してくれることによる会話コストの低減
    ※思考・作業コストの低減はほとんど要求しない
  • D決断が早いこと・速いことによる不安コスト・作業依存コストの低減

 

 ここから、この個人の「自分が達成しやすいものを他人に要求しがち」であるという傾向が導き出される。さらにこの筆者という人間は、これらのQCD基準を満たす人間を「仕事のできる人」として認識しがちであり、そこには「できる/できない」の伝統的二元論による能力に関するレッテル貼りが行われている。

 さらに悪質なのは、筆者という人間は、そのような属性やコミュニケーションの形式の押しつけに気づかず、相手を知らず知らずのうちに自分のフレームワークに押し込めてしまっているという事実である。このスタンスは究極的には、「あなたが色々考えている時間は、そうやって考えることではなく、私たちに提供されるべきQCDの達成のために用いられるべきである。故に、『考えるな、行動しろ』!」という俗世の主張を自分から発信することに繋がってしまう。

 属性付与やコミュニケ―ションの固定化は、必然的に俗世と同じ暴力に加担しながら自分が生きることを許すことである。このような暴力性をゼロにすることは俗世に関わっている時点で不可能であるが、少しでも自分の発揮する暴力性を自覚し、嫌悪し、それに抗おうとすることが、俗世の「俗」たる汚染作用から身を守っていくために必要である。そうした中途半端な潔癖症こそが、自分にとってのメタ・モチベーションのもう一つの側面になり得るかもしれない。

 

6. 終わりに

 本論考では、俗世対応の基本方針をまとめてきた。この方針を以て、他人または自分が要求する個別のカスタム設定への考察・対応の足掛かりとしたい。

 生存自体がat stakeとなるような自分自身を「被害者」として見た場合、まず自分がなぜ「競争」を降りなければならないかを自覚する必要がある。その鍵は、カスタム設定や属性付与をすぐに飲み込めないという自分の「消化能力」不足にある。

 次に、生存のために世の中の慣習が生み出した大まかな枠組みである「ジェネラル設定」および「代理業務運用のプロトタイプ」を起点に、カスタム設定の解釈及びそれらへの対処を行うことになる。但し、メタ・モチベーションの強要による被暴力の範囲を限定し、自分が完全に壊死しないための思考の余裕を作り続けることが必須である。

 一方で「被害者」であるはずの自分自身は、少し見方を変えて観察してみるだけで「加害者」、すなわち「使用者」と同じ要求・主張を発信していることにも気づく。生を営む上で俗世の暴力性への加担は避けられないとはいえ、常にそのプロセスを把握・嫌悪・糾弾し、少しでも「穢れなき」自分を欲望することも、これから生を保っていくための大義名分になりうるかもしれない。

 僅かであるが可能な努力を通じて、俗世とはほんの少し「違う形で」存在し、その存在を以て、俗世とはほんの少し「違う形で」物事を理解しようとすることこそが、私の当面の目標である。

 

*1:2020-12-20追記: 後に友人から教わったのですが、この問題はメタ倫理学の「動機付け理論」という分野で扱っているとのことです。H.フランクファート、M.スミスといった方々が特に意欲の無限後退問題を扱っているらしいです。興味のある方はぜひ調べてみてください。

*2:赤間(2012)『動機づけることが難しい理由の発達的検討 ―メタ動機づけの観点から―

*3:千葉雅也(2017)『勉強の哲学 来たるべきバカのために

*4:この箇所はもともと私の本名が入っていたのですが、流石にブログという形式上削除しました。